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自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

広島平和宣言全文

2015年08月06日 | Weblog

(新聞速報より)
 
 私たちの故郷ふるさとには、温かい家族の暮らし、人情あふれる地域の絆、季節を彩る祭り、歴史に育まれた伝統文化や建物、子どもたちが遊ぶ川辺などがありました。

 1945年8月6日午前8時15分、その全てが一発の原子爆弾で破壊されました。きのこ雲の下には、抱き合う黒焦げの親子、無数の遺体が浮かぶ川、焼け崩れた建物。幾万という人々が炎に焼かれ、その年の暮れまでにかけがえのない14万もの命が奪われ、その中には朝鮮半島や、中国、東南アジアの人々、米軍の捕虜なども含まれていました。

 辛うじて生き延びた人々も人生を大きく歪められ、深刻な心身の後遺症や差別・偏見に苦しめられてきました。生きるために盗みと喧嘩けんかを繰り返した子どもたち、幼くして原爆孤児となり今も一人で暮らす男性、被爆が分かり離婚させられた女性など――苦しみは続いたのです。

 「広島をまどうてくれ!」。これは、故郷や家族、そして身も心も元通りにしてほしいという被爆者の悲痛な叫びです。

 広島県物産陳列館として開館し100年、被爆から70年。歴史の証人として、今も広島を見つめ続ける原爆ドームを前に、皆さんと共に、改めて原爆被害の実相を受け止め、被爆者の思いを噛かみしめたいと思います。

 しかし、世界には、いまだに1万5000発を超える核兵器が存在し、核保有国等の為政者は、自国中心的な考えに陥ったまま、核による威嚇にこだわる言動を繰り返しています。また、核戦争や核爆発に至りかねない数多くの事件や事故が明らかになり、テロリストによる使用も懸念されています。

 核兵器が存在する限り、いつ誰が被爆者になるか分かりません。ひとたび発生した被害は国境を越え無差別に広がります。世界中の皆さん、被爆者の言葉とヒロシマの心をしっかり受け止め、自らの問題として真剣に考えてください。

 当時16歳の女性は「家族、友人、隣人などの和を膨らませ、大きな和に育てていくことが世界平和につながる。思いやり、やさしさ、連帯。理屈ではなく体で感じなければならない」と訴えます。当時12歳の男性は「戦争は大人も子どもも同じ悲惨を味わう。思いやり、いたわり、他人や自分を愛することが平和の原点だ」と強調します。

 辛つらく悲しい境遇の中で思い悩み、「憎しみ」や「拒絶」を乗り越え、紡ぎ出した悲痛なメッセージです。その心には、人類の未来を見据えた「人類愛」と「寛容」があります。

 人間は、国籍や民族、宗教、言語などの違いを乗り越え、同じ地球に暮らし一度きりの人生を懸命に生きるのです。私たちは「共に生きる」ために、「非人道性の極み」「絶対悪」である核兵器の廃絶を目指さなければなりません。そのための行動を始めるのは今です。既に若い人々による署名や投稿、行進など様々な取り組みも始まっています。共に大きなうねりを創りましょう。

 被爆70年という節目の今年、被爆者の平均年齢は80歳を超えました。広島市は、被爆の実相を守り、世界中に広め、次世代に伝えるための取り組みを強化するとともに、加盟都市が6700を超えた平和首長会議の会長として、2020年までの核兵器廃絶と核兵器禁止条約の交渉開始に向けた世界的な流れを加速させるために、強い決意を持って全力で取り組みます。

 今、各国の為政者に求められているのは、「人類愛」と「寛容」を基にした国民の幸福の追求ではないでしょうか。為政者が顔を合わせ、対話を重ねることが核兵器廃絶への第一歩となります。そうして得られる信頼を基礎にした、武力に依存しない幅広い安全保障の仕組みを創り出していかなければなりません。その実現に忍耐強く取り組むことが重要であり、日本国憲法の平和主義が示す真の平和への道筋を世界へ広めることが求められます。

 来年、日本の伊勢志摩で開催される主要国首脳会議、それに先立つ広島での外相会合は、核兵器廃絶に向けたメッセージを発信する絶好の機会です。オバマ大統領をはじめとする各国の為政者の皆さん、被爆地を訪れて、被爆者の思いを直接聴き、被爆の実相に触れてください。核兵器禁止条約を含む法的枠組みの議論を始めなければならないという確信につながるはずです。

 日本政府には、核保有国と非核保有国の橋渡し役として、議論の開始を主導するよう期待するとともに、広島を議論と発信の場とすることを提案します。また、高齢となった被爆者をはじめ、今この時も放射線の影響に苦しんでいる多くの人々の苦悩に寄り添い、支援策を充実すること、とりわけ「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

 私たちは、原爆犠牲者の御霊みたまに心から哀悼の誠を捧ささげるとともに、被爆者をはじめ先人が、これまで核兵器廃絶と広島の復興に生涯をかけ尽くしてきたことに感謝します。そして、世界の人々に対し、決意を新たに、共に核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすよう訴えます。


平成27年(2015年)8月6日

   広島市長 松井一実

二重被曝・山口彊さんの「遺言」(2011年7月24日のブログの再掲)

2015年08月05日 | Weblog

 記録映画「二重被曝 語り部山口彊の遺言」が今夏上映されるそうだ。
 映画は昨秋に完成したが、その後、福島第一原発が大事故を起こした。山口さんが原発や核エネルギーに関して言い残していなかったか。稲塚監督が200本以上のテープを見直したところ、91歳の誕生日に「平和利用」への考えを語る場面があった。
 「今一番伝えたいこと」を問われた山口さんは答えていた。「核は人間の世界にあってはいけないもの。平和利用も問題がある。今の技術や材料、材質では防止できないものがある。人類は滅亡に近づいていくのです」。
 映画では、この言葉が最後に「遺言」として加えられた。

 以下は09年7月10日の本ブログで記した山口さんの著書『ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆』の「まえがき」より。
 
 1945年8月6日そして9日。広島と長崎に世界で初めて原子爆弾が投下された。広島では約14万人、長崎では約7万4000人が死んだ。それぞれの街は壊滅した。灰燼に帰した地で、私は二度被爆した「二重被爆者」である。
 敗戦後、「あの戦争をなぜ止めることができなかったのか」と始終考えてきた。その思いがいっそう強くなったのは2005年、私の息子が60歳で無くなってからだ。敗戦の年に生まれた息子の臓器は、ほとんど癌に冒された。明らかに被爆の影響だ。息子の死は、私に定命(じょうみょう)ということを強く感じさせた。
 亡くなられたローマ法王ヨハネ・パウロ2世が1981年、長崎を訪れた。そのことをいまでもよく覚えている。そのとき、法王はおっしゃった。
 「戦争は人間の心の中で起こるものだ。だから止めることができます」と。
 そう話され、祈りを捧げられた。私は雪の降る中、法王の訴えを聞いていた。
 人は自分の中で決着すべき葛藤を、他人への支配や富の独占という違う欲望に置き換え、自分自身の心を見つめることを怠っていることが多いのだと思う。争いの根源は人に、心にあるのだということは確かにそうだ。
 これから先、私はいつまで生きられるかわからないが、二度も被爆したのは、何かの因縁なのだろう。だから命の続く限り、国境を越えて、私の体験を通じて得たことを訴えていきたい。心を繋ぎ、手を携えれば世の中を動かすことができるはずだ。
 ことさら我が身の不幸を嘆くのではなく、ただ起きた事実を後世に語りたいと思う。
 本書は、私を含めた7人の二重被爆者の証言をまとめたドキュメンタリー映画『二重被爆』のプロデューサーであるタキシーズの稲塚秀孝氏の協力により、出版の運びとなった。
   2007年7月                       山口 彊(つとむ)

(ここで言及されている映画は国連で上映されたが、一般公開はされなかったと記憶している。この映画と冒頭に言及した映画とは別の映画である。)
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二重被爆者・山口彊さん逝去(2010年01月07日のブログの再掲)

 
 広島と長崎で二回被爆した山口彊さんが逝去された。
(新聞より)
 広島、長崎それぞれで直接被爆し、「二重被爆者」として初の公式認定を受けた山口彊(やまぐち・つとむ)さん(長崎市在住)が4日午前5時38分、胃がんのため長崎市の病院で死去した。93歳だった。密葬は近親者で済ませた。
 三菱重工業長崎造船所の設計技師だった山口さんは1945年8月6日、出張先の広島市(爆心地から3キロ地点)で被爆。列車で8日に長崎へ戻り、9日には再び爆心地から3キロ地点で被爆した。2回の被爆で左耳の聴力を失い、急性白血病や白内障などの原爆後遺症にも苦しめられた。
 非核や平和の思いを伝えようと、02年には短歌集「人間筏(にんげんいかだ)」を自費出版。05年、生後6カ月で被爆した次男をがんのため59歳で亡くしたことをきっかけに、それまで以上に積極的に被爆体験を語り始めた。06年8月には、米ニューヨークの国連本部を訪れ、自身が出演した記録映画「二重被爆」を上映し、核兵器廃絶をアピール。09年3月、長崎市から広島での被爆事実の認定を受けた。
 もう二度と被爆者を作らないで--。死の1カ月前まで病室で海外メディアの取材を受けるなど、平和のメッセージを発信し続けた。家族のきずなを何よりも大切にしていた。最期はその家族に見守られて、穏やかに旅立った。
 命の光が弱くなる中、12月7日には、病室でスイスのテレビ局の取材を受け、か細い声で必死に戦争の愚かさや原爆の恐ろしさを訴えた。
 12月22日には、来日中の米国映画界の巨匠、ジェームズ・キャメロン監督が病室を訪問。原爆をテーマにした映画の構想を聞いた山口さんは英語で「私の役目は終わった。後はあなたに託したい」と語り、固く手を握ったという。

(御冥福をお祈り申し上げます。)

『ふるさとの風や』 より

2015年08月04日 | Weblog

 小川 憲一 (昭和二十年四月七日、沖縄島沖戦艦大和にて戦死、二十歳)
 
 手紙アリガトウ。邦子モ元気デ毎日一生懸命ニ家ノ手伝イニ勉強ニ励ンデイル事ト思ウ。
 兄サンモ元気一杯軍務ニ励ンデ居ルカラ安心シテ下サイ。家中皆元気デ暮ラシテ居ルトノ便リ、兄サンモ安心シテ御奉公ガ出来マス。
 邦子ノ頼ミノ写真モ、兄サンハ写シタノデスガ、今ダニ出来上リマセンカラ、残念乍ラ送ル事ガ出来マセン。デモ出来シダイ大至急ニ送リマス。
 邦子モ、浩造・克己兄サンモ仲ヨクシテ一生懸命勉強シテ、良イ成績ヲ上ゲテ下サイ。兄サンモ邦子ニ負ケナイ様、一生懸命頑張リマス。
 寒サ厳シキ故、充分身体ニ気ヲ付ケテ丈夫ナ身体ニナッテ下サイ。コレガ兄サンノ頼ミデス。
  昭和十九年二月十四日     サヨナラ
 小川邦子様


(最後の、「サヨナラ」は何を意味するのだろう。松阪市のような小さな町(当時の人口も面積も現在の半分あったかどうか)の出で、終戦間際に出航した戦艦大和で戦死した二十歳の若者。)

朝顔――「 はかない恋 」 か 「 実存の淵 」か

2015年08月01日 | Weblog


 猫の額に申し訳なさそうに小ぶりの朝顔が咲いている。

 「朝顔に釣瓶とられて貰ひ水」という千代女の句には、
優しさを売り物にするようなイヤミがある、と評した人がいる。もっとも、朝顔の生命力の強さを詠んだという意味ではこの句の描写は正しい。朝顔のつるは、大袈裟に言えばあっという間にするすると伸び、つるとつるが絡み合いながら勢力圏を広げる。その花言葉「結束」はおそらく、つるの結束の強さを意味するのだろう。もう一つ花言葉がある。「はかない恋」。はかなさにこそ人々は惹かれてきたのであろう。朝顔の命のはかなさを、人の世のはかなさに重ねる人も多いのだろう。

 蕪村に「朝がほや一輪深き淵のいろ」という句がある。
これは絶品だと思う。深い藍色の花の中に、蕪村は深い淵を見たのだ。蕪村の人柄が偲ばれる。千代女の句には無い、人間の定めのような実存とも言える淵を一輪の朝顔に見ている。鋭い観察力だ。こういう観察力が特に戦後、影を潜めたように思われる。経済成長に血眼になったからだ。

松阪市戦没兵士の手紙集 『ふるさとの風や』 (再掲)

2015年07月29日 | Weblog

 僕は小学3年生から高校3年生まで松阪市で育てられた。10年ぐらい(10年余り)前に久しぶりに本居宣長記念館を訪れた時に館長から 『ふるさとの風や』 という約200頁の新書版の本を頂いた。この本があることを初めて知った。以来、折に触れてこの本に収められた戦没兵士の手紙を読んでいる。この本の初版は昭和41年2月。平成7年に復刻。非売品で入手し難いのが惜しい。次は初版当時の市長の巻頭言の部分である。

 「太平洋戦争で死んだ松阪市民は約四千名である。雪凍る北満の地で、暑熱のジャングルまたは孤島で、傷つき倒れ、あるいは飢え、また太平洋の底深く沈められ、はては沖縄で武器も持たず裸で殲滅されていった私たちの親や兄弟たち。
 どんな思いだっただろう。
 粛然、襟を正し、敗戦のもたらしたこの二十年間の平和を噛みしめ回想する。
 ・・・・・・・・
 なにを思い、なにを考え戦線で死んでいったろうか。わずかにそれを知る手がかりとなるのは、これらの人たちの故郷の肉親・友人への手紙ではなかろうか。
 戦時中、すべての人たちの生活は規制され統制され、型式化され、個人の恣意は許されなかった。
 軍隊ではもっときつかった。故郷への手紙だって様式化され紋切型のものだった。不安や危惧を素直に表現することは女々しい「皇軍兵士」として恥ずべきこととされていた。
 しかしながら私たちは、農民出の兵士の「今年、田の水は大丈夫ですか?」とのさりげない文字に、その兵士の胸に湧く無量の感慨をくみとることが出来る。おそらく、この文字を書く時、彼の胸裏には、ふる里の山河の緑、空の色、雲のゆききが、いきいきと<よみがえっていたにちがいない。
 ・・・・・・・・
 「戦没市民」の人間性を探究し、記録し、後の世に残すために、この人たちの「手紙集」を市の事業として編集したいと考えている。戦没大学生の文集「きけわだつみの声」、岩手県「戦没農民兵士の手紙」に次ぐものとしたい。・・・・
 もっともらしい口実や理屈や理論をつけようとも、他国を傷つけ侵略するような戦争には反対し、平和をどのように維持していくかを、静かに思い、考え、静かに不再戦の決意を持つ手がかりともなり得たら、との発想からの企画である。」


(今後、一切、日本人が戦地へ趣くことがないように!!! 安保法制(その骨格は集団的自衛権)が国会を通過しないように!!!)

続・台所の知恵

2015年07月27日 | Weblog

 昨日の問題の答えを記します、と言っても僕に分るはずもなく、すべて食の博士・小泉武夫さんの識見です。

①の答え: タケノコにはえぐ味の成分としてホモゲンチジン酸やシュウ酸があるが、タケノコを米のとぎ汁とともに煮ると、水から茹でていく間に、とぎ汁に含まれている酵素がタケノコの繊維に作用して、軟らかくするとともに、多量のえぐ味成分を茹で汁に引き出すため。

②の答え: 干した椎茸は、水温が高いほど速く吸水する。低い水温で戻すのには時間が長くかかり、その間、うま味成分もかなり失うことになる。かといって、熱湯で戻すと、うま味成分の溶け出しが著しい。そこで、ぬるま湯ということになる。砂糖を少々加えるのは、真水より砂糖液の方が浸透圧が高く、うま味成分の溶け出しを抑えるため。

③の答え: 海苔にはタンパク質が30~35%含まれている。これを焼くと、タンパク質が熱で縮減する。両面から焼くと両面から縮減するうえに水分も多く蒸発しボロボロとくずれやすくなる。だから、一方だけをさっとあぶるのが良く、二枚重ねで焼くと、両面の表面だけを焼くことになり、そのうえ、熱によって蒸発する香りや水分を反対側の海苔が吸収するから、逃げる成分を防ぐため。一枚の海苔を焼くときも二つ折りにして焼くのは、そのためである。

④の答え: ワサビの辛味はミロシナーゼという酵素の作用による。目の細かいおろし金でゆっくりとすりおろすのは、細胞組織を砕いて酵素が作用しやすくするため。おろしてからしばらくおくのは、おろしたては、まだ充分に酵素が作用しないために辛味が少ないが、時間の経過とともに辛味が増していくため。大根やニンニクなども同じ作用で辛くなる。

⑤の答え: 真水でも薄い食塩水でも魚からの塩出し速度はそう大差ない。しかし、真水で行うより、塩水中の方がうま味成分の溶け出しが抑えられるため。

 台所には他ににもいっぱい知恵があるそうだ。先人の知恵を後世に伝えることが大切だと思う。

台所の知恵

2015年07月26日 | Weblog

 いつだったか蒟蒻について、蒟蒻は包丁で切って味付けるより、手でちぎって味付けする方が美味だと書いた記憶がある。手でちぎった方が凸凹ができ、蒟蒻の表面積を広げることになり、熱の伝わり方がよく、調味料が浸透しやすいから。蒟蒻の雷煮がその代表例。
 食材の利用法に関して台所には様々な知恵がある。以下、問題を出します。

① タケノコを茹でる時、米のとぎ汁を使うのは何故?
② 干した椎茸を戻す時、ぬるま湯に砂糖を少々加えた液で行うのは何故?
③ 海苔を焼く時、二枚重ねて焼くのは何故?
④ ワサビをすりおろす時、目の細かいおろし金で円を描くようにゆっくりおろし、また、すりおろしてからしばらくして使うのは何故?
⑤ 保存のために塩でからめた魚から塩出しする時、迎え塩またはよび塩と言って、真水ではなく薄い食塩水(0.5~1%)で行うのは何故?

 答えを書いている時間的余裕がありません。関心のある方々は答えをコメント欄にお願い致します。 

ラクルネ――フランク 「ヴァイオリン・ソナタ」

2015年07月24日 | Weblog

(ラクルネとは楽流音で音楽の意。僕の造語。)
 フランス音楽が苦手の僕にも例外的に好きな曲がある。フォーレとフランクは若い時からしばしば聴いている。中でも、フランクのヴァイオリン・ソナタは好きを通り越して、この曲を弾きたいがために、ヴァイオリンの猛練習をしたことがある。(今は全く弾けない。) 何処に魅力があるのか。ドイツの古典にのっとった構成を堅持し、その上でフランス風な感覚が楽想となっているが、その感覚が極度に純化されている、そんなところに魅力の源泉があるのではないかと思う。
 19世紀最後の四分の一世紀に、ブラームスのヴァイオリン・ソナタと並んで一般に高く評価されているのは、豊かな旋律形態と、和声の色彩の豊かさ、説得力の強い形式の故であろう。第一楽章は4小節のピアノの前奏に続いて、何とも美しく感動的な主題が始まる。この感動をどう表現すればいいのか。この品の良さは、白い服の女性が、少しだけ、ほんの少しだけコケティシュに、透き通るような森の中で舞っている、そんな光景を思い浮かばせる。これは、第二楽章の一種のスケルツォと対照的である。第三楽章は幻想曲風で、第四楽章はカノン風な主題で、対位法を完全に使いこなしている。もったいぶった表現主義に陥ることなく、古典的楽想とロマン的楽想が融合している。
 この曲が好きだという人が多いと聞く。人は何かしら共通感覚というものを共有しているのかもしれない。

『 ふるさとの風や 』より

2015年07月19日 | Weblog

 滝川 郁蔵(昭和20年5月19日、比島方面にて戦没、26歳)

 前文御免下され度
 御令息、郁蔵殿と共に比島戦線に於て行動を共にし、最近帰還復員せる者に候え共、既に広報に依り御承知の御事と存じ候え共、御令息の御戦死と当時の様子御通知申上候。
 郁蔵殿と私と行動を共にせしは、二十年三月中旬以降にて、其の節は戦艦にて遭難され、比島ルソン島に上陸後三月、海軍美濃部部隊に編入され各地を転戦仕候。
 二十年三月、部隊はルソン島最北端アパリ方面警備の任を帯び、全方面に駐留致し候も、日夜激しい空襲に加うるに悪質なマラリア流行し、之が為隊員の死亡せる者多く、御令息にも三月末頃よりマラリアに羅病されしが、死亡の数週間前より容体悪くなりたる為、部隊の病院に入院加療致し候も、何分野戦の事故病院と雖も療養も思うに委せず、亦空襲の激しさも加わりて、遂に昭和二十年五月十九日、軍医官始め戦友一同の手厚き看護も其甲斐なく、眠るが如く永眠遊ばされ候。
 嗚呼故国を離れること三千数百里、異郷の地に於て日夜皇国の戦果を信じつつ戦いし、御令息の心情や如何に。又故国に在りて、只管愛児を想われる御両親様始め御家族皆様の御心情を御察しすれば、御慰めの言葉も之無候も、何卒之も運命と御諦めの上御冥福を祈念くだされ度願上候。
 郁蔵殿生前は温厚忠実、隊内の模範下士官として奮闘され、上下斉しく導き戦病死を惜まれ候。葬儀に当たりては野戦の事故何も無きも、戦友一同の心尽くしの草花、果実をそなえ、ねんごろに埋葬致され候。遺髪等は部隊本部より帰還御届けするものと存じ候。
 私病床に在り、又御家族皆様の御心事を御察しし、とるべき筆も進み難く延引の段悪しからず御許し下され度。
 茲に謹んで御令息の御戦死を御通知申すと共に、厚く哀悼の意を表し上げ候。敬白

大木勝蔵拝  滝川庄太郎様 (日付不明)


(今後こういう手紙があってはならぬ、書かせてはならぬ。)



学者ら74人の 「 戦後70年総理談話について 」 声明全文

2015年07月18日 | Weblog

(17日 新聞より)
 この夏、安倍晋三総理大臣が戦後70年に際して発表すると報道されている談話について、日本国内でも海外でも強い関心が寄せられております。

 下記に名を連ねる私共国際法学、歴史学、国際政治学の学徒は、日本国の一員として、また世界に共通する法と歴史と政治の問題を学問の対象とする者として、この談話にかかわる諸問題について多年研究に携わってまいりました。

 私共の間には、学問的立場と政治的信条において、相違があります。しかしながら、そのような相違を超えて、私共は下記の点において考えを同じくするものであり、それを日本国民の皆様と国政を司る方々に伝え、また関係する諸外国の方々にも知って頂くことは、専門家の社会的責任であると考えるに至りました。ここに以下の所見を明らかにする次第です。


(1)戦後70年という節目に表明される総理談話は、なによりもまず、大多数の国民が飢餓に苦しみ、多くの都市が灰燼に帰していた1945年の日本から、今日の平和で豊かな日本を築き上げた先人達の努力に対して深甚な感謝の意を捧げ、そうした日本を誤りなく次の世代に引き渡して行くという国政の最高責任者の意志を日本国民に示すものであるべきであります。このことは、戦後50年、60年たると70年たるとを問わない、先世代と将来世代の国民に対する現世代の国民の責任であり、この点広く社会の合意があるものと考えます。

(2)また、こうした戦後日本の復興と繁栄は日本国民の努力のみによるものでなく、講和と国交正常化に際して賠償を放棄するなど、戦後日本の再出発のために寛大な態度を示し、その後も日本の安全と経済的繁栄をさまざまな形で支え、助けてくれた諸外国の日本への理解と期待、そして支援によるものでもありました。このことは、さまざまな研究を通して今日よく知られております。こうした海外の諸国民への深い感謝の気持ちもまた示されるべきものと考えます。

(3)さらに、戦後の復興と繁栄をもたらした日本国民の一貫した努力は、台湾、朝鮮の植民地化に加えて、1931-45年の戦争が大きな誤りであり、この戦争によって三百万人以上の日本国民とそれに数倍する中国その他の諸外国民の犠牲を出したことへの痛切な反省に基づき、そうした過ちを二度と犯さないという決意に基づくものでありました。戦争で犠牲となった人々への強い贖罪感と悔恨の念が、戦後日本の平和と経済発展を支えた原動力だったのです。戦後70年、80年、90年と時が経てば、こうした思いが薄れていくことはやむを得ないことかもしれません。しかしながら、実にこの思いこそ、戦後の日本の平和と繁栄を支えた原点、文字どおりの初心であり、決して忘れ去られてはならないものでありましょう。

(4)このことは、戦後50年の村山談話に含まれ、戦後60年の小泉談話でも継承された「侵略」や「植民地支配」への「痛切な反省」、「心からのお詫び」などの言葉を継承すべきか否かという、世上論じられている点にかかわります。ある特定の言葉を用いるか否かで総理の談話の善し悪しを論ずべきものでなく、ましてや「村山談話」という特定の総理談話の個々の言葉を継承するか否かがその後の総理談話の質を決する基準でない、というのは多くの専門家、そしてなによりも多くの国民が同意するところかもしれません。しかし、いかなる言葉で語られるかは、それが国際的にも大きな影響をもつ責任ある文書を評価する上で、どの国でもどの時代でもきわめて重要な基準です。政治を司る者は、こうした言葉の枢要性を誰よりも深く考える責務を負っているはずです。このことは、歴史と法と政治を研究してきた私共が、日本の為政者に対して特に強く申し上げたいところです。

(5)言葉の問題を含めて、「村山談話」や「小泉談話」を「安倍談話」がいかに継承するかは、これまでの総理自身の言動も原因となって、内外で広く論ぜられ、政治争点化しております。このことは、国内もさることながら、中国、韓国、米国などを含む、日本と密接な関係をもつ国々で広く観察される現象です。こうした状況の下では「安倍談話」において「村山談話」や「小泉談話」を構成する重要な言葉が採用されなかった場合、その点にもっぱら国際的な注目が集まり、総理の談話それ自体が否定的な評価を受ける可能性が高いだけでなく、これまで首相や官房長官が談話を通じて強調してきた過去への反省についてまで関係諸国に誤解と不信が生まれるのではないかと危惧いたします。安倍総理がしばしば強調される「村山談話」や「小泉談話」を「全体として継承する」ということの意味を、具体的な言語表現によって明らかにされるよう、強く要望するものです。

(6)以上に述べたことは、戦後70年談話が閣議決定を経ない「総理大臣の談話」であっても変わりはありません。日本の内外において総理大臣は国政の最高責任者として日本を代表する立場にあり、閣議決定の有無といった問題は、一般国民にとって、ましてや海外の諸国民にとって、ほとんど意識されることはありません。肝心なのは談話の中身です。70年談話がその「言葉」ゆえに国際社会で否定的に受け取られ、その結果、過去と現在と将来の日本国民全体が不名誉な立場に置かれ、現在と将来の日本国民が大きな不利益を被ることのないよう、安倍総理が「談話」で用いられる「言葉」について考え抜かれた賢明な途をとられることを切に望むものです。

(7)日本が1931年から45年までに遂行した戦争が国際法上違法な侵略戦争であったと認めることは、日本国民にとって辛いことであります。その時代、先人達は、現世代を含む他のどの時代の日本国民よりも厳しい試練に直面し、甚大な犠牲を被りました。そうした先人の行為が誤っていたということは、後生のわたしたちが軽々しく断ずべきことではないかもしれません。しかしながら、日本が侵略されたわけではなく、日本が中国や東南アジア、真珠湾を攻撃し、三百万余の国民を犠牲とし、その数倍に及ぶ諸国の国民を死に至らしめた戦争がこの上ない過誤であったことは、残念ながら否定しようがありません。そしてまた、日本が台湾や朝鮮を植民地として統治したことは、紛れもない事実です。歴史においてどの国も過ちを犯すものであり、日本もまたこの時期過ちを犯したことは潔く認めるべきであります。そうした潔さこそ、国際社会において日本が道義的に評価され、わたしたち日本国民がむしろ誇りとすべき態度であると考えます。

(8)この点に関連して、安倍総理を含む歴代の総理は、侵略の定義は定まっていないという趣旨の国会答弁などを行っておりますが、これは学問的には必ずしも正しい解釈とは思われません。なによりもそうした発言は、日本が1931年から遂行した戦争が国際法上違法な侵略戦争であったという、国際社会で確立した評価を否定しようとしているのではないかとの疑念を生じさせるものであり、日本に大きな不利益をもたらすものと考えます。

 20世紀前半の国際社会は、第一次大戦の甚大な惨禍を経験して、戦争を違法化する努力を重ねて来ました。1928年の不戦条約はその代表であり、日本も締約国であった同条約は自衛以外の戦争を明確に禁止しておりました。1931年に始まる満州事変が1928年の張作霖爆殺事件以来の関東軍の陰謀によって引き起こされたものであったことは、歴史学上明らかにされております。当時の日本政府はこれを自衛権の行使と主張しましたが、国際連盟はその主張を受け入れませんでした。その後の日中戦争、太平洋戦争を含めた1931-45年の戦争が名目の如何と関係なく、その実質において日本による違法な侵略戦争であったことは、国際法上も歴史学上も国際的に評価が定着しております。

 戦後国際社会は一貫してこうした認識を維持してきたのであり、これを否定することは、中国・韓国のみならず、米国を含む圧倒的多数の国々に共通する認識を否定することになります。戦後70年にわたって日本国民が営々と築き上げた日本の高い国際的評価を、日本が遂行したかつての戦争の不正かつ違法な性格をあいまいにすることによって無にすることがあってはならない。これが専門研究者としての私共の考えであり、同時に多くの日本国民が共有する考えでもあると確信しております。


 1924年、神戸で行われた有名な大アジア主義演説において、孫文は日本が西洋覇道の鷹犬となるか東洋王道の干城となるか、と日本の国民に問いかけました。私共は西洋を覇道と結び付け、東洋を王道と結び付ける孫文の見解を必ずしもそのまま受け入れるものではありませんが、中国が欧米列強と日本によって半ば植民地の状態にされていた当時の状況下において、この問いかけはまことに正鵠を得たものであったと考えます。残念ながら日本は覇道の道を歩み、その結果ほとんど国を滅ぼすに至りました。

 戦後日本はこのことを深い教訓として胸に刻み、世界に誇りうる平和と繁栄の道を歩んで参りました。日本が将来にわたってこの王道を歩み続け、戦後築き上げた平和で経済的に繁栄し安全な社会をさらに磨きあげ、他の国への経済・技術・文化協力を通してそれを分かち合い、国民が誇り得る世界の範たる国であり続けて欲しいと願わずにはいられません。私共は、歴史、国際法、国際政治の研究に携わる学徒として、いやなによりも日本国の一員として、そう考えます。

 総理が、戦前と戦後の日本の歴史に対する世界の評価に深く思いを致し、現在と将来の日本国民が世界のどこでもそして誰に対しても胸を張って「これが日本の総理大臣の談話である」と引用することができる、そうした談話を発して下さることを願ってやみません。


2015年7月17日

     ◇

共同声明文による賛同人一覧は以下の通り。(敬称略)

代表

大沼保昭 (明治大特任教授 国際法)三谷太一郎(東京大名誉教授 日本政治外交史)
吾郷真一 (立命館大特別招聘教授 国際法)
浅田正彦 (京都大教授 国際法)
浅野豊美 (早稲田大教授 日本政治外交史)
阿部浩己 (神奈川大教授 国際法)
天児慧  (早稲田大教授 現代中国論)
粟屋憲太郎(立教大名誉教授 日本近現代史)
石井寛治 (東京大名誉教授 日本経済史)
石田淳  (東京大教授 国際政治)
石田憲  (千葉大教授 国際政治史)
位田隆一 (同志社大特別客員教授 国際法)
入江昭  (ハーバード大名誉教授 アメリカ外交史)
内海愛子 (恵泉女学園大名誉教授 日本・アジア関係論)
遠藤誠治 (成蹊大教授 国際政治)
緒方貞子 (元国連難民高等弁務官 国際関係史)
小此木政夫(慶応大名誉教授 韓国・朝鮮政治)
小畑郁  (名古屋大教授 国際法)
加藤陽子 (東京大教授 日本近代史)
吉川元  (広島平和研究所教授 国際政治)
木畑洋一 (成城大教授 国際関係史)
木宮正史 (東京大教授 国際政治)
倉沢愛子 (慶応大名誉教授 東南アジア史)
黒沢文貴 (東京女子大教授 日本近代史)
黒沢満  (大阪女学院大教授 国際法)
香西茂  (京都大名誉教授 国際法)
小菅信子 (山梨学院大教授 近現代史)
後藤乾一 (早稲田大名誉教授 東南アジア近現代史)
斎藤民徒 (金城学院大教授 国際法)佐藤哲夫 (一橋大教授 国際法)
篠原初枝 (早稲田大教授 国際関係史)
申惠丰  (青山学院大教授 国際法)杉原高嶺 (京都大名誉教授 国際法)
杉山伸也 (慶応大名誉教授 日本経済史)
添谷芳秀 (慶応大教授 国際政治)
高原明生 (東京大教授 国際政治)
田中孝彦 (早稲田大教授 国際関係史)
田中宏  (一橋大名誉教授 日本社会論)
外村大  (東京大教授 日本近現代史)
豊田哲也 (国際教養大准教授 国際法)
中北浩爾 (一橋大教授 日本政治外交史)
中島岳志 (北海道大准教授 政治学)
中谷和弘 (東京大教授 国際法)
中見立夫 (東京外語大教授 東アジア国際関係史)
中見真理 (清泉女子大教授 国際関係思想史)
納家政嗣 (上智大特任教授 国際政治)
西海真樹 (中央大教授 国際法)
西崎文子 (東京大教授 アメリカ政治外交史)
野村浩一 (立教大名誉教授 中国近現代史)
波多野澄雄(筑波大名誉教授 日本政治外交史)
初瀬龍平 (京都女子大客員教授 国際政治)
原朗   (東京大名誉教授 日本経済史)
原彬久  (東京国際大名誉教授 国際政治)
半藤一利 (現代史家)
平野健一郎(早稲田大名誉教授 東アジア国際関係史)
広瀬和子 (上智大名誉教授 国際法)
藤原帰一 (東京大教授 国際政治)
保坂正康 (現代史家)
松井芳郎 (名古屋大名誉教授 国際法)
松浦正孝 (立教大教授 日本政治外交史)
松尾文夫 (現代史家)
松本三之介(東京大名誉教授 日本政治思想史)
真山全  (大阪大教授 国際法)
三谷博  (東京大名誉教授 日本近代史)
宮野洋一 (中央大教授 国際法)
毛里和子 (早稲田大名誉教授 中国政治)
最上敏樹 (早稲田大教授 国際法)
森山茂徳 (首都大学東京名誉教授 近代日韓関係史)
山影進  (青山学院大教授 国際関係論)
山形英郎 (名古屋大教授 国際法)
山室信一 (京都大教授 近代法政思想史)
油井大三郎(東京女子大特任教授 日米関係史)
吉田裕  (一橋大教授 日本近現代史)
和田春樹 (東京大名誉教授 歴史学)

漂泊者もしくは命について

2015年07月16日 | Weblog

  年たけて
  また越ゆべしと
  思ひきや
  命なりけり
  さやの中山
と西行は詠んだ。「命なりけり」とは「命あってこそのことだ」の意味。ここには老いへの感慨があり、同時に自分の命をいとおしむ心境が詠われている。
 
 芭蕉は、おそらくこの西行の詩を思いやり、
   あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風
   此道や行人(ゆくひと)なしに秋の暮
と詠んだ。芭蕉にとって命とは、燃え盛るものであるとともに、沈潜するものであったようだ。芭蕉の「命」には西行の「命」が受け継がれているように思われる。漂泊者の命を思慕していたのであろう。
 
 僕らは誰だって漂泊者という命運を逃れ得ない。そのことを自覚するか否かは別の問題なのだが。あるいは自覚する時期がいつなのかは別の問題なのだが。

グリム兄弟( 再掲 )

2015年07月15日 | Weblog

 僕はいろんなことを試みてみたいと思ってきたが、試みてもどうしても出来なかったことの一つがメルヘンの創作である。これをするには少々の知識では無理で各地の伝説などを収集する根気が不可欠である。 グリム兄弟が多くの人々から聞き集めたメルヘンには民衆の心が生きていると言われる。
 兄ヤーコプ弟ヴィルヘルムは、苦学の末、良き師にも恵まれて文法学、歴史法学、比較言語学、神話学の世界的創始者になっただけではなく、言論の自由を訴えてゲッティンゲン大学教授の職を追われても国王の違憲を弾劾した実践的な正義の人であり、巨大な「グリム大辞典」の編集を始めた。後に東西分裂の最中にも旧東西ドイツの言語学者たちは協力して、この大辞典を完成させた。
 二十歳という若い日に、法律学徒の二人がメルヘンを集めるようになったのは、言葉と祖国への愛だったと言われている。時は1806年、ナポレオンの侵攻によって、八百年の歴史を誇る神聖ローマ帝国という名のドイツが崩壊した年。「ドイツの空が屈辱に暗く雲っていたとき、私たちはドイツの言葉にドイツの心を求めたのです」と、後にベルリン大学に招かれたときに語っている。メルヘンはお伽噺ではないのだ。
 話は変わるが、それから約130年後とんでもない人物が現れる。ヒットラー。グリム兄弟が築いたドイツの心を台無しにする野望を実現し、その後ドイツは混迷状態に入る。東西ドイツが統一されたのは1989年だったか、崩れるベルリンの壁の上で踊る若者たちを見て、当時の首相コールは「今は踊るのもよい。これからが問題だ」と言ったのを覚えている。
 何故グリム兄弟のことを記したかと言うと他意はないのだが、グリム童話選を読んでいて、メルヘンの奥にあるものを掴みたかったからである。

2015年07月13日 | Weblog

 僕は焼き物を観るのが好きだ。もっと若い頃は衝動買いで安物を手に入れ、悦に入ったことがあった。日本の焼き物は土を焼成したものが多い。変なことを考えた。土とは何か?
 長大な時をかけ焼かれたものが冷え、固まって風化した、それが地球だ。その地球の表層が土だ。土がもし無かったら、多くの植物は生えない。植物が生えなかったら、光合成がなされず、殆どの生物は存在しない。そうすると、仮に僕らが生存できるとしても、僕らの用を成すものの殆どは生育しない。勿論、樹木も野菜も生育しない。
 だから、人間を含む生物は土無しには生きられないのだ。当たり前のことだが、都市部の人々は土に感謝しているだろうか。土が見えないようにアスファルトで覆っているではないか。
 ところで、土を耕す人々が居る。彼らこそ地球の住民だ。土に養分を施し、豊かな土に種を蒔き、植物を育てる。その植物を僕らは金で買って食べて生きている。土に密着して植物を育てる人々のお陰で、僕らは生きることが出来る。僕らは土から浮遊しているのだ。浮遊物なのだ。
 浮遊物なんだけど、時には土に思いを馳せることがあってもいいのではないか。いずれ土に還るのだから。土と仲良くしておく方が寝心地がいいだろう。

モーツアルトvs.ベートーヴェン

2015年07月12日 | Weblog

 夕刊に興味深い記事が載っていた。脳生理学者の解析によると、モーツアルトはベートーヴェンより絵画的だというのだ。
 精神活動の際に発生する脳波の一つ「ベータ波」が音楽を聴いてどう変化するか、千分の2秒刻みで解析することに成功した。その結果、ベートーヴェンの「田園」を聴いた場合、脳の最前部にあり、意思決定や理性を司る「前頭前野」がまず反応し、その後、右脳側面の「失音楽」という領域と前脳前野が千分の16~18秒の周期で交互に活性化していた。「失音楽」は音楽を聴く際に特徴的に作用する場所とされ、損傷を受けると合唱や演奏がうまくできなくなるそうだ。
 一方、モーツアルトの「交響曲40番」を聴くと、前脳前野が反応するまでは同じだが、その後は、画像を見たりイメージを思い起こしたりする際に動く後頭部の「視覚野」と前頭前野が交互に活性化した。周期は同様に千分の16~18秒だった。
 この科学的解析は僕にとっては意外な結果である。両方の楽曲を何度も聴いているが、科学的解析とは正反対の印象をもっている。音楽は謎めいた「生き物」である。科学的解析を許すようなものだろうか。
 脳生理学者氏は「今後、周波数やリズムと、脳を活性化する部分の関係が解明できれば、特定のイメージや感情を呼び起こす曲を「設計」できるようになるのでは」と話しているそうだ。科学万能を信じるのも程ほどに、というのが僕の考えなのだが、僕の考えを超えていくのが科学なのかもしれない。しかし超えて欲しいとは一向に思わない。

城山三郎 『 落日燃ゆ 』

2015年07月08日 | Weblog


 ぶれない作家と辛口評論家たちも認めている城山三郎が不帰の人になったのは2007(平成19)年。
『落日燃ゆ』を再読した。

 1878(明治11)年に福岡県に生まれた広田弘毅は、東京帝国大学を卒業して外交官となり、諸外国での勤務を経て斎藤実内閣に外相として初入閣した。

 1936(昭和11)年、岡田啓介内閣が2・26事件のために総辞職し、広田はその後を受けて首相の座に就くが、閣内不一致で総辞職。

 1937年からの第一次近衛文麿内閣でも外相を努め、同年の盧溝橋事件に対して現地解決・即時停戦を主張するものの、日本は日中戦争・太平洋戦争へと突入した。

 敗戦後、無罪の訴えを潔しとしない広田は、東京裁判(極東国際軍事裁判)で絞首刑判決を受けた7人のA級戦犯における唯一の文官として、48年に処刑された。

 城山三郎は、大日本帝国海軍の特攻隊・伏龍部隊の隊員として終戦を迎えた。そんな経歴をもつ城山にとって、戦争とその責任は重大なテーマだった。

 城山の代表作とされるこの作品は、一人の悲劇の文官を描く伝記小説にして、印象的な場面に満ちた骨太の歴史小説でもある。

 広田弘毅の人柄と交流、東京裁判開廷直後に自殺した妻との逸話や法廷の異様さなど、劇的な史実を淡々と記すことで、城山は読者の胸を打つ物語を紡いだ。(毎日出版文化賞、吉川英治文学賞)