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自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

自由な考え方

2015年09月19日 | Weblog

 「本当に自由なものの考え方とは、他を認めることだ。」(ゲーテ『箴言と省察』より)

 人ひとりの考えなど、しれたもので、そこから生まれるかもしれない行動の規範は極めて狭い。井の中の蛙が自由であるはずがないではないか。
 自縄自縛という言葉があるが、その縄は「自分自身」であり、その縄の拘束力は比類ないほど強いばかりではなく、厄介なことに見つけにくい。
 自分の殻を脱いで他を認める時、初めて僕(ら)はその縄から解き放たれ、自由なものの考え方をすることができる。
 概略、このような意味であろう。しかし、言うは易しく行うは難しで、僕なんぞは自縄自縛の状態にある場合が多い。縄をほどき殻を脱ぐには、他の言を傾聴することが大事だと思う。たとえ、その言がつまらなく、愛想のよいものであっても。但し、その言が立て板に水を流すような言ならば、あるいは権威を傘にきた(つもり)の言ならば、僕は逃げることを良しとする。
 とかく、自由な考え方というものには達し得ないものだ。そしてまた、もの言えば唇寒し秋の風ということも時々はわきまえておかなければならない。

自己愛はこれ程まで強いのだろうか?

2015年09月18日 | Weblog

(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)
 「友達の幸福からわれわれがとっさに感じる喜びは、われわれの生来の気立ての良さに由来するのでもなく、友達に抱いている友情に由来するのでもない。それは自己愛のひとつの表れであって、自己愛が、次には自分も幸福になれそうだとか、友達の幸福から何か便宜を引き出せそうだとかいう希望で、われわれの心をくすぐるのである。」

 友達の幸福を素直に喜ぶこともあると思う。自己愛に基づいて友達の得た幸福をやっかむ場合もあるだろうが、そんな場合だけではないと思う。そうはいうものの、こう思う僕ももっと若い時は今より自己愛に耽溺していたと回顧できる。自己愛の程度が弱くなったのは歳のせいだろうか。
 ラ・ロシュフコーの箴言は、読む年代によって異なった意味を与えると思うが、だいたいにおいて、人間にまつわる真実を描いているとも思う。
 あなたの自己愛はどれ程でしょうか?

或る山の歴史( 再掲 )

2015年09月17日 | Weblog

 島崎藤村が生活していた所から遠くない所、木曽福島の一つ手前の駅がJR上松である。木曽福島では毎年音楽祭があったり、先輩が居たりして、行くことがあった。上松は木曽の樹木の寄せ場で賑わった所である。その近くに赤沢自然休養林がある。第一回森林浴大会が行われた所でもある。パンフレットを探し出し、木曽・赤沢の歴史を復習した。
 天正18年(1590)秀吉、木曽氏領有地を直轄領とする。
 慶弔 5年(1600)家康の直轄領となる。強度伐採始まる。
 天和元年(1615)尾張徳川領となる。築城、造船、土木用材伐採。
 明暦 3年(1657)江戸大火。復興材伐出。
 寛文 5年(1665)留山、巣山を設ける。赤沢檜木林留山。(当時は小川村小川入南山と称す。)
 元禄年間(1688-1703)小川入り赤沢留山檜木林の強度伐採。
 宝永 6年(1708)檜木、さわら、あすなろ、こうやまきの四木、停止木となる。後にねずこも停止木となる(木曽五木)。
 元文 3年(1738)かつら、けやきが留木となる。
 明治12年(1738)山林局設置。(官林)
 明治22年(1889)帝室林野局御料林となる。
 明治39年(1906)神宮備林設置。
 明治44年(1911)中央本線開通。
 大正 5年(1916)小川森林鉄道完成。神宮備林施設開始。(太平洋戦後の経済成長により樹木が大量に伐採。しかし、「檜木大径保存林」「学術保存林」に指定。)
 昭和22年(1947)林政統一。国有林となる。
 昭和44年(1969)全国初の自然保養林に指定される。
 昭和50年(1975)森林鉄道廃止。全線自動車輸送となる。
 昭和57年(1982)第一回森林浴大会開催。
 昭和58年(1983)「21世紀に残したい自然100選」に選ばれる。
 昭和62年(1987)森林鉄道復活(森林浴用)。

 何故こういう歴史を辿ったかというと、森林の重要性が焦眉の的であり、森林文化という発想を木曾・赤沢の人々が改めて強く考えて、訴えたからである。 しかし、この訴えが全国的に広がることなく、現在に至っている。

「自分はいまこそ言はう」

2015年09月16日 | Weblog

  自分はいまこそ言はう     山村暮鳥

なんであんなにいそぐのだらう
どこまでゆかうとするのだらう
どこで此の道がつきるのだらう
此の生の一本みちがどこかでつきたら
人間はそこでどうなるのだらう
おお此の道はどこまでも人間とともにつきないのではないか
谿間(たにま)をながれる泉のやうに
自分はいまこそ言はう
人生はのろさにあれ
のろのろと蝸牛(ででむし)のやうであれ
そしてやすまず
一生に二どと通らぬ道なのだからつつしんで
自分は行かうと思ふと


(「一生に二どと通らぬ道なのだからつつしんで」というところが、いいですね。)

おでん考 ( 季節柄、再掲 )

2015年09月15日 | Weblog

 おでんが美味しい季節の到来。或る食品メーカーによると、昨年食べた鍋料理のトップは「おでん」。99年にすき焼きを抜いて以来、連続でトップ。年代別でも、20代~50代のすべてで一位。おでんは、国民食という感すらある。
 おでんという言葉のルーツは田植えの際に五穀豊穣を祈り奉納した舞い(田楽舞)にあるそうだ。竹馬に似た一本の高足(鷺足)に法師が乗り踊ったとされる舞いである。その舞いに因んで、鷺足を串に、法師を豆腐、田を味噌になぞらえたことから、「豆腐田楽」が生まれたのは、足利時代末期のことらしい。その後、長く田楽と言えば、豆腐、辛し味噌と決まっていたが、江戸の中期ごろ、コンニャクや里芋が具に加わる。当初は豆腐田楽と同様に、焼いた石でコンニャクの水を飛ばし、味噌を塗っていたようだが、その後、竹串に具を刺して鍋で茹でてから味噌をかける「煮込み田楽」が考案された。幕末頃、醤油や砂糖で煮付ける、現在のおでんのスタイルへと変化していったのだそうだ。因みに、おでんには「御田」の字を当てる。
 醤油や砂糖で煮付ける関東風の煮込みおでんは、幕末以降、上方へと広まり、従来の焼き田楽と区別するために「関東炊き」と呼ばれるようになったと言われる。今でも、具を醤油と砂糖で煮付けしたおでん風の鍋を関東炊きと呼ぶ地域も少なくない。(中国からの渡来人が堺で大鍋で様々な具を煮込み食していた「広東炊き」に由来するという説もある。)
 関東のおでんはその後、関東大震災で炊き出しとして再注目されるまで、いわば冬の時代を迎える。
 ところで、料理の味付けで、しばしば「関東風」「関西風」なる表現がある。これは通常、醤油の濃淡を指し、一般的に関東風は濃い口、関西風は薄口の醤油を用いることからそう呼ばれることが多い。
 おでんにも関東風と関西風があるのだろうか。一般的に関東のおでんは鰹ダシをベースに濃い口醤油で味を整え、関西では昆布ダシに薄口醤油で味つけすると言われる。そこから、関東風、関西風と呼ばれるているようだが、元々、大阪には具を醤油で煮込むという習慣はあまりない。醤油はあくまで最後の香りづけとして用いられてきた。
 こうした点から言って、醤油で煮付けるおでんには、厳密に言えば、関西風なるものはないのである。とはいえ、関東で生まれたおでんが関西で様々に改良を加えられ、庶民の味として、料理として確立されたことも事実である。
 ところで、食べ物に関しては、何かと蘊蓄や能書きがつきものである。通の間では、おでんにも「がん、ちく、とう、だい」なる言葉がある。粋人の好む四大おでん具と言われるもので、「がん=がんも」「ちく=竹輪」「とう=豆腐」「だい=大根」となる。おでん具の中で最も手間の掛かるがんもで作り手の技量が、ダシのよしあしや煮込み具合で一目瞭然の大根が、店のレベルを物語るのだという。
 家庭で旨いおでんを作るには次の点に留意したい。(実際には留意しない事も多かろうと思うが。)
 さつま揚げやゴボウ天というような練り物は熱湯をかけて油を抜く。また、鶏肉などを入れる場合は(僕ちでは入れない)、お湯をかけてから水にひたし、余分な脂を除いておきたい。旨いおでんは下ごしらえが肝要である。
 大根は厚めに皮をむき、面取りをしてから、米のとぎ汁で茹でると形崩れしににくなる。コンニャクも一度茹でるのがおすすめ。また、いつもとはひと味違うコンニャクを味わいたいときは、茹でた後に表面を軽くごま油で焼くという方法も。この場合は、コンニャクは焦げ色がつく程度までしっかりと焼くのがコツ。(僕ちでは、こんな面倒なことはしない。)
 おでんのダシは、昆布と鰹節で取るのが一般的だが、骨つきの鶏肉を入れると絶妙の隠し味となる。(僕ちでは、こんな面倒なことはしない。)チキン味のスープの素でも可。
 おでんの具は日本各地で郷土色豊かであるが、ここでは省略する。
 とにかく、おでんという馴染みの鍋料理にも歴史があり、また蘊蓄を傾ける人もいる。他の料理でも同様のことが言えるのであろうが、この時期最も身近なおでん(御田)について、一考を巡らしてきた。こんな一考はどうでもいいと捨て置かれないことを切に願う。

中秋の名月

2015年09月13日 | Weblog

 今年の中秋の名月は9月27日だそうです。
旧暦8月15日は十五夜。この日の月は「中秋の名月」として知られており、お月見をするのがならわしとなっている。
 月の満ち欠けによって暦を作っていた太陰暦(旧暦)では、7、8、9月を秋としていていました。その真ん中の8月15日を中秋といいます。
 陰暦八月十五夜の月(中秋の名月)。また、陰暦九月十三夜の月(栗(くり)名月。
 
★2020年までの中秋の名月の日
2013年(平成25年):9月19日
2014年(平成26年):9月8日
2015年(平成27年):9月27日
2016年(平成28年):9月15日
2017年(平成29年):10月4日
2018年(平成30年):9月24日
2019年(平成31年):9月13日
2020年(平成32年):10月1日

★「中秋の名月」は、「十五夜(満月の意味)」とも呼ばれますし、ちょうど芋の季節なので、その収穫を感謝しお供えすることから「芋名月」とも呼ばれます。

★稲の豊作を祈る祭りを行ったことが始まりとされていますが(稲の豊作祈願ではなくもともとは芋類の収穫祭、すなわち畑作儀礼だったと考えられているという説も)、実際には正確な起源はわかっていません。

★中国ではかなり古くから「望月(月を見る催し)」という行事があり、それが平安時代に遣唐使によって伝えられたものが日本で広がったとする説です。

★奈良時代にはすでに宮中などで月見の宴を開いていたと歌集や物語に書かれているそうです。

きぬかつぎ(衣被)....... これが美味い!♪
( 中古・中世の時代に、身分の高い女性は外出するときに、顔を隠すために単衣(ひとえ)の着物を頭から被った。その装いを「衣被ぎ(きぬかづき)」といい、それに似ていることからの命名。
すっぽり頭から被ることを「かづく」といい、その連用形であるから本来は「かづき」であるが、いつしか音変化して「かつぎ」というようになった。
本来皮をむいた形で出てくるはずの里芋が、皮つきであることを衣被ぎになぞらえた女房詞。)


昨日は重陽の節句、別名 : 菊の節句

2015年09月10日 | Weblog


  菊 花   白居易(中唐)

一夜新霜著瓦軽   一夜 新霜 瓦に著いて軽し
芭蕉新折敗荷傾   芭蕉は新たに折れて敗荷は傾く
耐寒唯有東籬菊   寒に耐うるは唯だ東籬の菊のみ有りて
金粟花開暁更清   金粟(きんぞく)の花は開いて暁更に清し


(一夜明けると、初霜が降りて瓦がうっすらと白くなっている。
 寒気に芭蕉は新たに折れて、やぶれた荷(はす)の葉も傾いた。
 そうした中で寒気に耐えているのは、ただ東の垣根の菊だけ、
 その菊の花はこの朝、いっそう清らかに咲きほこる。)

 一読して、秋たけなわの朝の清々しい光景が目に浮かぶ。
 このところ朝晩、秋冷が続くようになってきています。お風邪など召されませぬように。

U18日本 初の世界一ならず…宿敵・米国が3連覇達成

2015年09月07日 | Weblog

 またも、悲願の初優勝はならなかった。野球のU―18(18歳以下)ワールドカップ(W杯)決勝は6日、甲子園で行われ、日本は米国に1―2で敗れた。1次ラウンドから8戦全勝で迎えた決勝だったが、最後の試合で悔しい1敗。

 試合後ベストナインが発表され、最優秀先発投手・佐藤(仙台育英)、捕手・堀内(静岡)三塁手・篠原(敦賀気比)、遊撃手・平沢(仙台育英)、外野手・勝俣(東海大菅生)が選出された。

(僕は毎試合、テレビ観戦して楽しませてもらった。選手たちのひたむきな態度と準優勝とに最大のエールを送る。)

初秋

2015年09月06日 | Weblog

  初秋、朝、田舎道

朝、田舎道を歩いていて楠の大樹の根元で野仏に出会う。田の神であろう。
人智の及ばぬことを知っていた野の人々は野仏とともに暮らすを常とした。
頭を垂れた一面の稲穂が視界をつくる。
これが我が原風景というものであろうか。

あるいはフランシス・ジャムが、
    宇宙
  水色の
  絹の空、
  小山の上では
  犬が吠える、
と詩った、その「宇宙」というものであろうか。

かつては幾多の大樹から成る豊かな森林であったのであろうが、
伐採開墾され、それでもこの大樹だけは難を逃れ、
今ではこの世界の精となった。

野仏を抱いたこの楠の大樹は、
もしかして遥か彼方の昔からこの世界の主だったのではなかろうか。
人々はこの大樹を遠望し、あるいはこの大樹の下で憩い、五穀豊穣を祈願した。

人々はこの大樹に人の世の哀しみを託し、あるいは喜びを舞い、
あるいは畏れを祈った。この大樹は人々に会うを無上の喜びとした。
その証しとして サワサワ サワ と風を紡いだ。
..........................................................

画像は、絹雲流れる空


見聞と判断

2015年09月05日 | Weblog

  目で見て、耳で聞き、心に感じる事は、
  間違わない。
  間違うのは判断だ。 (ゲーテ『箴言と省察』より)

 僕は下手な囲碁をやっていて体験するのだが、対戦相手の練習中の調子を見て、仲間の忠告を聞き、僕自身の体調からして、今日は辛抱強く手堅くいかないと、勝てない、と感じる時がある。この感じは殆ど間違わない。
 ところが、いざ試合に臨むと途中から欲が出て、早い局面で勝負手を打って負けることがしばしばある。あるいは、手堅く打つあまり、石の形に動きが無い場合がある。判断の間違いはしょっちゅうある。(僕の囲碁については、呆さんやパンダさんが先刻承知で、僕の囲碁をバカにしている。悲しいことに。)
 だが、何をするにせよ、判断の間違いは自分にとってはなさけないが、判断を間違うことで仲間内での親交が増える場合があるというものだ。
 では、仲間内ではない場合はどうか。見聞に見聞を重ねることが大事だと思う。判断を、相手憎しという身勝手に基づいて、することは愚の骨頂だと思う。見聞を殆ど体験しないで、長いものに巻かれて判断することは、愚の骨頂を遥かに超えていると思う。

 今日は何を言いたいのか。自戒を込めて言ったつもりなのだが。それともう一つ。間違った判断に基づいて見聞する時もあるのではないか。



コメント

十津川村

2015年09月04日 | Weblog

 十津川村は奈良県の西南部、熊野川の上流の地域で、山岳重畳たる中にある別天地。いつの頃からか車道が通り、本数は少ないが奈良市からもバスが走っている。が、その前は陸の孤島と言われた。
 この村は、同じ奈良県の三つぐらいの郡を合わせたぐらいの面積を有している。だから、人口密度は一平方キロメートルに十八人と言われる。本州にこういう村があるかと嬉しくなるようなところである。産業は吉野杉の伐り出しと薪炭が主なもので、食べ物は雑穀類が主と言われるから、およそ裕福というにはほど遠い。ただ、これもまたいつの頃からか、車道が通ってからではあるが、一週間に一度、車がやって来て海の幸や日常品などが売られるようになったそうだ。
 十津川郷士は昔から独特の気風をそなえ、元弘の乱には護良親王を庇護し、幕末には天誅組の根拠地になった。
 同じ奈良県に住んでいながら、まだ十津川村に行ったことがない。バスで2時間はかかるだろう。ひなびた温泉もあり、一度行けばやみつきになるかもしれない。
 パンダさん、最近、掲示板でもご無沙汰ですが、どうでしょう、あなたのところと僕のところと、十津川村は中間ぐらいの位置ではないでしょうか。中間で落ち合いませんか。

IAEA最終報告書「原発が安全との思い込み」

2015年09月02日 | Weblog

9月1日 11時53分(NHKNEWSWEB)
 IAEA=国際原子力機関は、東京電力福島第一原子力発電所の事故を総括する最終報告書を公表し、事故の主な要因として「日本に原発が安全だという思い込みがあり備えが不十分だった」と指摘したうえで、安全基準を定期的に再検討する必要があると提言しました。

以下、長文ですのでコメント欄にURLを貼っておきます。
一応ここにも。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150901/k10010211871000.html

痛いところを衝かれました。

2015年09月01日 | Weblog

  『徒然草』第百六十八段
 年老いたる人の、一事すぐれたる才(ざえ)のありて、「此の人の後には、誰にか問うはん」など言はるるは、老の方人(かたうど)にて、生けるも徒らならず。さはあれど、それも廃れたる所のなきは、一生此の事にて暮れにけりと、拙く見ゆ。「今は忘れにけり」と言ひてありなん。大方は、知りたりとも、すずろに(むやみに)言い散らすは、さばかりの才にはあらぬにやと聞こえ、おのづから誤りもありぬべし。「さだかにも弁へ知らず」など言ひたるは、なほまことに、道のあるじとも覚えぬべし。まして、知らぬ事したり顔に、大人しく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、さもあらずと思ひながら聞き居たる、いとわびし。

 僕は時々知ったかぶりをします。兼好法師に痛いところを衝かれました。気をつけようと思いました。思いましたが、思う通りに生きられるかどうかは保証の限りではありません。しかし、人に「いとわびし」と思わせるような事は言わないように心掛けます。 心掛けますと言っても、保証の限りではないところが痛いです。

安保法案反対、全国で一斉抗議 国会前でも廃案訴え

2015年08月31日 | Weblog

(朝日新聞デジタル 8月30日(日)19時59分配信)
 参院で審議中の安全保障関連法案に反対する市民による抗議行動が30日、東京・永田町の国会議事堂前や周辺を埋めた。主催者発表によると、参加者は12万人で、安保法案をめぐる抗議行動では最大。参加者が歩道からあふれて、警察側が車道を開放した。市民らは国会議事堂を真正面に見据えた車道に帯のように広がり、雨の中、「戦争法案廃案」「安倍政権退陣」と叫び続けた。
 国会だけでなく、霞が関や日比谷周辺まで、プラカードやのぼりを持った人たちであふれた。警察関係者によると、国会周辺だけで参加者は約3万3千人。
 主催したのは、平和運動を続けてきた市民らでつくる「戦争させない・9条壊すな! 総がかり行動実行委員会」。5月に立ち上がった都内の大学生らがつくる「SEALDs(シールズ)」のほか、大学教授や研究者らの「学者の会」、子育て世代の「安保関連法案に反対するママの会」など、この夏に次々と出来た団体が加わり、ともに声を上げた。各地から大型バスを仕立てて参加した人たちもいた。