顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

部垂(へたれ)城…佐竹氏兄弟の戦いで落城

2020年01月07日 | 歴史散歩

常陸大宮市にある部垂城は、久慈川西岸の比高25mの河岸段丘北側の縁上に築かれた連郭式平山城です。

築城は14世紀に常陸大掾の一族、河崎頼幹が最初といわれ、長禄年間(1457-60)には佐竹の臣、岩瀬一族の小貫頼定がこれを奪い居城とし3代約70年間居城し佐竹氏の宿老を努めます。
しかし享禄2年(1529)には、山入りの乱を収め佐竹中興の祖と言われる義舜の次男で、部垂城隣地の宇留野城主義久の後嗣になっていた義元が攻め落とし部垂氏を名乗ります。

佐竹氏宗家の長男義篤との仲は険悪なものになり12年にわたる部垂の乱が始まり小競り合いが続きます。一時和議も成立しますが、義元の家臣の讒言により天文9年(1540)義篤は700の兵で部垂城を攻撃、義元側は城兵50人で防戦しますが多勢に無勢、駆けつけた義父宇留野義久ともども義元と長男竹寿丸も討ち死にしてしまいます。
奮戦した家臣団は勇猛の士も多く小場城主・小場義忠の指揮下に組み入れられ、秋田移封の際は佐竹本家に属し大館城下に長く居住し、今も大館市内には部垂町(へだれまち)の地名が残っているそうです。

明治15年建立の佐竹義元の墓碑銘、読み下し文によると、城橋の修理を任せた家臣の不手際を叱ったのを恨み、義元に謀反の企みありと宗家へ箴言されての落城、「義元謗りに遭いて家を滅ぼすを伝うべきも亦悲しむべきなり…」と記されています。題額は第8代茨城県令で陸軍練兵場にする計画を斥けて弘道館を守ったことで知られる人見寧、撰と書の野口勝一は野口雨情の叔父で自由民権運動を唱えた政治家です。

城域は東西400m・南北300m、本郭跡には大宮小学校が建っています。周りは市街化が進み遺構はほとんど残っておらず北側などに僅かな土塁の形を見るだけになっています。

幕末にはこの部垂城跡に水戸藩の大宮郷校ができました。関鉄之介や斎藤監物など桜田門外の変を実行した勤王の志士が教授陣に名を連ねており、新しい時代に向かう教育が行われていたことでしょう。

城郭内の甲神社は城の守護神として、歴代城主の篤い信仰を受けてきたようです。
大同2年(807)に藤原良継が勅命を受けて甲明神を祀ったのがはじまりとされ、佐竹氏初代昌義が、源氏の祖である源経基の甲(かぶと)を奉納したことが名の由来と伝わります。

なお、部垂(へたれ)という地名は、語感が悪いと村民から改名願いが出され、天保14年(1843) 村の鎮守、甲大宮(甲神社)にちなみ大宮(おおみや)村となったそうです。
(甲神社本殿は千木のない珍しい造りです)

甲神社の境内には、勇壮な祇園祭(大宮の祇園)で有名な素鵞(そが)神社も鎮座しています。手前が素鵞神社の拝殿と本殿、奥に甲神社があり鳥居まで並んで建っているのは妙な感じですが、元は別な場所にあった素鵞神社が、元禄時代の水戸藩の一村一社制に伴い甲神社の摂社としてここに移されたといわれます。

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