顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

歩兵第二連隊 ぺリリュー島玉砕…「戦争と茨城」展

2020年08月22日 | 日記
茨城県立歴史館では、戦後75年にちなみ、西南戦争から日清・日露戦争、満州事変、太平洋戦争までの県内部隊の遺品、遺書や写真など約100点を集めた「戦争と茨城」展が9月22日まで開かれています。

これは茨城郷土部隊史料保存会が半世紀にわたり、本県に関する戦史史料の収集、保存を続け、陸上自衛隊勝田駐屯地(ひたちなか市)内の史料館「防衛館」に保管している史料を、茨城県歴史館が3年前から調査を続けてきた成果の発表です。

特に目を惹いたのは地元出身者も多かったと思われる水戸歩兵第二連隊のペリリュー島玉砕の資料です。
明治7年に編成された日本陸軍最古の連隊のひとつで、西南戦争、日露戦争に出兵、大正8年にシベリアの尼港事件では連隊の第三大隊が全滅、その勇猛さでも知られていました。
水戸城での記念撮影写真です。この三階櫓は昭和20年(1945)の水戸大空襲で焼失してしまいました。

歩兵第二連隊の軍旗は連隊創設に際し天皇より親授されたもので、その取扱いは厳重を極めましたが、歴戦を経て傷みが激しく、日露戦争の時にはもう外側の房だけになっていたそうです。ペリリュー島玉砕の時に軍旗は奉焼されていますのでこれは複製です。

昭和18年(1943)歩兵第二連隊長西本英夫大佐の離任に際し、将校団が寄せ書きしたものです。後任の連隊長になったのがペリリュー島の戦いを指揮した中川州男大佐で、ここに名前を書いた将校のほとんどがペリリュー島で戦死しました。

中川連隊長の直轄部隊の第一大隊第一中隊長益子常勝中尉の遺書、南洋の激戦地への転戦命令を受けて、生きて帰らぬ覚悟を決め父に宛てて書いたものです。
昭和19(1944)年11月24日、軍旗奉焼して玉砕、中川連隊長の最後の玉砕報告電報は「サクラサクラ」でした。

現地で回収された錆びた銃剣、銃痕のある飯ごう、鉄兜、水筒などなまなましい遺品が胸を打ちます。
火力、兵力で圧倒的優位のアメリカ軍に対し、要塞化した洞窟陣地などを利用したゲリラ戦法を用い、2,3日で片が付くと言っていた敵を二か月半も苦しめました。

戦闘終結後に生き延びた兵士34名はジャングルの中の洞窟に潜み、昭和22年(1947)4月22日アメリカ軍に投降しました。
澄川道男海軍少将の説得により洞窟を出てトラックに乗る生存者たちの表情と、澄川少将と通訳のジョージ熊井の笑顔が対照的です。

さて、水戸歩兵第二連隊の練兵場があった茨城県営球場の北側の小公園に記念の石碑があります。蝉の合唱がうるさいくらいの木立の中です。

歩兵第二連隊の兵営跡は茨城大学の敷地になっています。約半世紀以上前まだ残っていた木造二階建ての兵舎が仙人の学びの場でした。冬だけは石炭ストーブがあったような気がしますが、勉強の記憶はあまりない不良学生でした。

水戸を本営とする工兵第14連隊などの工兵部隊も、次々と戦地に向かっていきペリリュー島で玉砕の隊もありました。茨大付属中学校の敷地一帯が兵営で、道路際に石碑が建っています。手前の雑草を引き抜いて撮影しました。

茨城県護国神社境内には立派なペリリュー島守備部隊鎮魂碑が建っています。
上皇上皇后両陛下が2015年4月のパラオ訪問に際し、ペリリュー島の慰霊碑「西太平洋戦没者の碑」を訪問されたのは、まだ記憶に新しいことです。

玉砕した守備隊は水戸歩兵第二連隊を主力とした10,931名でした。圧倒的多数の米軍48,000名のうち戦死者 1,794名、戦傷者 8,010名、この他に精神に異常をきたした者が数千名いたといわれる凄まじい戦いでした。なお、日本軍の負傷捕虜202名、ほかに前述の日本兵34名、この人たちは後に「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成していたそうです。
ところで約1,000人の現地住民などは、1か月前までにパラオ本島に疎開させられ戦闘の死傷者はいなかったということに少しは気が安らぐ思いです。

戦争を知らない世代が80%を超えていますので、資料を通して伝えていくことの大切さと、平和のありがたさをあらためて感じました。

余談ですが、日立市出身の作曲家吉田正もこの歩兵第二連隊に所属していましたが、急性盲腸炎のため部隊のペリリュー島転戦に参加できず満州に残リました。おかげであの「異国の丘」をはじめ数々の名曲を世に残すことができたのです。

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