顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

阿弥陀寺と額田城(那珂市)

2016年11月26日 | 歴史散歩
那珂市にある中世の城、額田城の1画に、浄土真宗二十四輩本蹟十四番の阿弥陀寺があります。親鸞聖人が建保四年(1214年)那珂西郡の大山の地に念仏の道場を開き創建、明徳3年(1392年)に大山から額田城内に移されて額田氏の守護寺となりました。正式には大山禅房阿弥陀寺。

鐘楼門の右側にあるのは、樹齢320年の枝垂れ桜(彼岸桜・糸枝垂れ)、春には桜まつりで賑わいます。

本堂と親鸞上人像、親鸞は大山に約10年滞在し、その間に24輩以下450余人の弟子が生まれたと言われています。

さてその額田城は地方の小領主の城としてはいたって規模が大きく濠、土塁などもよく残っています。その大きさを、google map上に現地看板の城址図を被せて実感してみました。

額田城は鎌倉時代の建長年間(1249~1256年)に佐竹氏5代義重の二男義直が築城し、その後拡張を続けて現在の規模になりました。この前期額田氏は、10代義亮の時、佐竹宗家と対立し、応永30年(1423年)佐竹13代義人に攻められて落城し滅びます。
その後、義人の家臣小野崎氏が城主となり(後期額田氏)、江戸氏から養子を迎えるなどして以後7代照通まで続いたが、「照通に異心あり」として攻められ落城しました。(以上説明板から)
東日本大震災で損壊したひたちなか市の土蔵から、伊達政宗から額田城主小野崎照通への起請文が発見されたという話題が賑わしたことがあり、伊達政宗に内通していたことが証明されました。

本丸(右)と二の丸(左)郭の間にある堀跡と本丸の北西端です。堀、土塁などの残っている77,000㎡が市の史跡に指定されていますが、当時は東西1140m、南北840m、957,600㎡の広大な城郭に、4つの郭と城下集落をも取り込んだ7つの外郭分に城塁を複雑にめぐらせた大城郭(埋もれた古城HPより)でした。

阿弥陀寺のある4郭から本丸への谷津状の堀あとに季節外れの花菖蒲が咲いていました(11月中旬)。
城跡はあまり手を加えない状態で、草を刈り案内板が整備され、広い散策路になっています。中世の城跡としては県内でも最大規模、しばし5世紀以上前の妄想に遊びました。