顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

上田城…徳川の大軍を二度も撃退

2023年10月25日 | 歴史散歩
信濃の旅の続きです。
上田盆地のほぼ中央に位置した簡素な縄張りの城ですが、周りを水堀と土塁で囲み、南側は千曲川に張り出した急崖が天然の要害になっています。

真田昌幸が上田城を建て始めたのは、安土桃山時代の天正11年(1583)のことです。というか、当時この地方は、越後の上杉景勝と関東の徳川家康の勢力の境目で、家康に臣属していた昌幸は上杉への最前線の城として家康の援助で建てていました。

ところが小田原の北条氏直と同盟を結んだ家康から、上州沼田領を北条に渡すように命じられた昌幸がこれを拒絶したため、家康は天正13年(1585)に上田城攻撃を決意、昌幸は徳川軍の攻撃に備え上杉方に次男の幸村を人質として差し出し、上杉景勝に築城途中の工事援助を求め短期間で城を完成させます。やがて7,000人以上の大軍で押し寄せた徳川軍に対し、昌幸は巧みな戦略を用いてわずか2,000人足らずでこれを撃退します。これが第一次上田合戦です。
苦戦していた包囲軍が、家康の重臣石川数正が秀吉に寝返ったとの知らせに、あわてて陣をたたみ撤退を始めたともいわれています。

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは、真田昌幸と次男の幸村は西軍(石田三成方)につき、長男の信之は東軍(徳川方)に分かれて戦うことになります。昌幸と幸村は上田城に立てこもり、東山道を西上する徳川秀忠率いる東軍38,000人対して、わずか2,500人で籠城し、秀忠軍を7日間も釘付けにして関ヶ原の戦いに遅参させます。これが第二次上田合戦です。

関ヶ原戦後、昌幸と幸村は高野山の麓、九度山に幽閉され、真田氏の上田城は徹底的に破壊されたため、上田領を与えられた長男の信之は城下に屋敷を構え、元和8年(1622)には松代へ移封となります。そのあとに小諸から上田に入封してきた仙石忠政が、堀を再び堀り返して石垣を積み、7基の櫓と2基の櫓門を建てた上田城の姿が明治維新まで残りました。


当時城の直下を流れていた千曲川が造り上げた急峻な河岸段丘にある西櫓は、江戸時代から現存している唯一の建物です。


明治維新後、西櫓以外の櫓、櫓門は取り払われますが、城外に移築されていた2基の櫓は昭和17年(1942)城内に買い戻され、現在の南櫓(左)、北櫓(右)として再建されました。平成6年(1994)には東虎口櫓門(中央)が復元されました。

南櫓です。南側の崖下には当時千曲川が緩やかで深い天然の堀をつくりあげていました。崖面がもろく崩れやすい性質だったことから築城以来保護対策が行われ、大規模な石垣が設置されています。


急峻な崖の上部は砂利や小石が混じる礫層なので、大昔には千曲川の河床だったものが隆起したのかもしれません。現在は一部コンクリート吹き付けされて崩れをを防いでいますが、当時は千曲川に張りだしていたこの崖を見ると、堅固な守りの城を実感しました。


東側の二の丸と三の丸の深い堀は、当時は水堀でした。この堀底を上田丸子鉄道の線路が引かれていた時代もあり、この二の丸橋下辺りには駅があったそうです。


かっての水堀を二の丸橋で渡り、三の丸から二の丸に入ります。二の丸東虎口櫓門跡の石垣が両側に残っています。


城下町の中央にあり上田藩が時刻を伝えていた時鐘櫓が、城址入口の石垣に移され平和の鐘と名づけられています。


さらに二の丸と本丸への間にも水堀で守られています。


本丸手前の東虎口櫓門の石垣にひときわ大きな「真田石」があります。説明板には、真田信之が松代へ移封の際に父の形見として持ち運ぼうとしたが動かせなかったと書かれています。


土塁に囲まれた平坦な一画が本丸です。


本丸西側の水堀と土塁です。千曲川に面した急崖の南面以外の三方は、本丸、二の丸とも二重の水堀で守られています。


唯一当時の建造物の西櫓を裏側から撮りました。


本丸内にある真田神社は、明治維新まで7代166年間上田城主だった松平家の先祖守る松平神社でしたが、のちに歴代の上田城主である真田氏、仙石氏、松平氏を御祭神とするようになりました。徳川の大軍を2度も破ったので、「落ちない城」として受験生に人気の神社になっているそうです。


おなじみ真田幸村が、六文銭の陣幕の前に槍を構えて立っていました。三途の川での渡し賃「六文銭」を旗印にすることで、常に決死の覚悟で戦場に出たともいわれています。


本丸唯一のこの井戸には抜け穴があり、城の北側の太郎山砦や藩主居館に通じていたという「真田井戸」、覗き込んでも中は真っ暗でした。


やはりここは北国街道の信州…、城内の大きなナナカマドの木に真っ赤な実がびっしり付いていました。


車窓から撮りました。盆地の中心を流れる千曲川は、城を守る重要な堀として、また有名な川中島の戦いの場にもなりました。現在でも暴れ川の歴史を繰り返し、この地の人々の暮らしに大きく関わっています。やがてこの千曲川は越後の国に入ると信濃川と名を変え、日本最長367㎞の一級河川として日本海に流れ込みます。