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自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

今日は暦の上では大雪、 雪の結晶

2015年12月07日 | Weblog

 僕んちの地方では年々降雪の機会が少なくなっているような気がする。地球温暖化も手伝っているのだろう。ホワイトクリスマスにはなりそうにない。
 ところで、雪の結晶が六角形をしていることはよく知られている。昔、ジャジャウマやクモガクレの為に買った子供向けの『科学のアルバム』をめくっていたら、相当高度なことが書いてあった。
 2千年以上前の中国で、雪の結晶は六角形だと知られていたそうな。ヨーロッパでは13世紀ごろに、星型だと書かれていたそうな。17世紀にはケプラーが六角形であることに気づいていたそうな。日本では江戸時代に下総の国古河(今の茨城県古河市)の土井利位という殿様が、顕微鏡で見たスケッチ『雪華図説』という本を残しているそうな。
 雪の結晶の科学的な研究が本格的に始められたのは、中谷宇吉郎によってである。人工的に雪の結晶をつくる実験によって、自然の雪の結晶と同じ形のものをつくることに成功した。それだけではなく、決まった温度や湿度の時には、決まった形の結晶が出来ることを明らかにした。そこで、雪の結晶の形を調べれば、その結晶が出来た上空の気象も分かるというわけだ。このことを宇吉郎先生は「雪は天から送られた手紙」と呼んだ。しかし、実際に地上で観察される雪の結晶は、落ちてくるまでの間に風に流されてくるから、その結晶の形が、即座に上空の気象を表しているとは言えない。天からの手紙は、旅をしながら落ちてくる間に書き綴られたものだと言える。
 ところで、僕が思うに、なぜ六角形なのか?ということだ。この問いにはまだ答えが出ていないのではないか?結晶構造の多くが六角形をしているのは何故だろう。僕に分かるはずがないが、専門家が究明すれば、ひょっとしたらミクロの世界の謎が一つ解けるかもしれない。

吉野 弘「祝婚歌」より抜粋

2015年12月04日 | Weblog

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと気づいているほうがいい
・・・・・
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい
・・・・・
生きていることのなつかしさに
ふと 胸が熱くなる
そんな日があってもいい
そして
なぜ胸が熱くなるのか
黙っていても
二人にはわかるので
あってほしい
................................................................................
今年の数少なかった小春日和を振り返って


................................................................................
 
 抜粋した第二段落をかつて羽田孜が橋本龍太郎に読むように促したそうです。さて、現在の政権政党にそんな余裕があるだろうか。そもそも、将来に向けての正しいことが何であるか、知っているのだろうか。
 無粋なことを言ったことは百も承知していますが、この「祝婚歌」は様々な場面で用いられて良いと解釈されます。勿論、本来は「祝婚歌」です。

雑木林( 再掲 )

2015年12月01日 | Weblog

 僕のひ弱な文学遍歴の最初と言えるものは、独歩や蘆花の随筆だった。この二人が見出したのが、雑木林の美しさだった。ツルゲーネフなどのロシア文学にも負うているのだが、それまでの日本人が殆ど見落としていた雑木林を、美しいものとして、心を動かすものとして、初めて積極的に認めたのだ。これは一つの心象革命と言ってよいと思う。
 松や桜や梅、また杉や桧と違って、せいぜい炭焼きの材料にしかならない雑木林にその美を讃えることはなかった。
 蘆花と独歩が、明治30年代、つまり明治維新という政治革命から30余年を経た時代になって、美意識の変革、自然を見る目の変革にとりかかったのだった。『自然と人生』や『武蔵野』に自然の美しさを見る新しい目が生まれた。
 『自然と人生』の中に「雑木林」という文もある。「東京の西郊、多摩の流れに到るまでの間には、幾箇の丘があり、谷あり、幾筋の往還は此丘に上がり、うねうねとして行く。谷は田にして、概ね小川の流れあり、流れには稀に水車あり。丘は拓かれて、畑となれるが多くも、其処此処には角に画(しき)られたる多くの雑木林ありて残れり。余は斯(この)雑木林を愛す」と言って、楢や橡やハンノキなど、それまでは雑木として、見かえられることのなかった木々の林の四季折々の美を描き出した。
 『武蔵野』では「美といはんより寧ろ詩趣といひたい」と言って、新しい自然美を打ち出した。
 明治30年代は自然美の維新時代だった。

こんな詩があります。( 再掲 )

2015年11月28日 | Weblog

   遠い道でもな
   大丈夫や
   一歩ずつや
   とちゅうに
   花もさいているし
   とりもなくし
   わらびかて
   とれるやろ

 
 原田大助君という少年の詩集『さびしいときは心のかぜです』(樹心社)から一つ選びました。僕がどう生きるのがいいのかを、こんなにも明晰に、こんなにも優しく語ってくれる言葉は、めったにあるものではありません。かつて観たテレビ・ドラマ『北の国から』の五郎や純や蛍が歩いた道も、こんな「遠い道」だったのだと思います。ドラマの中だけの「遠い道」ではないようです。こんな「遠い道」を歩いている人も居るわけで、学びたいと思います。だいぶん歳をとりましたが、歩けると思っています。でも、わらびをとるのは難しくありませんが、「遠い道」はやはり「遠すぎる道」なのかもしれません。「ほどほどに遠い道」が待っていてくれることを願います。  

埋もれ木

2015年11月26日 | Weblog

 僕んちのすぐ近くに、歩いて5分とかからないところに鎮守の杜がある。人気が無く、常緑樹で覆われている杜の境内をそぞろ歩きしていると肌寒いが、樹々に風が遮られてそれ程冷たくはない。鎮守の杜とは鎮守の神を祭った森である。森は神の棲むところであり、非日常の世界である。
 子供の頃、山の神行事で、夜中に小高い山を松明を掲げて歩き回った記憶は僕の心象風景の原点と言ってよいかもしれない。
 グリムの『ヘンゼルとグレーテル』や『赤ずきん』などの物語は森に踏み入って始まる。小さくとも鎮守の森(物語の世界)が近くにあることは有り難い。
 その鎮守の森の傍で水道工事をしていたが、その最中それほど大きくはない木が出てきた。長年地中に埋まっていた埋もれ木である。人気が少ないとはいえ、町の中での埋もれ木は珍しい。埋もれ木は、世間から顧みられない存在の喩えでもある。このところ僕は凹んでいて、どうせなら埋もれ木のようになれたらと弱気になっている。一日、ボーとしていることが多い。しかし、このボーは今に始まったことではなく、僕の持ち味ではある。

生きる

2015年11月25日 | Weblog

   生きる

在りし日の青春を 
在りし日の白き記憶として
今も続くしがらみを 
これからも続く灰色の宝物として
逝ってしまった人たちを
永遠に輝く金色の友人として

ぼくは生きる

生きとし生けるすべてのものに
緑色の万感の思いを捧げ
いずれ来る最期への道に
青磁色に光る畏怖の念を抱き
やがて失われる世界は 
それでも 有り余るほどの色に満ちて

ぼくは生きる


(意図的に色の名前を入れてみたものでした。)

理解せんとしよう

2015年11月20日 | Weblog

理解せんとしよう
世界の混沌を
理解せんとしよう
世の中の難事を
理解せんとしよう
世論の実態を
理解せんとしよう
二十一世紀である事を
こんなに戦闘がある二十一世紀を

理解せんとしよう
きみの瞳の輝きを
理解せんとしよう
僕が何者であるかを

けれど、どの理解も僕の理解を超えているのかも
それでも、理解に理解を重ねようと僕は決意した
なぜ決意したかって?
白い山茶花が一輪咲いたからさ
その不思議に心うたれたからさ


蒟蒻 (こんにゃく )

2015年11月18日 | Weblog

 もう随分前になるが、海の生き物は大抵食べられるが、ウミウシは食べられないとパンダさんから聞いたことがある。こういう(どうでもいい?)ことをパンダさんはよく知っている。
 ウミウシとは関係ないが(手触りが似ているかもしれない)、蒟蒻を外国人は食べないのであろうか。
 何でも食べる(と言えば叱られるかもしれないが)中国人も食べないそうだ。中華料理で蒟蒻にお目にかかったことがない。留学生に尋ねてみたことがある。「あの匂いは食べ物の匂いではない。」とけんもほろろの応えがかえってきた。
 蒟蒻に匂いがあったかといぶかり、嗅いでみた。かすかに石灰の匂いがする。詳しいことは知らないが、蒟蒻は蒟蒻粉に石灰乳を入れて煮沸すると出来る。昔は木灰の上澄みなどを用いたが、いつからか石灰を使うようになった。その方が効率がいいからであろう。
 慣れというものは恐ろしいもので、蒟蒻の匂いに気づかなくなっていた。僕は気づかないまま、蒟蒻の刺身は好きではなかった。
 だが、蒟蒻を一口大にちぎって(包丁で切るのではなく)醤油で煮た、何という料理の名前だったか、雷煮という名前だったか、煮物は歯ごたえもあり、美味で食が進む。余分に作り置いて冷蔵庫に入れておけば便利だ。匂いを消しているのに気がつかないで食べていたのだ。
 蒟蒻を食べる国が日本以外にあるのだろうか、と何でもないことが気に掛かった。

歌うことを禁じられた童謡 「たきび」

2015年11月17日 | Weblog

 よく知られ、口ずさまれることも多い童謡「たきび」が歌うことを禁じられた時期があった。
 皇紀2600年と称して、国民的な祝いの行事が繰り広げられた1940年(昭和15年)、作曲家・渡辺茂(1912-2002)は奉祝歌の作曲公募で2等に選ばれた。それが目にとまったのか、翌41年9月、NHKから「12月の子ども向けのラジオ番組で使いたいので曲をつけてほしい」との依頼が舞い込んだ。
 巽聖歌の詞を見たとき、これはいけると思った。新宿の自宅で何回か口ずさんでいるうちに、旋律が浮かび、わずか10分ほどで五線譜に音符を書き込んだ。29歳の時だった。
 「たきび」が初めて電波に乗ったのは、その年の12月9日。太平洋戦争開戦の翌日だった。放送されたのは、「軍の番組管制が完全に行き渡るまで」の12月9、10日の2日間。翌日には軍からお叱りが来た。曰く「落ち葉も貴重な資源、風呂ぐらいはたける。それに、たきびは敵機の攻撃目標になる」。
 以後、「たきび」は戦後の1949年(昭和24年)まで封印された。封印がとかれた同年、NHKが放送開始した松田トシ、安西愛子による「歌のおばさん」で取り上げられると、たちまち全国の幼稚園や小学校で歌われた。(だが、今度は消防庁が「街角の焚き火は困る」と言い出したとも。)

(こういう小さな?話題にも歴史が重くかぶってくる。戦争はイヤだ。)

牡蠣

2015年11月14日 | Weblog

 僕は牡蠣をよく食する。旧職場の食堂で昼食に牡蠣フライ定食を食べて、帰宅して夕食にまた偶然にも牡蠣フライということもあった。それでも全く飽きない。と言っても、そんなに何度も牡蠣フライを食べる訳ではない。
 牡蠣は世界中で食べられているそうで、ローマ帝国時代に既に養殖されていたという。「 r のつく月の牡蠣を食せ」という言い伝えがある。英語の月名に r がつく秋冬になると、牡蠣のグリコーゲンや各種のアミノ酸が増えて旨みが増すからだそうだ。
 牡蠣はその栄養価の高さから、周知のように「海のミルク」とも呼ばれる。牛乳より高タンパク・低脂肪で、鉄分やビタミンも多い。また亜鉛の含有量も飛びぬけて多い。亜鉛は抜け毛や肌のかさつきの予防に効果があるそうだ。血中コレステロールを下げ、高血圧を予防するタウリンも多いそうだ。各種ビタミンの含有量も多い。
 生牡蠣を食べるのが一番栄養をとれるそうだが、僕はどうも生牡蠣は苦手である。食べないことはないのだが、やはりフライにして少量の塩で食べるのが好きである。
 それにしても、カキは牡蠣と、何故こんな難しい漢字を当てるのだろうか。。『大辞林』で調べたが要領を得ない。参考までに「かき」の項を引用しておく。
 「イタボガキ科の二枚貝の総称。左殻はよく膨らんで海中の岩などに付着し、右殻は割合に平らでふたのようになる。殻の表面には薄い板状の生長脈が発達する。肉は美味で、各地で盛んに養殖が行われる。食用とする主な種類にマガキ、イタボガキ、スミノエガキなどがある。殻は肥料や養鶏飼料とする。」
 カキは何故「牡蠣」なのか、分からぬ。
 当然のことではあるが、分からないことの方が圧倒的に多い、のである。

風呂敷 (再掲 )

2015年11月13日 | Weblog

 学生の時、中国文学の若い先生・高橋和巳の講義に出た。三ヶ月と続かなかったが。(小説家・高橋和巳を知ったのは後である。)
 その和巳先生が本を風呂敷で包んでわりと早足で歩いているのを思い出した。風呂敷の長老の先生は二人はおられたが、和巳先生はまだ30代後半だった。
 ところで、風呂敷という言葉が気になった。なぜ風呂敷というのか。調べてみた。風呂敷とは風呂の敷物であった。もともと日本の風呂は湯船がある風呂ではなく、蒸し風呂で寺院にあった。前者は湯と言い、後者を風呂と言った。風呂に入るには礼を失っしないように、一定の着衣を要した。その脱衣を包むのが風呂敷であった。他人の物と間違えないように家紋や家号の類を染め抜き、又、浴後にはそれを敷いて座したと言われている。しかし、風呂敷という名前は江戸時代以降の事で、それ以前は平包、古路毛都々美などと言ったそうだ。が、形は四角形のままだった。風呂敷で物を包むということは、包んだ物を運ぶという機能と、その物を大切に扱うという人の心の現われである。
 因みに、「包」という字の成り立ちは、勹に己と書く。勹は母体を意味し、己は自分を表す字である。つまり、「包」は母体が子を宿し育むことを意味する字である。僕らは母体に包まれ命を宿し、生まれた後は、もともとは、自然に包まれ、四季の風情を愛でて生活してきたはずだった。近頃は、包まれるという事を何処かに置き忘れて忙しく生活している。風呂敷という言葉の由来を調べていて、考えさせられるところがあった。

森林の力 ( 再掲 )

2015年11月12日 | Weblog

 林野庁のホームページによると次の等式が成り立つそうだ。
  国内の森林≒443億リッポーメートル
 この等式は、国内の生活用水の3年分に相当する約443億リッポーメートルの水を保つ力が、国内の森林にある、という事を表す。こう言われても実感できないが、保水力が森林に備わっているとい事は周知のところである。
 森林に降った雨水は、スポンジのように柔らかい森林の地面に染み込み、地層によって濾過されて徐々に河川へ流れる。森林が保水に優れ、「緑のダム」と呼ばれるのも故ある事である。
 森林の木々は根から水を吸い上げ、葉から水蒸気として大気に戻す。森林が気温を下げているのはこの時の気化熱のおかげである。この他にも、土の中に張り巡らされた根が土砂崩れを防いだり、微生物から動物まで様々な生物を育んだり、また言うまでもないことだが、二酸化炭素の吸収に大きな役割を果たしている。
 森林の重要性をもっともっと認識する必要がある、と強調したことがあったが、都会の若い人は怪訝な顔をしていた。森林浴でも体験すれば、森林の恵に気が付いてくれるのだろうか。

田毎の月

2015年11月10日 | Weblog

 平松純宏『写真集 棚田の四季』をゆっくりと観賞した。棚田(千枚田)に映る田毎の月に見ほれた。「田毎の月」という昔聞いたことのあるような言葉に惹かれて、調べてみた。この言葉は、江戸初期の「藻塩草」(1669年)に表れている。
 「信州更級(科)の田毎の月は姨捨山(冠着山、1252m)上より見下ろせば、・・・」
 姨捨山伝説からも推測されるように、棚田の一つひとつは、食べる米がないという現実から農民が止むを得ず山に登り耕していった労苦の所産である。にもかかわらず、田毎の月を映す棚田は美しい。それは、農民が厳しい自然に素直に従わざるを得なかった結果であろう。
 自然との深刻なかかわりこそが、人の心を打つ美しさを生むのだと思う。大型機械の入らない棚田での作業がどんなにか苛酷であったかと想像していたら、島根県柿木村・大井谷の棚田についての報告書に、当事者たちは「その苦労はなかった」「むしろ後から、動力脱穀機を田から田に担いだときのほうが大変だった、切なかった。」と、微笑む、と記されていた。
 棚田は43道府県の891市町村に残っているそうだ。晴れた夜にはそれぞれの棚田に田毎の月が凛然と存在しているのだろう。

他者

2015年11月07日 | Weblog

 妙な話を聞いたような気がする。昨日久しぶりに大阪へ出た機会に或る画廊に何気なしに入ると、新進の女性画家の女性を描いた絵ばかりが展示してあった。どの絵も多少とも現実ばなれした、画家の内なる女性像である。目録に次のような画家自身のコメントが載せてあった。
 「女が女を描くことは、ある意味では難しいことかもしれません。優しさも可愛らしさも、甘えることも、そしてちょっぴりの意地悪さも、みんな知ってのことですから。」
 「みんな知ってのことですから」何故に「難しいことかもしれ」ないのだろうか。みんな知っていたら、易しいことなのではないだろうか。どうも分からぬ。そこはそれ、人間の表象能力の錯綜したところかも知れない。
 ところで、「みんな知ってのこと」と言えるだろうか。女性同士の事は僕には分からぬ。しかし、男性同士の事でも、「みんな知ってのこと」なんていうことはあり得ない。異性の事はなおのこと分からぬ。
 概して言うと、他者の事を「みんな知ってのこと」と言うことは出来ないのではないか。「みんな知ってのこと」でないから、他者が他者たる所以なのだと思う。そこに誤解も共感も生じる源があるのだと思う。
 翻って、自分の事は自分が一番知っている、というのも怪しい。自分の何たるかを知ることを気にかけず平々凡々と暮らしている僕が、「みんな知ってのこと」という領分に立ち入れないのは当然な訳で、そうすると、先の画家自身のコメント「みんな知ってのこと」はその画家の内面では真実なのかも知れない。あくまでも《知れない》の領分である。
 同性異性を問わず、真実のコミュニケーションは可能なのだろうか。

おでん考 ( 再掲 )

2015年11月06日 | Weblog

 おでんが美味しい季節の到来。或る食品メーカーによると、昨年食べた鍋料理のトップは「おでん」。99年にすき焼きを抜いて以来、連続でトップ。年代別でも、20代~50代のすべてで一位。おでんは、国民食という感すらある。
 おでんという言葉のルーツは田植えの際に五穀豊穣を祈り奉納した舞い(田楽舞)にあるそうだ。竹馬に似た一本の高足(鷺足)に法師が乗り踊ったとされる舞いである。その舞いに因んで、鷺足を串に、法師を豆腐、田を味噌になぞらえたことから、「豆腐田楽」が生まれたのは、足利時代末期のことらしい。その後、長く田楽と言えば、豆腐、辛し味噌と決まっていたが、江戸の中期ごろ、コンニャクや里芋が具に加わる。当初は豆腐田楽と同様に、焼いた石でコンニャクの水を飛ばし、味噌を塗っていたようだが、その後、竹串に具を刺して鍋で茹でてから味噌をかける「煮込み田楽」が考案された。幕末頃、醤油や砂糖で煮付ける、現在のおでんのスタイルへと変化していったのだそうだ。因みに、おでんには「御田」の字を当てる。
 醤油や砂糖で煮付ける関東風の煮込みおでんは、幕末以降、上方へと広まり、従来の焼き田楽と区別するために「関東炊き」と呼ばれるようになったと言われる。今でも、具を醤油と砂糖で煮付けしたおでん風の鍋を関東炊きと呼ぶ地域も少なくない。(中国からの渡来人が堺で大鍋で様々な具を煮込み食していた「広東炊き」に由来するという説もある。)
 関東のおでんはその後、関東大震災で炊き出しとして再注目されるまで、いわば冬の時代を迎える。
 ところで、料理の味付けで、しばしば「関東風」「関西風」なる表現がある。これは通常、醤油の濃淡を指し、一般的に関東風は濃い口、関西風は薄口の醤油を用いることからそう呼ばれることが多い。
 おでんにも関東風と関西風があるのだろうか。一般的に関東のおでんは鰹ダシをベースに濃い口醤油で味を整え、関西では昆布ダシに薄口醤油で味つけすると言われる。そこから、関東風、関西風と呼ばれるているようだが、元々、大阪には具を醤油で煮込むという習慣はあまりない。醤油はあくまで最後の香りづけとして用いられてきた。
 こうした点から言って、醤油で煮付けるおでんには、厳密に言えば、関西風なるものはないのである。とはいえ、関東で生まれたおでんが関西で様々に改良を加えられ、庶民の味として、料理として確立されたことも事実である。
 ところで、食べ物に関しては、何かと蘊蓄や能書きがつきものである。通の間では、おでんにも「がん、ちく、とう、だい」なる言葉がある。粋人の好む四大おでん具と言われるもので、「がん=がんも」「ちく=竹輪」「とう=豆腐」「だい=大根」となる。おでん具の中で最も手間の掛かるがんもで作り手の技量が、ダシのよしあしや煮込み具合で一目瞭然の大根が、店のレベルを物語るのだという。
 家庭で旨いおでんを作るには次の点に留意したい。(実際には留意しない事も多かろうと思うが。)
 さつま揚げやゴボウ天というような練り物は熱湯をかけて油を抜く。また、鶏肉などを入れる場合は(僕ちでは入れない)、お湯をかけてから水にひたし、余分な脂を除いておきたい。旨いおでんは下ごしらえが肝要である。
 大根は厚めに皮をむき、面取りをしてから、米のとぎ汁で茹でると形崩れしににくなる。コンニャクも一度茹でるのがおすすめ。また、いつもとはひと味違うコンニャクを味わいたいときは、茹でた後に表面を軽くごま油で焼くという方法も。この場合は、コンニャクは焦げ色がつく程度までしっかりと焼くのがコツ。(僕ちでは、こんな面倒なことはしない。)
 おでんのダシは、昆布と鰹節で取るのが一般的だが、骨つきの鶏肉を入れると絶妙の隠し味となる。(僕ちでは、こんな面倒なことはしない。)チキン味のスープの素でも可。
 おでんの具は日本各地で郷土色豊かであるが、ここでは省略する。
 とにかく、おでんという馴染みの鍋料理にも歴史があり、また蘊蓄を傾ける人もいる。他の料理でも同様のことが言えるのであろうが、この時期最も身近なおでん(御田)について、一考を巡らしてきた。こんな一考はどうでもいいと捨て置かれないことを切に願う。