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顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

低山でもへとへと…、体力の限界を知る

2020年12月12日 | 山歩き

初冬の好天に誘われて久しぶりに県境の低山を目指しました。
すっかり葉の落ちた登山道はカサコソと盗人除けの落ち葉道です。一本残って色を振りまくモミジ、コシアブラの白っぽい葉も散見されます。

しかしゆっくりの歩調で息は切れませんが、足の運びがままになりません。一歩一歩前に出していつもより1.5倍のスピードでも脚が重く……、もはや限界、頂上にたどり着かず8合目くらいの小さなピークをゴールとしてしまいました。

写真を撮る余裕もないなかで、道すがら探しても花はすでに冬枯れの中に埋もれ、やっと見つけた一枝のリンドウ(竜胆)も完全に倒れていました。先日拙ブログの「光合成」に載せた、花弁の葉緑素の斑点がよく見えます。

ツルリンドウ(蔓竜胆)の鮮やかな色が目を惹きました。同じリンドウ科で葉の形は似ていますが、花期は山に入らない夏なのであまり目にすることはなく、秋の赤い実になって気が付きます。

結局、標高差250mくらいが傘寿間近の我が体力の限界かと思い知らされ、山ばかりでなく身体でも冬の訪れをしみじみと感じました。

偕楽園…散り際の紅葉

2020年12月08日 | 水戸の観光

千波湖畔から偕楽園の東門へのスロープの紅葉はほぼ散りかけていました。コロナと昨年秋からの入園有料化の影響で観光客は激減しており、季節の色を見てもらえず残念でなりません。

大日本史完成の地の石碑が建つ一画です。水戸藩2代藩主徳川光圀公が明暦3年(1657)に着手し明治39年(1906)まで250年もかけて完成した大日本史、最後はこの場所に編纂局の彰考舘が置かれていました。

秋に行われる萩まつりの主役、園内に150群ある萩の大きな株が黄葉しています。

梅林はすっかり落葉しましたが、天保13年(1842)開園当初からの樹といわれるクヌギ、コナラの大木が色付いています。

偕楽園本園では一番の見どころ、吐玉泉下の紅葉は、崖から湧き出した水を湛えて一段と艶っぽく感じられます。

偕楽園は比高20m前後の河岸段丘の上にあり、水戸層とよばれる水を通さない地層と上市層という礫層の間からの湧水がたくさん見られます。

西門付近の紅葉…茨城県歴史館に通じる西門は、なぜか2か所に絞られた偕楽園入園口の表門への通路になったため通行量は増えましたが、園側の都合だけでの施策は大変評判が悪く、ぜひ再考をお願いしたいと思います。

藩主は水戸城から船で千波湖を渡り、南門からこの櫟門をくぐって好文亭に向かったといわれます。柱はクヌギの自然木で屋根は檜皮葺き、網代編みの門です。たまたま東京品川行きの特急「ひたち」が画面に入りました。

南面の崖に正岡子規の句碑が建っています。明治22年(1889)学友菊池謙二郎を尋ねて、友人と二人で水戸を訪れ「崖急に梅ことごとく斜めなり」と詠みました。

偕楽園に隣接する茨城県歴史館の水車小屋、散り際の美しさでしょうか、紅葉が一段と冴えています。

歴史館の銀杏並木はすっかり葉を落としました。落ちている銀杏の実も拾われずに残っています。奥に見えるのは、旧水海道小学校本館で明治14年(1881)の建築、歴史館開館を機に移設復元されました。

偕楽園公園の丸山と護国神社です。この丸山に光圀公が中国の詩人陶淵明を祀る「淵明堂」を建て、酒を愛した詩人を偲び堂の壁に猩々の絵を描かせたので、別名「猩々堂」とも呼ばれました。その故事に因み、猩々の名が現在、梅林や橋の名前に付けられています。

総面積13haの偕楽園は、周辺の緑地帯を含むと総面積300haの偕楽園公園の主郭になります。都市公園としては世界第二位の面積を誇る大きな自然の中には、何度行っても新しい発見があり、飽きさせることがありません。

季節外れの桜の花を二つ…

表門前の十月桜がひっそりと咲いています。10月頃に咲いて来春4月までを咲き続けますが、さすがこれからの厳寒期には弱々しい咲き方になります。

こちらは園内の見晴らし広場に咲く二季桜です。名前の通り春と秋の二回花を開きます。
いまごろ咲く桜をひっくるめて冬桜、寒桜ともいうようですが…。

忍ぶこと慣るゝは悲し冬桜  湯川雅
ひそみて淡し翁の魂の冬桜  有働亨
寂しくて青空を被る寒桜  関森勝夫
冬桜風が間引きし花の隙  高澤良一
つくづくと淋しき木なり冬桜  角川春樹

西蓮寺…樹齢1000年以上の大銀杏が2本

2020年12月05日 | 歴史散歩

茨城県行方市西蓮寺にある尸羅度山曼珠院西蓮寺は、奈良時代の延暦元年(782)に桓武天皇の勅願により天台宗の僧で最澄の弟子である最仙によって創建されたと伝えられる天台宗の古刹です。

この時期には最仙上人お手植えと伝わる銀杏の巨樹2株の黄葉が見事に境内を彩ります。
1号株は樹高約25m、幹囲約6m、2号株は樹高約27m、幹囲約8mで火災や台風の被災を耐え樹齢は1000年以上、老樹の特徴である雄大な乳根を垂らしています。

大銀杏に見守られて立つ相輪橖(そうりんとう)は天台宗の仏塔の一種で、鎌倉時代の弘安10年(1287)元寇の役に勝利した記念に信者の浄財によって建立したと伝えられる国の重要文化財です。高さは約9m、木製の芯に銅板を貼り付けたものなので、芯の腐食のために幾度か修理されており、直近では昭和52年(1977)に解体修理が行われました。

仁王門は室町時代の天文12年(1543)に建立されたもので、もとは楼門の2階建でしたが江戸時代中期に2階部分が取り外されて現在の形になりました。国の重要文化財に指定されています。

梁の上に現在残っている蟇股(かえるまた)と蓑束(みのづか)の形が室町時代末期の地方的特徴を表しているといわれます。

江戸時代末期の安政7年(1860)に現在の位置に移築されて仁王門に改められたとありますので、仁王像はその時代の作でしょうか。

西蓮寺の伝統行事である常行三昧会を行う常行堂です。9月24日~30日の7日7夜にわたって堂内を廻りながら独特の節回しで立行誦経する大法要が行われ、宗旨の別なく近在や遠隔地から新仏の供養に参詣人が訪れることから、「常陸の高野山」ともよばれています。

薬師堂奥の収蔵庫に安置されている西蓮寺の本尊の薬師如来坐像は、高さ148.5㎝の一木造りで、寺伝によれば開基した最仙本人が彫ったものと伝えられ、茨城県内有数の古木像とされています。

境内の奥には本殿があります。

コロナで使用できない手水舎には境内のサザンカの花が浮かべられおり、気持ちを和ませる心遣いを感じました。

いつも木陰にある鐘楼も、銀杏の明るさに囲まれて華やかに見えます。

先日の読売新聞に国文学者の吉海直人さんが古典に探したところ、平安期の「枕草子」や「源氏物語」には銀杏の記述がなく、室町時代の1400年代になってから銀杏として出てくるので、各地の樹齢1000年を超える大木は、ほとんどが言い伝えではないかという説が載っていました。
年輪の他に樹齢推定方法もあるようですが、伝承の1200年前の上人お手植えを思い浮かべて秋の色を充分に楽しみました。

西蓮寺を下って南に1500m先には、日本で二番目に大きな霞ヶ浦が広がります。遠くに日本百名山では一番低い筑波山(877m)の双耳峰が、1200年前と同じ姿を見せていました。

涸沼自然公園…まだ残る秋の色

2020年12月02日 | 日記

涸沼は全国で29番目の大きさの面積935ha、満潮時に太平洋の海水が涸沼川と那珂川を経て流れ込む汽水湖です。

その北側の湖畔に開設された涸沼自然公園は、面積34.5haの広大な山野の自然をいっぱい取り込んだ野趣あふれる公園です。

管理棟のパステルカラーの屋根が、周りの自然に溶け込んでいます。

キャンプ場には、250張設営できるテントキャンプサイトのほか、1区画83㎡の広さのオートキャンプサイトが56区画(AC電源付き)あります。場内にはシャワー、水洗トイレのある管理棟や炊事棟(2棟)、バーベキュー棟を完備しています。

起伏のある園内には散策路が縦横に設けられ路傍の自然を楽しむことができます。

散策路の途中には何か所も東屋が設置されています。

この季節には紅葉のきれいな「せせらぎ広場」は、夏季には子供たちの歓声が聞こえる一画です。

水面には紅葉がよく似合います。遠くに見えるのは長さ75mの吊り橋「イトトンボ橋」です。

イトトンボ橋と紅葉が一体化してしまいました。昭和46年(1971)に涸沼で発見された新種ヒヌマイトトンボに因んで名づけられました。

石のモニュメントがある「展望広場」からも涸沼が眼下に広がります。

涸沼絶景ポイントとされる高台からは、涸沼の大きさが充分に実感できます。

サザンカ(山茶花)の多い公園です。一番面積の広い「太陽の広場」の周りにも満開のサザンカが並んでいます。

ジュウガツザクラ(十月桜)の向こうに、遊具のある「わいわい広場」があります。

イチョウの黄葉が地面を覆っています。古墳のように見えるのも子供に人気の遊具です。

すでに冬支度の林の中に鮮やかな青紫のアキノタムラソウ(秋の田村草)が咲いていました。同じシソ科アキギリ属で春に咲く薄紫色のハルノタムラソウ(春の田村草)ともども名前の由来は不明とされています。