7月末までの企画展で展示された所蔵品や寄託品の中で、放送中の大河ドラマ「どうする家康」に因んだ家康関連の所蔵品も展示されましたので、その一部をご紹介します。(ドラマの写真はNHKのページより借用いたしました)
晩年に出家した家康の生母、伝通院の肖像画は、白頭巾を被り右手に数珠を持つ美しい花模様(五七桐と桜)の小袖を着用した尼僧姿で描かれ、小紋高麗縁の上畳に座っています。
政略結婚の駒として今川、織田、徳川の勢力の間で翻弄された一生でしたが、慶長7年(1602)伏見城でその生涯を閉じました。家康は徳川家の菩提寺芝増上寺の管する小石川の無量山寿経寺に葬り、その法名により伝通院と改称させました。
松嶋菜々子が演じた於大の方(伝通院)と正室瀬名(有村架純)の一コマです。
伝通院の父は三河刈谷城主水野忠政、母は於富(華陽院)です。於富は忠政と死別した後に松平清康(家康の祖父)に再嫁し、娘の於大と共に岡崎城に移り、於大は清康の子弘忠に嫁し家康を生むのです。父の松平弘忠17歳、母於大の方(伝通院)15歳の時の子でした。
しかし家康3歳の時に父方の叔父水野信元が織田信長に加担したことから於大は離別され、のちに三河坂部城主久松俊勝に嫁ぎました。
ドラマでは水野信元を寺島進、久松長家(俊勝)はリリーフランキーが演じました。信元は讒言により武田方との内通の疑いで、信長の命を受けた甥家康によって三河大樹寺において殺害されました。
東照大権現像(重要文化財)
幕末の文久3年、将軍後継職の徳川慶喜(当時は一橋家当主)が14代将軍家茂の上洛に同行し東本願寺の所蔵する家康像を見て「まるで神君(家康公)が生きているようだ」と感嘆し模写させたものと伝わり、重要文化財に指定されています。
「鬼作左」とよばれた家康三奉行の本多重次着用と伝わる立葵紋入り陣笠です。
本多作左衛門重次は享禄2年(1529)に父信正の子として三河国に生まれ、剛毅な性格から「鬼作左」とよばれました。今回の大河ドラマでは一族の本多忠勝、忠真、正信が出ていますが、重次の出番はシナリオにはなかったようです。
同じく本多重次着用と伝わる立葵紋入り陣羽織です。
黒羅紗地に南蛮風の絵柄の裏地、背面に朱で丸に立葵紋(本多家の家紋)を配しています。
日本一短い手紙として知られる「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の一文は、重次が天正3年(1575)の長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙とされています。
家康判物 水野忠重宛
本能寺の変後、武田氏の旧領甲斐で所領の安定に努めている家康のもとに、叔父の水野忠重が賤ケ岳の戦況と織田信雄を援け滝川一益を攻めるという報告の返信で、柴田勝家討ち死にの報が各方面から上がってきていると記されています。
その水野忠重の肖像画です。
家康の生母於大の弟、水野忠重は当初織田信長に仕える兄信元に属しましたが、永禄4年(1561)から家康の家臣となり数多の戦功を挙げます。天正8年(1580)信長から兄信元の旧領を与えられて家臣となり、その後信長、信雄、秀吉に仕え秀吉死後に家康に仕えています。慶長5年(1600)関ケ原の戦い直前に酒宴の席で刺殺されますが、嫡男勝成は徳川家の大名として老中などを勤めた水野一族の祖となりました。
黒漆塗変わり兜
水野忠重が元亀3年(1572)三方ヶ原の戦いで家康から拝領したと伝わる、形や鍔や装飾に変わった形を採用した兜です。
東照宮遺訓
有名な家康の遺訓とされる「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし…」を最後の将軍徳川慶喜が明治になってから書いたもので、落款などから静岡隠棲時代のものとされます。近年の研究では、水戸藩2代藩主徳川光圀の遺訓とされる「人のいましめ」をもとに、旧幕臣池田松之助が維新後に創作し東照宮に奉納したものとされています。
太刀揃え 則包作(重要文化財)/黒漆菊桐紋散蒔絵鞘糸巻太刀揃
後陽成天皇から秀吉、家康と伝授され家康11男の水戸藩初代頼房が水戸東照宮に奉納した太刀と伝わります。
「作品保護のため」という理由で撮影禁止だった展示品も、所蔵品などは概ね撮影可になってきている最近の情勢なので、お陰様で紹介することができました。