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Yoz Art Space

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木洩れ日抄 110 お財布忘れて

2024-09-24 20:56:38 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 110 お財布忘れて

2024.9.24


 

 やっと涼しくなったので、今日こそはと思って、鎌倉へ出かけた。カメラは何にするか、レンズはどれを使うかといろいろ考えたが、まだ早いとは思うけど、英勝寺のヒガンバナの様子でも見てこようかと思って、上大岡から地下鉄で戸塚まで、それからJRで鎌倉へ、といういつものコース。

 ところが、地下鉄車内で、ふとカバンの中に財布が入っていないことに気づいた。ポケットを探ったら10円出てきたけど、現金が10円しかないとなると、英勝寺の拝観料が払えない。英勝寺は小さな尼寺で、入口に尼さんがいて拝観料を払うのだが。PayPayなど見た記憶がない。やっぱり現金のみだろう。ああ、どうしよう、尼さんに頼んで今度来たときには倍払いますから何とか入れてくださいと頼もうか、なんかOKしてくれそうな気もするけど、あまりにカッコ悪いしなあ、と、あれこれ考えた。

 たぶん、円覚寺なら、受付も大きいから、PayPayとかSuicaとかが使えるかもしれないけど、北鎌倉となると、どうしたって、浄智寺には行きたい。しかし浄智寺の受付も、PayPayやっている雰囲気じゃないから、現金だけだろうなあ。ああ、どこかに500円玉でも落ちてないかなあなどと思っているうち、まあ、スマホで電車には乗れるから、とりあえず、江ノ電に乗って、海でも撮ろうと決めた。

 江ノ電は、そんなに混雑してなかったので、稲村ヶ崎あたりまで行ってみようかと思ったけど、雲が多いので、海もイマイチな感じがして、そうだ、あんまり好きじゃないけど長谷寺なら、商業主義的で、自動チケット売り場もあるから、Suicaあたりで決済できるはずだと思って、久しぶりに長谷で降りた。さすがに、インバウンド人気で、人通りも多い。歩いているうちに、そうだ、長谷寺に行く前に、ぼくの好きな光則寺によっていこう。たしか、あそこは拝観料が無料だったはずだと思って、そっちに向かった。

 しかし、光則寺は、受付はないけど、山門の下に賽銭箱のようなものが置いてあり、「入場料」(ってとこがおもしろいね。長谷寺に比べると商売っ気ゼロ。)100円を入れてくださいと張り紙があった。そうだった。何度も来ているのに忘れてた。でも、ここでは知人主催で、落語会もやったことあるし、住職とも多少面識がある。こんど来たとき、倍払おうということにして、入った。ここの庭は、雑然としているところがいい。英勝寺と似ている。

 あちこち写真を撮っているうちに、そうだ、この寺には、元同僚(この方が、ここでの落語会を主催したのだ。)の息子さんのお墓があるんだった。お彼岸だし、お参りして行こうと思った。お寺の裏に広がる墓地は結構広く、息子さんのお墓は前にもお参りしたことがあるのに、探すのに苦労したけど、なんとかお参りをすますことができた。

 お参りをおえて、庭においてある大きな石に座って、コンビニのおにぎり食べながら、しみじみと元同僚の息子さんを偲んだ。なくなったのは、15年も前。ずいぶんと時が経ったものだ。財布を忘れたのも、結局ここへ来るためだったのかもしれないと、ふと思った。

 長谷寺は、Suicaで支払えたけど(400円)、やっぱり、おもしろくなかった。光則寺や英勝寺の趣がなく、観光の寺だ。観音像は立派だけど、境内にオシャレなレストランなんかいらない。

 長谷寺を出るとき、江ノ電でも撮りながら帰ろうと思って、それまで使っていた50mmf1.2のレンズを外して、ズームレンズにかえようとしたら、ズームレンズの片方の(フィルターつける方じゃない方)の、レンズキャップが外れない。どんな力を入れても外れない。こんなことは初めてだったが、ま、しょうがない。もうメンドクサイから写真は今日はおしまいということにして、長谷駅に行ったら、ホームで、何人ものジイサンが一眼レフを構えて電車が入ってくるのを待っている。黄色い線は越えてないけど、なんか、身を乗り出した彼らの姿が、いい年してみっともなく感じて、江ノ電なんか、いいかげんにしておいたほうがいいなあと思いつつ、帰途についた。キャップが外れなかったのも、江ノ電なんかやめておけということだったのかもしれない。

 ちなみに、外れないキャップをどうにかしてもらえないかと、帰りがけに、ヨドバシに寄ったら、売り場のオニイサンが、思い切り力を入れてもやっぱりはずれない。おかしいなあ、こんなの初めてですよ。これ以上力を入れると、レンズを壊してしまう可能性がありますから、修理に出されたほうがいいと思いますよというので、修理のカウンターに持っていったら(と書いたけど、実際には、修理に出すにもヨドバシのポイントカードがあったほうがいいから、忘れてきた財布をとりに家にもどってからまたヨドバシにいった。メンドクサイことである。)、そこのオニイサンもうんうんやっていたけど、ダメですね、じゃあ、修理に出しましょうといいながら、もう一度、ちょっとキャップに触ったら「あ、とれた!」っていうので、びっくりした。ぜんぜん力を入れてないのにみごとに外れた。そうか、力を入れすぎたから外れなかったのかと思ったけど、不思議なことである。

 まあ、なんだかんだと、近頃は、何をやるにしても思い通りにはいかない。若いころの倍の手数がかかる。こうやっているうちにも、どんどんと年を取っていくのである。

 

 


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木漏れ日抄 109  『光る君へ』──発見と感動

2024-09-23 19:22:33 | 木洩れ日抄

木漏れ日抄 109  『光る君へ』──発見と感動

2024.9.23


 

 昔は、大河ドラマはあんまり見なかった。歴史物が苦手ということもあったが、セットがチャチというのも理由の一つだった。山道を歩いているのに、明らかに板の上を歩いている音がするといったチャチさが我慢ならなかった。

 ポツポツと見るようになったのは、『龍馬伝』あたりからだったろうか。『真田丸』も見た。その後、また見なくなって、『鎌倉殿の13人』に至って、初めて本気で見た。「予習」までしたくらいだ。それまで「武士」とか「武家政治」とかいったことを、なんとなく知っているつもりでいたが、「予習」していくうちに、そうか、「武士」ってこういうふうに発生したのね、というような発見に満ちた本が何冊もあって、すごく勉強になった。そのうえで、『鎌倉殿の13人』を見ると、鎌倉武士というものがそれまでのイメージとぜんぜん違うものに見えてきて、楽しかった。(というか、ぼくの勉強不足にもほどがある、だよね。)

 しかし、その勢いで見た『どうする家康』は、安手のCGばかりで、なんとかの戦いとかいっても、いつも同じ山中で数十人が戦っているばかりで、これならかつての戦国ものの大河のほうが数段マシだと思われた。ただ、家康の人物像には新しい知見が盛り込まれていたようで、おもしろかった。

 で、今回の『光る君へ』である。平安時代の大河なんて、しかも、紫式部が主人公なんて、いったいどんな変なドラマができるのかと思うと見る気がしなかった。大昔の、長谷川一夫だったかが光源氏を演じたらしい映画が見てもいないのに思い出されたりして、げんなりするばかりだった。

 ところが、青山高校時代の教え子の娘さん(見上愛)が、なんと彰子中宮役に抜擢されたと聞いて、これは見なければ、せめて、まだ新人の見上愛が、彰子中宮などという大役をどう演ずるのかだけでも見届けなければ、と思って見始めたのである。
見始めて数回で、これが稀代の名作であることを確信した。すでに、35回を終えたドラマだが、とにかく、ぼくには発見と感動の連続である。

 書きたいことがありすぎて、どこから書いたらいいのか分からないほどだが(だから、これからポツポツと時々書いていくことにするが)、何よりも、ぼくがびっくりして感動したのは、「紫式部が、『源氏物語』を書いている」シーンである。なんだそんな当たり前のことかと思われるかもしれないが、自慢じゃないが(十分自慢だけど)、ぼくは、『源氏物語』を今まで2回原文で通読してきたのである。さらに自慢すれば、「桐壺」とか「若紫」とかは、その一部ではあるが、何十回となく授業で読んで来たのである。一時間でたった2〜3行について細かく読むことさえしてきたのである。「桐壺」冒頭なんかは、今でも暗記できるほどなのである。(ま、元国語教師ならそれぐらい当たり前だけど。)

 そのぼくが、このドラマを見るまで、紫式部が筆を持って「源氏物語」を執筆しているシーンを想像したことすらなかったことに気づいたのだ。紫式部が、『源氏物語』の作者であることは、確かなことだ。一時は、「宇治十帖」の作者は紫式部ではないと与謝野晶子が言ったりしたことがあったが、それも今では大方否定されているようだ。

 『源氏物語』の作者は紫式部であり、『枕草子』の作者は清少納言である。『蜻蛉日記』は、藤原道綱の母が作者であり、和泉式部は『和泉式部日記(あるいは和泉式部物語)』を書いた。そんな文学史的な「常識」を、何の疑いもなく、古文の授業ではとうとうと話してきたのに、彼女らが、それらの文章を「書いた」のは、何故だったのか、どこから「書く」ための紙を手に入れたのか、などということに思いを巡らせたことがなかったのは、いかにも不可解だった。

 その不可解さを、大学時代の旧友に話したところ、彼の反応も、さすがにぼくほどではなかったけれど、似たところがあった。

 日記はともかく、物語となると、『宇津保物語』にしても、『夜半の寝覚め』にしても、『浜松中納言物語』にしても、多くの物語の作者は、いろいろ説があるけど、定説がないからねえ。だから、物語って、「まずそこにある」ものとして考えちゃって、誰が何のために書いたかというようなことは、昔はあんまり話題にならなかったんじゃないかなあと彼は言う。

 ぼくらが源氏物語の読書会をやったのは、大学時代のことで、それからもう50年以上も経っている。源氏物語などは、もう研究されつくされてしまっているんじゃないかと大学時代はなんとなく思っていたけど、実は、その後、様々な研究がなされてきたのだった。それも知らずに、旧態依然たる「源氏物語観」から抜け出せないままに、『光る君へ』を見て、愕然としたのも当然だろう。

 ちなみに、ぼくらが大学生だったころの文学研究のトレンドに、「分析批評」というのがあって、それは、文学作品の歴史的な背景とか、作者とかいったものを「無視」して(ちょっと乱暴な言い方だが)、とにかく「文章そのもの」だけを、純粋に、分析的に読んでいくという研究方法だった。『古文研究法』で有名な小西甚一先生などがその急先鋒だった。(先生の講義も直接伺った。)だからというわけでもないだろうが、『源氏物語』に関しても、紫式部本人にスポットを当てて研究するということはあまり盛んではなかったのかもしれない。その影響もあってか、あえて、「作者」に注目しなかったのだ、と一応言い訳することはできる。

 『光る君へ』には、もちろん史実とは認めがたいフィクションも多くある。しかし、これはフィクションでしょと思ったことが、実は学問的に裏付けられていることが非常に多いことを知って、びっくりしたのだった。

 これは、気鋭の国文学者山本淳子の『紫式部ひとり語り』(角川ソフィア文庫)や『枕草子のたくらみ』(朝日選書)を読んだことにもよる。これらの本を読んで、そうか、こんな研究があり、こんな論文の書き方があったのかと感嘆するとともに、脚本家の大石静がこれらの研究を熟読していることも確信したのだった。

 それにしても、『源氏物語』は2度も通読したのに、『枕草子』を通読したことがないという不勉強がいけないのだが、清少納言が「はるはあけぼの…」の段を「1枚の紙」に書いて、定子へ渡すために、御簾の下から差し入れたシーンの美しさに、思わず息を飲んだ。そうか、この文章は、こんな思いで書かれ、こんなふうに定子に渡されたのか、と思うと、心がふるえた。実際にはその通りではなかっただろう。これは「一つの説」に過ぎないのかもしれない。しかし、十分にありえたシーンだろう。

 『枕草子』が、今では文庫本でも手軽に読める時代とはまったく違って、「出版」ということもなく、紙も簡単には入手できない時代、文章を書くということの意味も今とはまったく違っていたのだ。そんなことは当たり前のことで、ぼくだって、そのくらいのことは「知って」いた。けれども、「知っている」ことが、単なる「知識」であっては不十分なのだ。「ありありと、体験したかのように知る」ことが大事だ。だからこそ、歴史ドラマには意味がある。と同時に、危険性もある。歴史考証がいい加減だったら、「誤った知識」が定着しかねない。フィクションとしての「歴史ドラマ」の限界もあるわけである。

 今回のドラマにも危うい点がいろいろある。視聴者が「フィクション」であるということの意味をしっかり理解せずに、そのまま「史実」として受け取ったら困るという点もある。昨今のSNSの反応などを見るにつけ、その点の理解が驚くほど浅いことにも驚かされているのだが、それはまた別の機会にしたい。

 ぼくがこのドラマを見始めたころの最大の興味は、見上愛の演技にあったことはすでに書いたが、もうひとつが、紫式部がいったいどのようにして「文学(物語)」に目覚め、どのようにして『源氏物語』執筆に到ったのかという大きなテーマを、脚本家の大石静がどのように描くかということだった。いわば「文学の誕生」の物語である。こんなテーマの大河ドラマがかつてあっただろうか。

 そして結論的にいえば、見上愛は、ぼくの想像を遙かに超えた演技力で彰子中宮を演じつづけているし、『源氏物語』は、見事に誕生し、さらに『紫式部日記』が、なぜ彰子の出産シーンから書き起こされたのかまで「解明」されている。見事なドラマというほかはない。

 まだ、最終回までは、時間がある。最後の最後まで、しっかり見届けたいと思っている。

 

 


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木洩れ日抄 108 おもしろい絵を……

2023-12-28 21:13:44 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 108 おもしろい絵を……

2023.12.28


 

 姚小全先生(ぼくが、6年ほど前から師事している中国書画の先生)曰く、「上手な絵ではなく、おもしろい絵を描きなさい」。字もまた同じ。上手な字は「お習字」で、決して「芸術」ではない、とも。「手が震える老人のような線で、字も、絵もかけ。」と中国ではよく言われるそうだ。

 先生自身が目指しているのは、とにかく「趣ある絵」であり、字だ。それで、いつも先生は悩んでいる。悩んでいる姿をいつも生徒の前にさらしている。これは、最高の教育だ。何に悩んでいるのか、それが分かれば、生徒の目標が自ずとできる。

 人物の顔に色をつけるとき、少量の絵の具を筆につけて、「塗る」のはダメで、水分たっぷりの絵の具をつけて「染める」こと。そうする絵が「うるうるしく」なるという。先生は日本語がかなり上手だが、なかなか覚えられない言葉もある。それが「みずみずしい」という言葉で、何度かお教えしたがダメで、いつも「うるうるしい」と言う。分かるからそれでいいんだけど、初めて習う人は面食らう。

 「すぐろい線を描きなさい」という言葉を、習い始めて数年間、どういう意味だろうとずっと考えていたが、ある日、「すぐろい=するどい」だと気づいて、そう伝えたら、そうそう、そうだよということで、長年の胸のつかえがおりたこともある。しかし、言葉が分からないということは、そう悪いことでもなくて、分からないからその言葉が気になり、忘れっぽいぼくでも、いつでも覚えている。「すぐろい線を描かなくちゃ」って思うわけだ。そう思うと、先生の声まで聞こえる気がする。

 賛を描くときも、上手に書いてはダメ。そうすると、字が目立ってしまって絵を台無しにしてしまう。枯れ木が描かれている絵なら、その枯れ木のような線で、字も書くこと。字と絵が調和するようにすること。落款も、読めなくたっていい。趣深く、おもしろく書くことが大事なんだ。

 あるとき、高齢の(といっても、ぼくより少し年上にすぎなわけだが)生徒さんが描いた絵に、その方の奥さんが賛を書いてきたことがあった。その奥さんというのは、個展をするほど書歴の長い人で、とても上手に書いてあったのだが、それを見て、先生の言う意味がはっきり分かった。絵と書が完全に分離してしまっていていたのだ。旦那さんの絵を、奥さんの達筆が、「台無し」にしてしまっていた。つまり、書と絵の雰囲気があまりに違いすぎたのだ。

 ことほどさように、絵と書は、むずかしい。ぼくは書が決して上手ではないのだが、それでも、先生は、あなたの書は「慣れすぎている」から、そこから抜け出さなければダメだと言う。

 じゃあ、下手にかけばいいのかと思って、いい加減にかくと、「もっと気をいれろ」とおっしゃる。「気を入れて」しかも「下手にかく」なんて、どうやったらできるの? 

 あなたは教師だったから真面目。だからダメなんだ、と言われてこともある。これじゃ身も蓋もない。教師としては決して真面目じゃなかったのだけれど、「根が真面目」なことは確かだ。家内に頼まれたことなど片っ端から忘れまくって、年中叱られているような男のどこが「真面目」なのかという話だが、「真面目」の方向性が違うのだろう。

 むずかしいなあ。絵を描くにしても、字を書くにしても、あるいは写真を写すにしても、どこか枠にはまっていて、自由になれない。奔放になれない。これはぼくの生まれつきの性格というよりは、中高時代の「悪しき教育」のせいだとしかいいようがない。

 なにしろ、徹底的な規則づくめの生活指導で、そこから逸脱することなんか許されなかった。といっても、平気で逸脱するヤツも当然いたわけだが、小心者のぼくには懸命に規則に従うしか生きる道はなかったのだ。そのくせ、昆虫採集に熱中しだした中3のころからは、「勉強すべし」という規則を破りまくったわけだが、それでも心の中に染みついた「規則を守るきまじめさ」は、拭いようもなく、成人してからも、そこからなんとか自由になろうとして絶望的な「努力」をしたものだ。しかし、そんな「努力」をすること自体、矛盾してるとしかいいようがない。まあ、それでも、卒業して50年以上も経った今では、長年のボケにも磨きがかかって、すっかり「いい加減なジジイ」に成り果てているけれど、それでもなお、紙に向かって字や絵をかくとなると、その「まじめさ」がフツフツと指先からよみがえってくるというアンバイだ。

 今更うらんでもしょうがないが、そういう「教育」を教師として極力しないようにしてきたことも確かなので(ほんとか?)、それがせめてもの救いであろうか。「救い」かどうかは別としても、ぼくは人に「押しつけること」が大嫌いだったので、そうなるしかなかったのだ。ということは、結局、教師失格だったということであろう。

 とにかく、来年は、「芸術方面」では、自由・奔放を心掛けたい。「生活方面」では、真面目であろうとするしか道はない。なんだかどっちも無理な気がしてしかたがないのだが。

 

 


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木洩れ日抄 107 キンダースペース「モノドラマアンソロジー もう一人の私」を観て──新しい「モノドラマ」へ

2023-10-17 15:48:35 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 107 キンダースペース「モノドラマアンソロジー もう一人の私」を観て──新しい「モノドラマ」へ

2023.10.17


 

 キンダースペースの「モノドラマ」は、今や成熟のときを迎えた。もう25年もやってきたという。ほんとうに、すごいことだ。

 「モノドラマ」では、当初から日本の近代文学を取り上げてきたのだが、今回初めて海外文学を扱い、更に、原田一樹のオリジナル脚本まで含まれた。しかも、全6本に共通するテーマを設定し、それが今回は「近代」だった。画期的である。

 演技もまさに成熟してきている。ぼくは今回Aプロしか見ることができなかったが(Bプロも見たかった。残念。)、丹羽彩夏、関戸滉生、瀬田ひろ美の3人は、経験年数はあれ、それぞれの「成熟」を成し遂げている。それは演技の成熟であると同時に、演出の成熟であることはいうまでもない。この二つを分かつことはできない。いくら演出が成熟していても、演技がそれを体現しなければ「演出の成熟」を観客は実感できないからだ。そういう意味で、「モノドラマ」は、ほんとうに意味での「成熟」を成し遂げたのだ。

 だからこそ、「踏み越え」は必然だったのだと思う。海外文学へ、そして、オリジナルへ、と。

 丹羽彩夏の「夏の葬列」(山川方夫作)。のっけの発声から素晴らしい。よく通る声、輪郭ただしい美しい発音。その声が、舞台に夏の海と、葬列と、空襲をくっきりと浮かびあがらせ、そして、男の内面のドラマを精密に描きだす。白と、青と、赤の色彩が、まぶしい。舞台には、切り取られた海と、芋の蔓しか存在しないのに。

 何もないところに、生々しい「物体」あるいは「現実」を、現出させるのが、演劇の大きな魅力であり力だが、「モノドラマ」は、その極北だ。能・狂言の世界に近いが、舞台に立つのがたった一人という点で、それを凌駕する。

 関戸滉生の「ある統合失調症患者の証言」(原田一樹オリジナル脚本)。関戸の演技の見事さは、毎度のことだが、今回はとくに素晴らしかった。「モノドラマ」では、何人かの人物を描き分けることが必要になるが、この芝居は、「独白」であり、今までの「モノドラマ」っぽさはない。しかし、この「独白」は、「ある友人」の話として、友人の独白として始まり、最後は、これは自分の話なのだという結末に至るよくあるタイプの流れなのだが、それが「統合失調症」という病の患者の話であるという事情から、演ずるのがじつに困難な芝居となっている。

 まず、役者が話し始めるとき、役者は、「健常者」として話し始める。やがて「友だち」から聞いた話だとして、「友だち」の代わりに話し始める。その「友だち」の独白は、次第に狂気を帯びてくるのだが、その「統合失調症患者の世界」が孕む歓喜と恐怖が、あまりに見事に描かれたために、ぼく自身までその世界に連れ込まれていくような恐怖さえ感じたほどだ。

 それは、この芝居の最初に、「私」がこの「友人」の話をしたと思ったのは、「私」もまた、なにかのきっかけがあれば、「友人」と同じような体験をしたかもしれないと思ったからです、というセリフがあったからだといえる。このセリフによって、観客であるぼくもまた、この「友人」の体験を自分もしたかもしれないという思いを持ったのだ。さすがは、原田さんだ。

 「狂気」と「正常」の間を揺れ動く一人の人間を演じ分けるのは、とても難しいことだ。とくに「狂気」と「正常」が、実はそれほど隔絶したものではなく、境を接しているのだというのが、この芝居の核心なので、その「間」を、微妙に、しかも、正確に演ずる力が試される。そしてそれができなければ、この芝居は成立しない。この困難を、関戸は見事に乗り越え、おそらく作者の想像を超えた世界を現出してみせたはずだ。拍手である。

 瀬田ひろ美の「エドワード・バーナードの転落」(サマセット・モーム作)。これは一転して、1人の女と2人の男が登場して、錯綜したドラマを展開する、別の意味で難しい芝居。成熟しない俳優がこれを演じたら、何がなんだか分からなくなってしまうだろう。

 登場するのは、男と女だ。女はまだいいとしても、男は、個性のまったく違う二人。この三者をどう演じ分けるか。ベテランの瀬田は、大げさに声色を使うことも、身振り・表情に特別な差異を設定もせずに、セリフと単純化された所作で、対処する。

 亡くなった落語家の小三治が、師匠の小さんから教わったことに、「了見」ということがあったという。よけいな技術は要らないんだ、ただその「了見」になればいい、というのだ。つまりは、演じる人物そのものにこころからなりきればいい、そうすれば、自然とその人を演じることになるんだということだ。これは、簡単そうで難しい。難しいが、これしか、ない。

 瀬田ひろ美が、小さんや小三治に匹敵していると言っているわけではもちろんないが、その域に近づいていると言ってもいい。それでも言い過ぎなら、このまま精進して、近づいていってほしいと言っておきたい。

 さて、テーマたる「近代」は。

 パンフレットで、原田一樹は、「作家あるいは表現者は、この社会や自分の暮らす生活圏の事象に違和や不安を覚え、作品化したり外部表明する衝動を覚える」と言う。その「違和」や「不安」の大元に、「近代」が横たわっているということだろう。その「近代」は、ふたたび原田の言葉を借りれば、「文明の発祥以来『人』が抱えつづけ、いまだに私たちを追い詰めるモノの姿」として感じられる。それはおそらく「近代」の奥にある「モノ」なのだろう。原田が追い続けてきた日本の「近代文学」こそ、その「モノ」との格闘の壮絶たる「戦跡」にほかならない。

 山川方夫「夏の葬列」は、まさに「近代」が生んだとしかいいようのない戦争が、一人に人間の一生に深い傷を与え続けているという現実。しかも、「今」もなお、その傷が増殖しつづけているという途方もない現実を描いている。

 「統合失調症患者の世界」は、人間が「近代」を生きてこなければその世界に生きていたかもしれない「もう一つの現実」を示唆しているともいえる。「近代的価値」が、どんなに人間をゆがめてきたかを痛切に反省させらる。

 「エドワード・バーナードの転落」には、「反近代」がもっとも分かりやすい形で描かれている。「エドワード・バーナード」の人生を「転落」と規定することこそが「近代的価値」だからだ。

 新しい領域に踏み込んだ「モノドラマ」。これからの展開を心から楽しみにしている。

 


 

【パンフレットより】

 

★もう一つのモノドラマ

 

 「モノドラマ」をレパートリーの一つとしてから25年が経ちました。元々はこの小さい空間での発表に相応しく、朗読や一人芝居といった既存のものではないスタイルの模索からたどり着いた表現の形です。一人芝居との違いは、小説でいうと「地の文章」にあたる会話以外も含め、俳優が「語る舞台」であるという事ですが、これは一人の演者による演劇空間の創出として独自のものと考えています。
 題材は、ほぼ全て日本の近代文学の短編から取り上げ、俳優の「今」の身体による近代の再発見という試みでもありました。実はこれまで、能登や我孫子、熊本市など地方に出かけての公演も最多となっています。近年では、年2回のワークショップやワークユニットの年間の修了公演など、俳優スキルアップのための実践としてもたびたび試みています。
さて、今回の「もう一人の私」では、これまでの「モノドラマ」の創作法とスタイルをいくつか踏み越えようとしています。まず、6本のうち半数、海外文学(翻訳)を取り上げたという事。初の書き下ろしとして文学以外の題材を試みたという事。もう一つは、6本が共鳴し合うことで生まれるイメージを、これまで大きくくくっていた「近代」というものに置き換え、真ん中に置いたという事です。
 作家あるいは表現者は、この社会や自分の暮らす生活圏の事象に違和や不安を覚え、作品化したり外部表明する衝動を持ちます。その感受の角度や、表現の仕方にはもちろん個々の「違い」があります。しかし同時にそこには、その人が世界的な文豪であれ一人の患者であれ、共通する「何か」もまたあるはずです。この「何か」の奥に、文明の発祥以来「人」が抱えつづけ、いまだに私たちを追い詰めるモノの姿があるのではないでしょうか。
 ただ、全ての芸術は「これこそ、その正体だ」と、答えを出す事を賢明にも避けてきました。この「答え」もまた、人を追い詰めると知っているからです。私たちが願うのは、観客席の上空に、その「何か」が見え隠れする事です。本日はご来場ありがとうございました。ご感想をお聞かせください。

原田一樹

 

 

 

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 106 締めくくり

2023-08-28 13:09:23 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 106 締めくくり

2023.8.28


 

 平野謙は、「わが戦後文学史」の「はしがき」をこんな風に書いている。これを平野が書いたのは、昭和41年(1966年)のことだ。ちなみに、平野謙は、昭和53年(1978年)に亡くなっている。70歳だった。 


 戦後二十年間の歳月がとびさったことは、恩えば夢のような事実である。ほとんど戦慄的な事実だ。まだ一カ月にならぬから、つい先だってといってもいいわけだが、私は五十八回の誕生日を迎えた。もう二年たつと、私は還暦を迎える勘定になる。これも戦慄的な事実である。二十年前のいまごろ、私は故郷にあって島崎藤村論の原稿を書きついでいたか、書き終えていたはずだが、《近代文学》創刊号のために執筆していた自分のすがたを思うと、つい昨日のような気がする。しかし、あれから確実に二十年の歳月がすぎさったのである。そして、私自身も確実に変ってしまった。思いもよらぬ変りかたともいえるが、また、かくなり果つるは理の当然ともいえる。その歳月の意味をもう一度私なりに追体験することは、わが貧しい生涯の締めくくりとして、まんざら無意味でもあるまい。これからあとどれだけ生きられるか、とにかく死がそんなに遠くない地点までやってきている今日ともなれば、そんなことでもするより、私一個としてはもはや締めくくりようもないのである。
 わが貧しい生涯と書いたが、単なる修辞として、私は書いたのではない。ほとんどジダンダ踏む思いで、私は書くのである。昨今、しきりに思うことだが、小人珠をいだいて罪ありというような言葉にひっかけていえば、小人珠をいだいて罪なしというのがおれの生涯じゃなかったか、という気がする。これだけでは他人に通じにくかろうが、私のうぬぼれもこめて、そんな気がする。無念である。そこで、せめて我流戦後文学史でも書きのこしておこうか、ということにならざるを得ない。では、どんなふうに書くか。小説でいえば私小説ふうに書く。それよりない。つまり、この私が主人公となるわけである。自己中心の戦後文学史。江見水蔭にもそんな文学史があったはずだが、私もあのテでゆくしかない。ただし、私自身を主人公にするといっても、この貧弱な私をことごとく正面に押したてるという意味ではない。私の興味のある、私の関心をひく戦後文学の現象を、もう一度追体験してゆく、というほどの意味である。すべての文学現象にまんべんなくつきあって、客観的に精確な戦後文学史を書きあげるのではない、というくらいの意味である。それ以外に、目下のところ具体的なプログラムはない。


 この文章をつい最近、つまり、73歳も残りわずかとなった最近読んで、「戦慄した」わけではないが、いたく共感した。といっても、戦後を代表する文芸評論家の述懐にぼくのごとき者が「共感した」というのもおこがましいが、共感したんだからしょうがない。

 平野は、「戦後二十年間の歳月がとびさったことは、恩えば夢のような事実である。」というが、ぼくの場合は、「生誕73年の歳月がとびさったことは、恩えば夢のような事実である。」としかいいようがない。そして、「もう4年経つと、喜寿を迎える勘定になる。これも戦慄的な事実である。」といったアンバイである。

 平野の場合は、これはもうれっきとした文芸評論家であり、名をなした人であるから、いくら「貧しい生涯」だと言っても、彼がそう思っているというだけのことで、ハタではそうは見ないから、ヘタをすれば、嫌みになってしまうところだが、案外素直に読めてしまうというのも、ことの「大小」はともかくとして、人間が自分の生涯を振り返ってみて、「貧しい生涯だった」と思わないほうがよほど変わっているからであって、それゆえ、平野の思いには普遍性があるのである。

 それでも、平野の場合は、「自己中心の文学史」なんぞを書けるだけ、「貧しさ」も「ちゅうくらい」なのであって、それと比較するのもおろかなことだが、ぼくの場合は、何にも書くことがない。「自己中心の○○」の○○にあたるものが何にもない。あるとすれば「自己中心のぼく」だけであって、それじゃ意味がない。ぜんぜん意味がないわけじゃないけれど、限りなく意味がない。

 しかし、お前のこれまで書いてきた「エッセイ」とかいうヤツは、まさに、「自己中心のぼく」でしかなかったじゃないかと突っ込まれれば、ハイと答えてしょんぼりするしかないわけである。

 だから、ここだけは平野と同列に、「ほとんどジダンダ踏む思いで、私は書くのである」し、「小人珠をいだいて罪なしというのがおれの生涯じゃなかったか、という気がする」わけである。「小人珠をいだいて罪あり」というのは、「身分不相応なものを持ったために災いを招いてしまうというたとえ。」ということであって、したがって、「小人珠をいだいて罪なし」というのは、「せっかく身分不相応なものを持っていたのに、災いも招くまでもなく無駄に過ごしてしまった」というほどの意味になるだろうか。

 昨今の、さまざまな実業家や政治家の「不祥事」を見るにつけても、「小人珠をいだいて罪あり」の感を免れないが、それでも、せっかくの才能を「有意義に」使ったからこその「不祥事」であるわけで、まあ、「罪なし」で、出世したり、金持ちになるヤツなんてそうそういないだろうから、それはそれとして、「貧しい己」を顧みるにつけても、自分が「小人」であることは間違いないとしても、果たして抱いていたのは「珠」と呼ぶにふさわしいものであったかは、はなはだ疑わしい。平野流に「うぬぼれをこめた」としても、「何か珠らしきものはもっていたはずだ」と思うのが精一杯で、その精一杯をもってしても、「罪なし」であることは疑えない。平野にならって言えば「無念である」。

 平野謙は、「わが戦後文学史」を書いて、人生の「締めくくり」としたわけだが、さて、ぼくの場合、何をもって「締めくくり」とすればいいのだろうか。見当もつかない。見当もつかないということは、結局「締めくくる」ほどの人生でもないということだろう。あるいは、「締めくくる」ことができないほど、バラバラでとりとめもない人生であったということだろう。まあ、人生、終わったわけじゃないから、いそいで「締めくくる」ことなどないのだが。

 

 


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