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自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

興味~~記憶~~老化

2015年08月30日 | Weblog

  「興味がなくなれば、記憶もなくなる。」(ゲーテ『箴言と省察』より)

 記憶の要領は興味をもつこと、これは当然であろう。問題は、絶えずいろいろな事に関心をもつ事が難しい点にある。難しいが、老化防止には役立つに違いない。
 ゲーテが、短命な時代に八十三歳近くまで生きて、最後まで活躍できた原動力は、彼の多様で旺盛な関心にあったのであろう。
 しかし、物忘れを恐れない事も大事だと思う。コロッと忘れてしまったような事柄は、裏を返せば、関心をもつに値しない些事なのだ。
 しかし、些事かどうかをどうして決めるのか。忘れた事は些事と言っていいのだろうか。そうは言えまい。僕はしばしば大事な事を忘れる。後で、後悔する。後悔するのは、忘れていた事を思い出した時であるが、その時は後の祭りである。
 しかし、まあ、忘れたら、気にせず、自己嫌悪などに陥らず、さらっと生きる事に心がけようと、最近になり思っています。しかし、そうすると、老化が早くなるのでは・・・。矢張り、興味津々の日々を送らねばならないのではないかと、ゲーテの言葉に頼りない蘊蓄を傾けながら、思う次第です。

老人クラブ離れ

2015年08月29日 | Weblog

 (朝刊より。僕にも関係があるのかな?)
 社会の高齢化が進み65歳以上の人口が急増している陰で、その親睦団体であるはずの「老人クラブ」が近年、減り続けている。ピークだった12年前に比べ昨年までにクラブ数で約1万5千、会員数で約150万人が減った。
 減った理由は様々だが、60代を迎えた団塊の世代の意識の変化が大きい。1998年には25%いた60代会員は、08年には19%に減少。逆に70代以上が急増し、08年には8割を占めた。
 兵庫県内の男性(65)は「介護保険の通知が先日届いてギョッとした。まだまだ若いし、老人クラブに入るなど考えたこともない」と話す。図書館に行ったり街を散策したり、忙しい毎日。ブログ仲間も全国にいる。「クラブの存在は否定しないけど、僕には無縁の世界です」。
 老人クラブについて、国は老人福祉法で高齢者の福祉増進や自立生活のための組織と位置づけ、今年度は27億6千万円の予算をつけるなど支援してきた。だが、相次ぐ解散や休会といった現実を前に、厚生労働省は昨年、補助対象となるクラブの規模を「30人以上」に引き下げた。

あかとんぼ

2015年08月28日 | Weblog

  
   夕やけこやけの あかとんぼ 負われて見たのは いつの日か

 三木露風作詞の童謡、「あかとんぼ」、四番まであるんですが、全部歌えます?全部歌える人は多分少ないのではないでしょうか。人々が歌わないからか(?)、あかとんぼが日本の秋空から激減しているそうです。
 八ヶ岳東山麓の美しの森で採集調査したところ、10匹足らずだった、97年までは100匹以上採れた、98年ごろから減り始め10分の1になった、大阪の金剛山や神戸の六甲山でもここ数年めっきり減った、との記事があった。
 「アキアカネは暑さが苦手。・・・南関東では6月下旬に羽化するが、この時期の気温の上昇のため暑さにやられてしまう個体が多いのでは・・・」と、温暖化や異常気象が原因と指摘する専門家も居る。
 あるいは、「コシヒカリやアキタコマチなど・・・早稲品種の田植えは4月ごろで、従来より1ヶ月早く、そのため一時田圃から水を抜く中干しも1ヶ月早く5月下旬ごろに。これがアキアカネのヤゴを直撃するのでは」と分析する専門家も居る。
 いずれにせよ、人間の都合があかとんぼの受難の原因であることに間違いはない。
 4番まで全部歌える人々が増えたら、あかとんぼも戻ってくるかもしれない。 

 一、夕やけこやけの あかとんぼ 負われて見たのは いつの日か
 二、山の畑の くわの実を こかごに摘んだは まぼろしか
 三、十五でねえやは 嫁にゆき お里のたよりも 絶えはてた
 四、夕やけこやけの あかとんぼ とまっているよ さおの先

ふるさと

2015年08月26日 | Weblog

ふるさとの山に向かひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな

汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来れば
襟を正すも

 この啄木の詩に初めて接した時のことを思い出す。あの頃は、啄木の山が有名な岩木山であるからこそ、彼はひとしおの感を抱いたのだと思った。だが、今はそうは思わない。他郷の人から見ればどんなにつまらない山であっても、ふるさとの山には幼い日の思い出が浸みついている。啄木の山がたまたま岩木山であって、汽車の窓から臨み見えたのであって、名もない山でも啄木は同じ気持ちで詠んだに違いない。僕もふるさとを離れて久しい今、そう思う。
 ふるさとは確かに実在するものに相違ないが、永く離れている者にとって、心の中で美化され育まれてきた一種観念的な存在でもある。永く離れていればいるほど、空想の部分が膨れあがり、ふるさとは温かみと輝きを増し、懐かしさに充ちたものへと変わっていく。子供の時の「山の神」行事が限りなく懐かしい。松明を掲げて夜の山を駆け巡った心地よさは、他に喩えるものがない。
 誰にでも在るふるさとを僕が今日いつもよりも愛おしく懐旧するのは何故だろう。 この何故だろうに応えようとするのは無粋というものだ。後六日で一年の三分の二が過ぎ行く。

福永武彦 『 玩草亭百花譜 』

2015年08月25日 | Weblog

 故・福永武彦の画文集『玩草亭百花譜』を気の向くままに見る。この作家が死の直前まで描き続けた野の花の写生集である。
 ナデシコ、オミナエシなどの絵がある。信濃追分を吹く風の音が聞こえてくるようだ。林道に咲くマツムシソウもクサアジサイも不思議なほどの清澄さを醸している。野の花を友にした著者は、スケッチに心を遊ばせ、小さなものの命を見つめることで肉体の苦痛を逃れることが出来たらしい。一枚一枚の絵には、野草の生命力に対する憧憬が感じられる。
 詩人・木下杢太郎にも『百花譜』(一昨年だったか、岩波文庫で復刻)という写生集がある。この木下作品に福永武彦が一文を寄せている。「木下さんは、ひそかにその命の焔の長くは燃え続きそうにないことを知って、最後の夢を写生に託し情熱の一切を傾けたのではないか」と。野の花は二人を最後まで励ましたに違いない。この心境がなんとなく分る歳に僕もなった。
 僕んちの猫の額には、有り難いことに白いムクゲが咲いてくれている。朝咲いて夕方にはしぼむ一輪一輪の生命は儚くとも、豪雨にも負けない気丈さを醸成している。

ヒグラシ (笑い?話をひとつ)

2015年08月22日 | Weblog

 ヒグラシの声には、どこかもののあわれを感じさせる趣があり、あの声を聞くと一句ひねりたい気分になるそうだ。
 ある会社の退社時間の頃、日ごろヘタな俳句を作っては得々ととしている一人の社員が、紙切れに一生懸命何か書き付けている。こういう場合には漢字の方が感じが出ると思ったのか、そばの同僚に「ヒグラシってどういう字だ」と訊ねた。「虫ヘンに、中国の王朝の名の周という字だよ」と答えると、「シュウってどういう字だ」と訊いてきた。「調べるという字のゴンベンのないヤツ」と言うと「シラベルって?」と訊く。「ああー、面倒みきれないなあ。鯛のツクリの方だよ」と同僚が言うと、折りしもヒグラシがカナカナカナと澄んだ声で鳴き始めた。するとその男、「そうか、カナで書こうか」。
 こういう話があったかどうか。今ではヒグラシに教えられるまでもなく、もうほとんどカナ書きで立派な俳句が作れるようだ。
 僕はというと、鯛のツクリが食べたい。

或る編輯後記 ( 昭和20年「 文藝春秋 」 )

2015年08月20日 | Weblog

 『昭和二十年の「文藝春秋」』という新書版の本を買った。この年『文藝春秋』は4月から9月まで発行されていない。発行された分の編輯後記に関心をもったので、引用する。

 ○新年号の編輯後記より
 大東亜戦争の天王山といわれる比島の決戦が日日に熾烈さを加えている今日、敵機の空襲はようやく執拗さを増してゆく。晴れわたる祖国の空を仰いでB29の醜翼を見る者、誰か烈々たる敵愾(ガイ)の情心中に滾(タギ)るのを感ぜぬ者があろうか。われら銃後の健闘が直ちに主戦場比島に繋がることを痛感せぬ者があろうか。事実はあらゆる形容詞を一蹴して、われら一億を真の野戦へ起(タ)たしたのである。戦わん哉。戦わん哉。

 ○二月号の編輯後記より
 今や全国民の熱願をこめて、比島戦は開始された。粛々として動かざるわが主力が、迅雷の行動を起こす時をわれ等は刮目(カツモク)して期待しているのである。米兵の鏖殺(オウサツ)、ただ鏖殺あるのみ。敵をして出血の夥大(カダイ)に悲鳴をあげさせるまで、われ等銃後の生産陣は一刻の懈怠(カイタイ)も許されないのだ。

 ○三月号の編輯後記より
 われわれは今こそ前線に繋がる悦びを持つ。グラマンの跳梁を抑えて大空を乱舞する友軍戦闘機群の爆音。校正室の窓ガラスをビリビリ震わせて咆哮する高射砲の轟き、そして異様なる音響をたてて落下する銃弾に破片――これが戦場でなくて何であろう。今まで銃後と前線との緊密さについて、しばしば口に叫ばれ筆に書かれたが、それらの言葉が真実であればあるだけ、それの伴う実感には時に空白なるもののあるのは否定し得べくもなかった。銃後国民の本当の肚(ハラ)の底から出るべき決意と行動が、いつの間にか空転し、空念仏に終わるの撼(ウラ)みさえ乏しくはなかった。しかるに一度硝煙が本土にわき上るに及んで、我等の衷心から覚える勇躍感はどうであろうか。遅疑すべく何物もなく、今や我等の全存在はこの大みいくさの戦場にしっかと立ちはだかっているのである。前線将士と同じ誇りに立ち同じ苦難と歓喜を頒(ワカ)ち合う今日の事態を、我等は敢闘一本に貫くことを誓い合おうではないか。

 ○十月号の編輯後記より
 三月号以後の空白、この間の感慨はことさらにこれを省略したい。四月号は編集終了直後五月二十三日印刷所で焼失、ただちに代行印刷所を選定しその再編輯もほとんど成ったところで終戦の御詔勅を拝受した。終戦と同時に急遽立上って作製されたものが本号である。
 「日本人の大半は一度として自由を拘束されざる出版というものを経験した事がないのである。従って厳重な監視下にあった出版が民主主義的な特権を享受する出版へと移行するのは容易な業ではなかろう。日本の編輯者は各自が印刷するものについて慎重に考慮し、熱狂の余り無意識のうちに自由の域を越えて放縦の世界へと足を踏入れることのないようにせねばならぬ」と、在る米週間時評家が述べているそうである。終戦直後の寄稿を掲載した本号を一読すれば、人々が次々にたぎる憤怒と反省を自ら制御し難きままに打(ブ)ちまけている荒い呼吸づかいを紙背(シハイ)に聞くのである。編輯者に止まらず、一際の日本人はただいま「自由」の風圧下に自失していると云うのがあらゆる面での真相である。
 昨日迄一億総決起、本土決戦を強調したアナウンサーがその口調と音声で今日は軍国主義を忌憚なく指弾し民主主義を高調している。アナウンサーは人格ではなかったのだ、機械なのだ、と市民は云う。耳を塞いでこの言葉を聞かずに過ごす資格を我々は持たぬ。我々の過去の道は実にジグザグであった。あらゆる強要に対して家畜の如く従順であった。従順である以上に番犬の役をかって出た者もあった。今日の侮過(ケカ)の激しさを役立てねばならない。

 ○十一月号の編輯後記より
 敗戦の痛苦は、いまやっとはじまったばかりである。・・・
 一人の義人あるなし、戦いの直前にかく嘆じたわれわれは、この惨憺たる敗戦の今日、再び同じ嘆きを発せずにはおれない。到る所に見る頽然たる人心の荒廃と麻痺なり。
 われらは天下の声に和して、率然と「自由」に晏如(アンジョ)たるを得ない。あふれ出るわれらの涙で洗い清め上げられた「自由」を、幽かに光りと仰ぐものなり。

 ○十二月号の編輯後記より
 われら日本国民の忘れんとして忘れ得ざる昭和二十年を旬日のうちに送らんとするに当たり、読者諸氏の感懐や如何に!! 我等編輯同人等しく無限の悲愁と衷情を籠めてこの[註:昭和二十年の]最終号を諸氏の机辺に贈るものである。
 痛烈なる自己革新のなきところ、輝かしき前進はない。敗戦以来、我々は何処に痛恨骨を噛む如き残恨と贖罪の文章に接したであろうか。あるものは比比として表層的な民主主義への転身謳歌のみである。かくてわれらは真の民主主義に徹することなく、再び世界の舞台に乗り出し得ると思っているのであろうか。
 再建日本に近道はない。日本知識人の叡智と友愛を信じつつ、この新たなる苦難の歳をわれら自らの手によって切り拓くことを、相共に誓い度いと思う。


 (『文藝春秋』に限ったことではないのだが、戦前と戦後との編輯後記がいかに異質なものか!仕方がなかったとは言え、その変わり身の早さ! 変わり身の早さが、戦後5年の朝鮮戦争特需で日本がぼろ儲けし金権体質を露呈しても、無反省につながったのではないか。それ以降、民が主という民主主義は日本に根を下ろしたのであろうか。とりわけ今年は民主主義が試される年だ。)

ゲーテ 『 ファウスト 』より

2015年08月19日 | Weblog

お金も医者も魔法も使わないで済む方法があります。
すぐ畑に出て、鋤や鍬を握ることです。
身も心も限られた世界において、
わき見をしないで生活することです。
自然のままの物を食べ、
家畜と一緒に、家畜のように生活し、
自分が収穫する畑に自分で肥料をやることをいとわない。
これが一番良い方法なんです。
これなら、八十になっても、若さが保てること請け合いです。

(『ファウスト』第一部「魔女の料理場」における台詞。ローマに滞在中に書かれたものと推定されている。窮屈なワイマール宮殿を脱し、イタリアへ長期旅行に出かけたゲーテは、土に親しむ生活を経験した。自由な天地を旅して真に健康な生活を礼賛したくなったと思われる。思うに、農業を初めとする第一次産業の大切さと楽しさをあらためて直視しなければならない。)

戦争終結後の騙まし撃ちが避けられた。城山三郎 『 指揮官たちの特攻 』( 初版平成16年 )

2015年08月16日 | Weblog

配属先は零戦部隊
艦上爆撃機の名手・関大尉二十三歳は不満であった
しかし命令であった
二五〇キロ爆弾を装着した零戦の編隊の指揮
レイテ方面の米軍機動部隊への体当たり攻撃
一九四四年十一月二十五日 五機の部隊ともども
帰らぬ出撃をした 神風特攻隊第一号であった
濃いエメラルド色の海に若者たちは散った
「軍神」関の新妻・満里子は
淡々たる気持ちで死に趣くといふ性格の人でした
との言葉を残している
夫妻の心中やいかばかりであったろうか

以後 幾多の特攻兵が死に急がされた
殆どが二十歳未満の若人であった

兵学校から練習航空隊へと関中尉と同期の中津留大尉
新妻・保子 それに生まれてくる子の為に無闇に死ねない
本音であった
四五年三月には日本の防衛線は崩壊の一途を辿った
硫黄島が玉砕 四月一日沖縄本島へ米軍上陸
特攻の目標は沖縄水域に移った
四月六日には四百機中三百機が撃墜された
中津留大尉は一度限り我が子と直接対面している

八月十四日「対ソ及対沖縄積極攻撃中止」という不可解な下命
翌日正午玉音放送

戦争終結を知らされないまま中津留大尉に出撃命令
沖縄水域には数え切れない特攻兵が沈んでいる
目標水域には敵機も敵艦隊の姿もなかった
彼は終戦を覚った その時 米軍キャンプが見えた
突撃命令を無視 左に旋回 岩礁に突っ込んだ
僚機も水田に突入
この英断によってこそ
戦争終結後の騙まし撃ちが避けられ
敗戦後の日本が曲がりなりにも平和へと軟着陸できたと言える

死ひとつ

2015年08月15日 | Weblog

 昨日、書店で文庫本を買って帰宅したら、玄関の真ん前でアブラゼミが一匹仰向けになって死んでいた。四十分ほど前には見られなかった光景である。濃い茶色に黒い斑点模様の羽根は裏から見ても同じである。 
 
 なぜこんな人工的なところで死んだのか。生木の下とか草の中とか、ふさわしい死に場所があったであろうに。死に場所を選ぶ余裕がなかったのであろう。一生懸命に鳴き続け力尽きたのであろう。アブラゼミの中にはは鳴くところもあまり選ばないのが居る。軒下とか外柱とか、乾ききった材にとまって鳴くのが居る。生木にとまって鳴くのなら多少の湿気もあり過ごし易いだろうが、軒下とか外柱では鳴くのも鳴きにくいのではないだろうか。そんなアブラゼミが一匹、何にも拘泥することなく玄関の真ん前で死んでいた。
 
 僕は死んでいるアブラゼミをそのままにして、家の中に入り汗を拭き麦茶を飲み、猛暑にあてられた身体を労わった。死んだアブラゼミは死ぬ前に身体を労わるということをしなかっただろう。そのことを思うと、僕の身体がほんの少し震えた。動物としてはアブラゼミも僕も同じなのにと思った。仕方の無いことだとも思った。僕の脳裡を占めたのは、死ひとつだけであった。

 今日は70年前に戦争が終わったとされる日。実際には、この日の後も戦争行為は続けられ、荒野で亡くならざるを得なかった人々が多く居られるのだが。そんな人々のことをも想って、今日は黙祷します。

詩人・尹東柱(ユン ドンヂュ)

2015年08月14日 | Weblog



 尹東柱、創氏改名させられて平沼東柱。戦時下、立教大学そして同志社大学に留学。祖国解放について密談したとの嫌疑で特高によって拘束。1945年2月福岡刑務所で獄死(27歳)。死の前に九州帝大の医師によって特攻兵の士気を高揚させるための試薬を注射されたとの説あり。死後、詩人として認められた。


    序詩


死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥なきことを
葉群れにそよぐ風にも
私は心を痛めた
星をうたう心で
すべての死にゆくものを愛さねば
そして私に与えられた道を
歩みゆかねば


今宵も星が風にこすられる    (1941年11月20日)


 この詩は高等学校の教科書にも載っていることもあり、知る人も案外に多いかもしれない。同志社には詩碑も建立されている。20年ぐらい前に初めてこの詩を読んだとき僕は戦慄を覚えた、その稀有な殉情に。



 「序詩」は、死後刊行された詩集『空と風と星と詩』の冒頭におかれた。
 この詩集に収められた詩の多くはハングルで書かれた。日本統治下でハングルで詩を書くという事は何を意味したのであろうか。
 仲のいい彼の従兄弟・宋夢奎とは生地も絶命の地も同じである。二人の希求したのは朝鮮の独立であった。政治活動家の宋に彼は密かに憧れの念を抱いていたふしがある。政治活動に入れないことを密かに恥じていたふしがある。しかし、東柱は暗喩としての果敢な政治活動をしていたと言える。朝鮮語廃止の時代に、あくまでも母国語で書き続けたという事実に凄みがある。しかも、詩である。権力が最も恐れるのは言語芸術である。意味把握の難しい詩という暗喩こそを権力は憎悪する。だから、必死になり日本語に訳させた。終戦時に焼き捨てられた詩もあった。
 このような時代に詩を書くこと自体が芸術的抵抗である。反権力の抵抗詩を書いたという事ではない。詩作が、それだけで抵抗なのである。
 東柱は内向的、非社交的な性格であった。政治活動をできない事を恥と捉えていたと思われる。彼の恥はとてつもなく奥深いところに根差していた。暗闇の時代にあって、母国民としての殉節を貫く事を信条にしていたからこそ、絶えざる励ましと慰めを求め、「天を仰」がずにはいられなかった。「天を仰ぎ一点の恥なきことを」誓わずにはいられなかった。彼はそういう詩人であると思う。

「終わりに臨みまして・・・」

2015年08月12日 | Weblog

(『ふるさとの風や』より)

  遺書
 二十年の年月お世話に成りし母様始め皆様の御恩に報ゆることなく過ごして参りましたが、この度、栄ある帝国陸軍の現役兵として、国家多難の折入隊しました事を機会に身を君国に捧げ、国家の礎石となる事を喜ぶしだいであります。渡兄様どうぞ母様始め阿部家の事はお願い致します。
 達子姉も早く嫁にやり、良き妻となる様お世話を願います。
 終わりに臨みまして母様始め皆様の御健康を祈っております。

昭和十九年十二月二十七日 記           阿部 康

(阿部 康   昭和二十一年三月二十二日、満州延吉第一病院にて戦没、二十二歳)

 
 終戦記念日は記念日として非戦を誓う日。但し日本が起こした戦争はその後も続いていた。終戦の日の後日の事も、沖縄地上戦、シベリア抑留などをも記憶に留めておかねばならないと思う。加害者であったことも決して忘れてはならない。

長崎平和宣言全文

2015年08月09日 | Weblog

(新聞速報より)

 昭和20年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾により、長崎の街は一瞬で廃墟と化しました。

 大量の放射線が人々の体をつらぬき、想像を絶する熱線と爆風が街を襲いました。24万人の市民のうち、7万4000人が亡くなり、7万5000人が傷つきました。70年は草木も生えない、といわれた廃墟の浦上の丘は今、こうして緑に囲まれています。しかし、放射線に体を蝕まれ、後障害に苦しみ続けている被爆者は、あの日のことを一日たりとも忘れることはできません。

 原子爆弾は戦争の中で生まれました。そして、戦争の中で使われました。

 原子爆弾の凄まじい破壊力を身をもって知った被爆者は、核兵器は存在してはならない、そして二度と戦争をしてはならないと深く、強く、心に刻みました。日本国憲法における平和の理念は、こうした辛く厳しい経験と戦争の反省の中から生まれ、戦後、我が国は平和国家としての道を歩んできました。長崎にとっても、日本にとっても、戦争をしないという平和の理念は永久に変えてはならない原点です。

 今、戦後に生まれた世代が国民の多くを占めるようになり、戦争の記憶が私たちの社会から急速に失われつつあります。長崎や広島の被爆体験だけでなく、東京をはじめ多くの街を破壊した空襲、沖縄戦、そしてアジアの多くの人々を苦しめた悲惨な戦争の記憶を忘れてはなりません。

 70年を経た今、私たちに必要なことは、その記憶を語り継いでいくことです。

 原爆や戦争を体験した日本、そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。

 若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。「私だったらどうするだろう」と想像してみてください。そして、「平和のために、私にできることは何だろう」と考えてみてください。若い世代の皆さんは、国境を越えて新しい関係を築いていく力を持っています。

 世界の皆さん、戦争と核兵器のない世界を実現するための最も大きな力は私たち一人ひとりの中にあります。戦争の話に耳を傾け、核兵器廃絶の署名に賛同し、原爆展に足を運ぶといった一人ひとりの活動も、集まれば大きな力になります。長崎では、被爆二世、三世をはじめ、次の世代が思いを受け継ぎ、動き始めています。

 私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。

 今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議は、最終文書を採択できないまま閉幕しました。しかし、最終文書案には、核兵器を禁止しようとする国々の努力により、核軍縮について一歩踏み込んだ内容も盛り込むことができました。

 NPT加盟国の首脳に訴えます。

 今回の再検討会議を決して無駄にしないでください。国連総会などあらゆる機会に、核兵器禁止条約など法的枠組みを議論する努力を続けてください。

 また、会議では被爆地訪問の重要性が、多くの国々に共有されました。

 改めて、長崎から呼びかけます。

 オバマ大統領、核保有国をはじめ各国首脳の皆さん、世界中の皆さん、70年前、原子雲の下で何があったのか、長崎や広島を訪れて確かめてください。被爆者が、単なる被害者としてではなく、“人類の一員”として、今も懸命に伝えようとしていることを感じとってください。

 日本政府に訴えます。

 国の安全保障は、核抑止力に頼らない方法を検討してください。アメリカ、日本、韓国、中国など多くの国の研究者が提案しているように、北東アジア非核兵器地帯の設立によって、それは可能です。未来を見据え、“核の傘”から“非核の傘”への転換について、ぜひ検討してください。

 この夏、長崎では世界の122の国や地域の子どもたちが、平和について考え、話し合う、「世界こども平和会議」を開きました。

 11月には、長崎で初めての「パグウォッシュ会議世界大会」が開かれます。核兵器の恐ろしさを知ったアインシュタインの訴えから始まったこの会議には、世界の科学者が集まり、核兵器の問題を語り合い、平和のメッセージを長崎から世界に発信します。

 「ピース・フロム・ナガサキ」。平和は長崎から。私たちはこの言葉を大切に守りながら、平和の種を蒔き続けます。

 また、東日本大震災から4年が過ぎても、原発事故の影響で苦しんでいる福島の皆さんを、長崎はこれからも応援し続けます。

 現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、今揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な審議を行うことを求めます。

 被爆者の平均年齢は今年80歳を超えました。日本政府には、国の責任において、被爆者の実態に即した援護の充実と被爆体験者が生きているうちの被爆地域拡大を強く要望します。

 原子爆弾により亡くなられた方々に追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は広島とともに、核兵器のない世界と平和の実現に向けて、全力を尽くし続けることを、ここに宣言します。

 2015年(平成27年)8月9日

長崎市長 田上 富久

認知症予防の6ヶ条

2015年08月08日 | Weblog

少しだけ関係していた特別養護老人ホームから毎月送られてくるパンフレットに、
【認知症予防の6ヶ条】なる具体的な提案が載っていた。
 ① 活発な生活や運動をして筋力・体力を維持・増進しよう !
 ② しっかりした食事で活動に必要な栄養をしっかり摂ろう !
 ③ 栄養をしっかり摂る為に、口の健康を保とう !
 ④ 家に閉じこもることなく外出し、気分転換しよう !
 ⑤ 人と交流・会話して楽しく過ごそう !
 ⑥ 人と会うことで刺激を受け適度に緊張感を持とう !

 はて、さて、退職した後、僕はこの6ヶ条にだいぶん抵触しているようだ。気をつけねば。本欄をお読みの方の中にも、もしかしたら例えば①をお読みになって、ああ、と思われる方も居られるかも。

山口彊 『 ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆 』( 初版2009年 )

2015年08月07日 | Weblog


昭和の初め 私が中学に入った頃
学問の場で軍事教練が始まった
歴史のターニングポイントであったのだろう
だが まだ英語が教えられ
私は特に英語に関心を抱き 勉強した

長崎はインターナショナルな地であった
国際連盟の設立 軍縮ムード
そんな時と場所で 他人を武力で支配したがる人間に
私は青年らしい憤りを感じた
弁論部で世界平和をぶったこともあった

昭和九年 長崎三菱造船に入社 設計技師
商船やタンカーの製図工として働き始めた
愛国心という偏狭なナショナリズムが横行し始めた
昭和十三年 国家総動員法成立
しかし 鉄材不足で満足な船をつくれず

昭和十八年結婚
150日生きた長男の死 病院には薬も注射もなかった
銃後の人間も多く死んだのだ
昭和十九年八月 長崎 初めての空爆
その頃から私の出張が増えた

昭和二十年五月 三ヶ月の予定で広島へ出張命令
広島では七月に入るとそこかしこで疎開が始まった
長崎帰任は八月七日と決まっていた
八月六日 帰任の挨拶まわりをする最後の通勤
遠くから聞き慣れたB29のエンジン音

そのとき私は見た 白い落下傘を二つ
途端に 地上に白熱光が満ち 中空で炸裂し
膨張する大火球が大爆発
爆風が私を吹き飛ばした 意識を失った
素肌を焼きゴテで灼かれるような疼痛で我に返った

毛髪はすべて燃え 顔も首筋もとろけた ひどい火傷
焦げた左腕が膨れ上がり 皮膚が垂れ下がった
やがて黒い雨 ひりつく顔面にも降り注いだ
通りがかりの学生が椰子油を塗ってくれた
広島は焔の中に自らを投じて燃えていた

川面に人と人がひっついて漂っていた まるで人間の筏
八月七日 避難列車が長崎に向かって出るとのこと
七時ごろ己斐駅(現・広島駅)へと第一歩を踏みしめた
広島の街には 一望千里 視界を遮るものは無かった
午後一時 己斐駅を出発

長崎駅に列車が着いたのは八日の昼近く
実家では私は死んだものと思われていた
妻は私を一目見て絶句したが
「よくぞご無事で・・・」と言い 涙を流した
次男と三人 三ヶ月ぶりに一つ屋根の下で寝た

翌朝 出勤 広島の惨状を説明しているとき
ピカッと閃光を窓外に認めた
私は机の下で身をかがめていた
地を轟かす音 竜巻の塊のような強風
浦上方面の上空に 広島で見たキノコ雲

幸い妻も次男も無事だった
だが 長崎でも人間の筏を見た
八月十五日 「とうとう終わった」
悪寒の中 涙は出なかった
しかし 苦難は戦争の終結で終わったわけではなかった

今日をどうやって生きていけばいいのか
私は英語を活かして通訳として働くことができた
占領軍の米兵とつき合っている間に
アメリカ人も人間であることを理解できた
人間への信頼を取り戻すことができた

反核運動に目覚めた
ノルウェー ニュージーランド アメリカ イギリス
外国のメディアも私を訪ねてきた
二重被爆者としての私は私の体験を語った
国連本部の一角でも講演した

次男を癌で失った 享年六十歳
私の現実は原爆から離れられない
二重被爆に関する記録映画への出演を依頼された
九十歳を目前に使命感がふつふつと湧いてきた
語り部としての私の活動はまだ終わっていない