顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

久昌寺…徳川光圀公生母の菩提寺

2021年04月18日 | 歴史散歩
常陸太田市にある久昌寺は、延宝5年(1677)水戸藩2代藩主徳川光圀公が生母の菩提供養のために建立しました。光圀の父は家康の11男で水戸藩初代藩主の頼房ですが、側室谷久子(久昌院)が光圀を懐妊した際に家臣の三木之次に久子の堕胎を命じます。しかし命令に従わなかった三木夫妻によってひそかに育てられ、5歳の時に水戸家の世子となった有名な逸話が残っています。

元禄3年(1690)に光圀公は藩主を退き、この久昌寺の北約700mの地に西山莊という隠居所を建て、元禄13年(1700)年に没するまでの晩年を過ごしました。

当時の久昌寺は七堂伽藍といわれた大規模な寺院で、日蓮宗の古刹、身延山久遠寺、池上本門寺などの本山と同等の地位を持っており、その寺院の高僧たちが訪れていたため、住職のいない特殊な寺院でした。また、隣接地に天和3年(1683)僧侶の学校である三昧堂檀林が設けられ盛時には3千人もの僧が学んでいたと案内板に書かれています。
しかし幕末には荒廃してしまったので、明治3年(1870)に約700m東の地にあった末寺、蓮華寺と併合して再建されました。

西山莊の南側の谷の平坦な一画が、最初の久昌寺の跡です。ここに仏殿、法堂、位牌堂、多宝塔、鐘楼、山門などを備えた寺領500石の大伽藍が建っていました。



久昌寺遺蹟の碑と案内板が建っています。

遺蹟碑の東側突き当りの山にトンネル状になった洞窟があります(上記航空写真参照)。幅3m高さ1.5m、長さ15mくらいで西山莊への山道に出られるので、光圀公が久昌寺にお参りするために掘られた近道か?という説もネットに出ていましたが、真偽のほどは不明です。

近くに「山寺水道」の案内板がありました。案内文によると、光圀公が久昌寺を建立した当時、この周辺は水の便が大変悪かったため、水戸城下の笠原水道を手掛けた永田勘右衛門(圓水)に命じて上水道を開設、全長約2キロの岩を掘ったトンネル状の水路は当時の技術水準の高さをうかがえると書かれています。

水戸藩の利水、治水に大きな功績のあった、この永田勘右衛門は、光圀公より圓水の名を賜り、久昌寺の檀家に命じられ、久昌寺跡のすぐ脇にある墓地に葬られています。

350年以上前には堂宇の林立した久昌寺一帯は、春の陽を浴びた静かな山里風景が拡がっていました。

さて、明治3年(1870)再建された現在の久昌寺です。

本堂,庫裏,聚石堂,三昧堂,大宝塔などを備え、年代ごとの光圀公の顔を掘った「木彫義公面」や公の暮らしぶりが細かく記された「日乗上人日記」、文永元年(1264)に書かれた日蓮聖人の消息文などの多くの寺宝が残されています。

久昌寺裏の高台には、光圀公の遺徳を忍んで昭和16年(1941)に建立された義公廟があります。光圀公が生母の菩提を弔うために、法華教1部10巻83,900字あまりを書き写した檜板30枚を納める宝塔、光圀公が集めた明版一切経が収蔵されています。

光圀公の生母「久昌院」と、父の水戸藩初代藩主頼房公の生母「養珠院」の墓処です。

養珠院は徳川家康の側室でお萬の方とよばれ、紀州徳川家の祖徳川頼宣の母でもあり、敬虔な日蓮宗の信者として知られています。

かつては常時数百名の僧が学んでいたという三昧堂檀林の跡は、小中学生を対象とした自然体験や合宿などを行う西山研修所が建っています。


また敷地内には、水戸藩9代藩主斉昭公が選定した水戸八景「山寺晩鐘」の碑があります。
当時学僧が修行していた三昧堂檀林の、暮れ六つ(午後6時)に響き渡る梵鐘の音や勤行の声が聞こえるような気がする一画です。

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