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自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

志村ふくみ と 石牟礼道子

2016年02月03日 | Weblog


 敬慕している染織家(人間国宝)志村ふくみ(1924-)からまたも教わった。感銘を受けた。
 以下、『私の小裂たち』(文庫化、2012年)からほんの一部を引用。

 藍の仕事は際限もなく、終わりもなく、人類が生きつづける限り存在するだろう。藍は命の根源の色である。海、そこにこそ藍の本性、命がある。
 今、生命そのものの海が侵されつつある。天に向かって祈ろうとしても、その天が病んでいる、と石牟礼道子さんは唄う。海についても同様である。それはすべて人間の侵した罪である。

 不知火と名づけた裂を、今、織っている。『石牟礼道子全集』の表紙の裂として使うためのものだ。

 世にも美しい不知火の海は、チッソに穢されて未曾有の惨事を招いた。海は必死の自浄作用によって次第に浄化されている。しかし亡くなった人は還らず、今も苦しんでいる人は変わらない。
 その海の霊を招いて、石牟礼さんが書き下ろされた能「不知火」が、2004年夏、台風のさなか、水俣の海上で上演された。一瞬嵐もしずまり、霊の招魂は祝祭となり、天、地、海も、ともに寿いだことだろう。

 そんな不知火の海を織の中にいかに表現し得るか、私にはわからないが、一心に織らしていただくのみである。

 藍の精が加護してくれますように、と。

 ・・・・・この地上の生物の恩人である植物をまたもや人間が侵していることを、私たちは肝に銘じなければならない。人間のためにのみ植物はあるんじゃない、と叫びたくなる。緑いろの山々野をみたときのあのいいようのない安堵感、よろこび・・・大切に守ってゆきたい植物であり、緑である。自然は侵されるままに言葉を発しないが、人間は多くの言葉を発して自然を侵している。その代償を誰が負うか。我々の子、孫なのだ。

(なお、この本には多くの可愛い小裂(和服などに仕立てて残った布の端切れ)の写真が随所に掲載されていて、見るのも楽しい。)

ライシャワーの予測 ( 再掲 )

2016年02月02日 | Weblog

 元駐日米国大使ライシャワーの『ザ・ジャパニーズ』という本を古本屋で買った。僕は彼について特別の関心をもっているわけではないが、本屋で立ち読みしている間に読んでみようと思った。
 この本の最後に「日本の未来」と題して四点の問題が挙げられている。
 1.天災では日本はいつもたっぷり手痛い目にあってきた。1923年の関東大震災の災禍は日本人の意識に深く焼きついているが、当時と比べ、高層建築や高速道路、高架鉄道や地下街がひしめいている今日では、大地震はおろか大暴風雨ですらが、旧に倍する災害をもたらす恐れがある。
 2.社会の内部構造の問題。現代の工業化社会はあまりに複雑化し、自らの重みに耐えかねて、管理不可能かつ崩壊の兆しをみせつつある。指導者達の「自己管理能力」が問われかねない。
 3.世界的な環境ならびに資源という点において、大国のうちで一番の脅威にさらされるのは日本であろう。これを避けるには日本単独では不可能である。
 4.そこで、第四に、国際間協力が必要になってくる。単に環境・資源問題のみではなく、世界規模での貿易と平和のための国際間協力が欠かせない。

 いずれの問題も現代の日本にのしかかっているように思う。この本は1979年に初版が出て、同じ年に第19刷を数えている。小さな字で430頁の本である。よく売れ、よく読まれた本だったのであろう。しかし、彼の挙げた問題を反芻している人が今日どれだけ居るだろう。

近代化ゆえの窮乏

2016年02月01日 | Weblog

 柳田国男の民俗学への発心の一つは、日本の近代化への批判的な視点にあると思う。
 農政学を専攻し農政家となった点にも、そこから転じて民俗学を興した点にも、そういう視点が貫かれている。近代化は人々の暮らしに不幸感を蓄積しつつあるという視点。『遠野物語』などの民族学研究にも、このような視点が色濃い。
 その不幸感の源は近代化ゆえに発生してきた窮乏にあった。柳田曰く「昔の貧乏と云えば放蕩その他自ら招いた貧乏か、又は自分の家に現はれて来た一時の大なる災害不幸の結果で稀に起こることでありましたが、現代では此外に真面目に働きつつ尚少しづつ足りないと云う一種の不幸が現はれて来ました」。
 こう述べて柳田は、「是は金銭経済時代の特色で」、「今日の貧乏は自覚しつつ防ぐに術の無い苦しい窮乏」と断定している(『時代ト農政』1901年)。
 100年以上前の警告ではあるが、現代の所謂ワーキングプアを予想していた感がある。「防ぐに術の無い苦しい窮乏」の時代が繰り返すということか。近代化、就中、工業化という事を考え直す時代も繰り返す方が良いと思う。
 第一次産業への立脚を重視すべきだと思う。

開高健 『ベトナム戦記』

2016年01月23日 | Weblog

一九六五年一月二十九日早朝 サイゴンの広場
短い叫び声が薄明を走った
十人のベトナムの憲兵が十挺のライフル銃で
一人の細い青年を撃った 青年はガクリと膝を折った
が うなだれたまま首をゆっくり左右にふった
近づいた将校が回転式拳銃で とどめの一発を撃ち込んだ
私のなかで何かが粉砕され 吐き気がこみあげた

もしこの青年が逮捕されていなければ
手榴弾と地雷で必ず人を殺す
あるいは メコン・デルタかジャングルでマシンガンを乱射する
あるいは 或る日 泥のなかで犬のように殺される
少年のような彼の信念を支持するかしないかで
彼は《英雄》にもなれば《殺人鬼》にもなる
それが ここの《戦争》だ
しかし この広場には《絶対悪》と呼んでよいものがひしめいていた
後で 私はジャングルで何人もの死者を見ることになるのではあったが

奇妙な国だ
一日二百万ドルをアメリカにつぎ込んでもらって
ジャングルや泥のなかでは毎夜死闘が繰り返されているのに
このサイゴンの輝かしいこと!
戦争があって初めて豊かになる都
何がどうなって こうなっているのやら

社会の不平等を失くし 矛盾を克服し 平和を求め
外国の干渉から独立し 貧窮を失くしたい
ベトナム人の八割を占める仏教徒たちは言う
しかし べトコンも同じ事を言います とも
農民とべトコンの区別はつきません
仏教徒の活動は農民を それ故べトコンを助けることだと
政府は仏教徒の活動を制限してきます
《非暴力》の教義をひたすら死守し
黙々と大地に伏す仏教徒たち
その寡黙な従順さに私は感動した
ベトナムのカギを握るのは 仏教徒たちか?
彼らの思いとは裏腹に 全土が戦争の最前線だった

広漠としたジャングルとゴム林の地下には
クモの網のようにトンネルがめぐらされている
その中に べトコンの南下を食い止めるのが使命の砦
その兵舎で私は二週間余り暮らした
季節を問わず 朝から晩まで
戦争は不死の怪物となって のたうちまわっていた
すでに 枯葉作戦も始まっていた
「いったいあなた自身は誰のために戦っているのですか」と
私はアメリカ人の少佐に訊いた
少佐は何か言いたげだったが口を閉ざした
じっと頬杖をついて 《国家》に押しつぶされているように見えた
このジャングルで 味方が何人死に 敵が何人死んだか
誰にも分らなかった
多くの負傷兵は 不思議なことに 呻きもせずひっそりと死んだ
アメリカが北ベトナムを爆撃したというラジオ放送に
みんなは深刻な沈黙におちこんだ

“I am very sorry.”(たいへんすみません)
満月の夜 中学生のように小さい砲兵隊将校が私にあやまった
“Oh. What has happened ?”(どうしたんです?)
将校はぽつりと ひとこと
“My country is war.”(私の国、戦争です)
とつぶやいた

(本書は、一九六四年十一月から翌年二月にかけての現地取材に基づく記録文学である。
同じ作家に『輝ける闇』という、同じくベトナム戦争を題材にした、この作家独自の
凄まじいまでの文学的表現に満ちた小説がある。)

知里幸恵と 『 アイヌ神謡集 』

2016年01月07日 | Weblog

 僕は何故か『アイヌ神謡集』が好きだ。あえて理由を言えば、自然の摂理に背を向けた現代社会が『アイヌ神謡集』など、自然に根付いた言の葉を渇望しているからであるかもしれない。知里幸恵について簡潔に。
 知里幸恵は1903年北海道登別生まれ、没年1922年。享年19歳。アイヌ出身である彼女は、金田一京助に励まされて、アイヌ語のローマ字表記を工夫し、身近な人々から伝え聞いた物語の中から十三編の神謡を採り出して日本語に翻訳した。十八歳から十九歳にかけての仕事であった。以前から心臓の悪かった幸恵は、校正を終えてから東京の金田一家で急逝した。刊行はその一年後であった。
 『アイヌ神謡集』はもともと口承詩であるから、それを文字、しかも日本語に置き換える作業はどんなにか困難であったろう。しかし幸恵は、リズミカルな原語のローマ字表記とみずみずしい訳文の日本語を、左右に対置させた。それによって相乗効果が生まれ、極めて独創的な作品となった。
 幸恵がこの仕事に精魂こめていたころ、多くの日本人はアイヌ民族を劣等民族と見なし、様々な圧迫と差別を加えている。同化政策と称してアイヌからアイヌ語を奪ったのもその一例である。しかしこの少女はめげなかった。
 幸恵はその序文でかつて先祖たちの自由な天地であった北海道の自然と、用いていた言語や言い伝えが滅びつつある現状を哀しみをこめて語りながら、それゆえにこそ、破壊者である日本人にこの本を読んでもらいたいのだ、という明確な意志を表明している。
 一方、『アイヌ神謡集』の物語はいずれも明るくのびやかな空気に満ちている。幸恵の訳文は、本来は聴く物語の雰囲気を巧みに出していて、僕の気分にもよるが、思わず声に出して読み上げたくなる。

  「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに」

 近代の文学とは感触が異なる。十三編のうち九編はフクロウやキツネやカエルなどの野生動物、つまりアイヌの神々が自らを歌った謡(うた)であり、魔神や人間の始祖の文化神の謡にしても自然が主題である。幸恵は序文や自分が選んだユーカラを通して、アイヌが自然との共生のもとに文化を成立させてきたことを訴えたかったのであろう。
 『アイヌ神謡集』に登場する神々は支配的な存在ではなく、人間と対等につきあっている。敬われればお返しに贈り物を与える神もいるが、悪さをしたり、得になるための権謀を弄すれば、懲らしめる神もいる。しかし、皆どことなく愛嬌があって憎めない。絶対悪も絶対善もない世界は、あたかも種間に優劣がなく、バランスのとれた自然界の写し絵のようである。この点では、現代の環境文学の礎として見られなければならないであろう。
 豊かな自然を前にして謡われる神謡が、何故に環境破壊極まったこの時代に流布しつつあるのか。僕たちの身体感覚に、まだ残っている自然性の証なのであろうか。言葉の意味だけに寄りかかってきた多くの文学作品が何かを取り残してきた事への反省なのであろうか。ユーカラのような口承文芸は、過去の遺産ではなく、文学の一ジャンルとしての地位を担うものと考えるべきである。
 知里幸恵の仕事は、様々なテーマを現代に投げかけてくる。

(僕の提案:『アイヌ神謡集』を世界記憶遺産に!)


コメント (3)

故・西岡常一氏 語録 ( 再掲 )

2016年01月02日 | Weblog

 西岡常一、言うまでもなく宮大工の第一人者だった人物。法隆寺や薬師寺の建造物の建築や修復を見事にやってのけた稀有な人物。この人の木についての話には説得力がある。以下、失礼を顧みず拾い読みする。

 「樹にとって東西南北というのは大事なことだす。樹というものは生えてきたら動けん。つまり樹の命にとって東西南北はこの世から消えて無(の)うなるまでついてまわる。それですから樹の東の部分からとった柱材は、その建物の東のほうの柱に使わなあかん。西も北も南も同じだす。これをいい加減に使ったら、建物は間違いなく捩れてきます。これ、材が生きている証拠だす。
 家に伝わる口伝にこんなんがあります。一、堂塔建立の用材は木を買わず山を買え。一、木は生育の方位のまま使え。峠、中腹の木は構造骨組に、谷間の木は雑作材にせよ。まぁ今の大工さんは普通は山を買うなぞはできんし、材木屋で買うわけですから、その材の生育の方位などわかりまへんし、仕方がないといえばそうやけど、材の命が見えていたらこれは我慢できまへんわなぁ。」

 (「我慢できまへんわなぁ」。樹木の真実について頑固なこと、この上ない。僕なんかはとても真似のできない本当の頑固さである。)

 「法隆寺も薬師寺の東塔も材は千年檜ちゅうもん使うてます。生えて千年経ってる檜ということです。この千年檜の材というものは作ったときは弱い。それが年々強くなって、作ってから千年目が一番強い。」
  「法隆寺修復のときの端材の外側は灰色で煤けた色合いだが、それも一粍足らずで、その中は真っ白できっちりと締まる。」
 「この千年目を境にして材は徐々に弱くなり、二千年目にはじめの建造時の強度に戻ります。それから何とか五百年は持ちますさかい、まぁ二千五百年は持ついうことですな。コンクリートというものは、百年ほっといたら砂になります。・・・とにかく、檜というこんな丈夫な材を使うたさかい、法隆寺も薬師寺の東塔も今日まで持った。それはそうどすけど、それだけではおまへん。」
 東塔の屋根を支えている垂木の二、三寸おきに点々と小さな穴が幾つもあいている。
 「あれは今までの修復のときの釘穴どすわ。つまり修復のたびに、少しずつずらして釘を打ったんどすな。この垂木、まだまだ塔のなかにはずうっとのびてましてな、これを少しずつずらしながら修復していけば、そうどすなぁ、まだ千年や千二、三百年はでけるんとちゃうやろか。」
 「できてから、これから先、全部足し算したら二千五百年。これ、千年檜の材のちょうど寿命になりまっしゃろ。つまり千二百年前にこの東塔を建てた人たちはきちんと千年檜の寿命を識っていたちゅうことですわなぁ。」

 (樹を熟知している人にも、その樹にも、当然の事ながら、とてもとても太刀打ちできない。肯くだけである。)

2015年12月31日 | Weblog


 大晦日。
 本欄のとりとめもない文に目を通してくださった方々に深甚なる感謝の意を表します。来る年も宜しくお願い申し上げます。

 生きるということの辛さ、哀しさ、嬉しさ、素晴らしさ、これらは藤沢周平の作品に共通しているが、『三屋清左衛門残日緑』は彼の作品の中でも秀逸な珠玉の一品だと思う。この数年、一年の最後をこの作品で締めくくっている。
 舞台は江戸時代、北国の藩。清左衛門は藩の重職を退き、隠居生活に入る。隠居生活では自由気ままな日々を送れると思っていたが、今までの世界から全く切り離されてしまったという孤独感にさいなまれる。しかし、彼はその孤独感から立ち直り、新しい人生を生きていく。表題の「残日」とは死に至る残りの日々という意味ではなく、新たな人生の日々という積極的な意味が込められている。「日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ」なのである。
 隠居したものの、現役から慕われる。だが、生々しい権力闘争から距離を置いて、藩の重大事に公正に対処することが可能となっている。ここには、隠居というものの積極的な役割が描かれ、そうした存在を大切にする組織のあり方が示されているようにも思える。
 江戸時代の藩や武士の家というものにのしかかるしがらみの中で、必死に生きている人々の誠実さに清左衛門は限り無い愛おしさをもって向き合い、それを嘲る人々に容赦の無い態度で接する。そうすることによって、妻を失い、人生の意味を疑っていた清左衛門自身が新たな生きる喜びを見出していく。薄幸の女性に対するこの上なく細やかな心づかい、藩の派閥闘争のために無残に犠牲にされる若い武士への配慮、中風で倒れた同僚が必死に立ち直ろうとする姿を見たときの大きな喜び。
 この作品は、世の中の残酷さを静かな筆致で描きながら、素晴らしい人々の生きざまを語ってやまない。

 来る年が皆様にとって佳き年でありますように!

なんとバカげた日常か!

2015年12月29日 | Weblog
  私は毎日毎日の仕事を
  いまいましく思う。
  なぜなら、いつだって
  バカげているからだ。

とはゲーテの言葉。
毎日毎日の生活もつまらない。だって皆な、勝手なことばかりしているんだもの。
でもね、ゲーテは続けて言ってるよ。

  とはいえ、
  出来る限りの努力をし、
  その日常から得たものが、
  いつかは加算されて
  ものをいうことになるだろう。

そうなんだ。よほどの天分に恵まれていない限り、日々の生活は単調で、時にはやりきれないと感じるだろう。
ゲーテのような天才で、陽の当る道を歩いていたように思われる人でさえ、俗物貴族と顔をつき合わせて仕事をしなければならない毎日を送った。
しかし彼は、出来る限りの努力を惜しまず、自分に対して誠実な仕事をし続けた。彼の偉業は、そうした仕事が加算、累乗された結果なのだ。

島崎藤村

2015年12月26日 | Weblog

 明治以降の作家で最も大きな作家は島崎藤村だと思う。僕の好みも入っているが、これはかねてよりの僕の持論だ。抒情(『若菜集』)から社会問題(『破壊』『夜明け前』)まで、その一つひとつの作品において完成度が高い。
 どういう意味で高いのか。他の作家との比較は措く。思うに、詩、小説、随筆、紀行にいたるまで、藤村文学の底を流れるのは、回想という方法で人生を歴史の流れにおいて反芻し、凝集している点である。その事が、一方では自我の浪漫的な凝視と顕現となり、他方では自我の求道的な充実と社会的実現となっている。
 この二つの特色が藤村を、山また山の木曽に生いたった農山村の民として生活を営む、腰の坐った実生活者たらしめ、かつ理想主義者たらしめているのだと思う。 昨日一日、藤村をあれこれ読んだ。短文を二つ。

 「屋根の石は、村はずれにある水車小屋の板屋根の上の石でした。この石は自分の載って居る板屋根の上から、毎日毎日水車の廻るのを眺めて居ました。
 「お前さんは毎日動いて居ますね。」
と石が言ひましたら、
 「さういふお前さんは又、毎日坐ったきりですね。」
と水車が答へました。この水車は物を言ふにも、じっとして居ないで、廻りながら返事をして居ました。(「ふるさと」屋根の石と水車より)

 「檜木、椹(さはら)、明檜(あすひ)、槇、ねず---を木曽の方では五木といひまして、さういふ木の生えた森や林があの深い谷間(たにあい)に茂って居るのです。五木とは、五つの主な木を指して言ふのですが、まだその他に栗の木、杉の木、松の木、桂の木、欅の木なぞが生えて居ります。樅の木、栂の木も生えて居ます。それから栃の木も生えています。」(「ふるさと」五木の林より)

鱈 ( たら )

2015年12月23日 | Weblog

 魚扁に雪と書いて鱈。文字通り雪の降る冬が最も美味で、魚食民族日本人が昔から好んできた魚の一つ。
 鱈には何種類もあるそうだが、食材として大量消費されるのはマダラとスケトウダラ。マダラは体長1メートルもある巨漢で、水深150~200メートルの岩礁などに棲んでいる。東北以北の北洋、北の日本海、アラスカ、北アメリカに分布。繁殖期が12月末から2月ごろまでで、産卵のため浅い海に群遊してくるころが漁期。味も旬。マダラに比べて細身のスケトウダラは、太平洋には少ないが、日本海では山口県以北、北洋、ベーリング海、北アメリカに多く分布。各国の二百カイリ経済水域決定後、双方の鱈とも漁獲高が減り、高価な魚になってしまった。
 日本人の鱈の食べ方には全く驚かされるとは、食の博士・小泉武夫氏の言。身はもちろん、皮も内臓も卵も、一匹全体の殆どを食べてしまう。肝臓は脂肪、タンパク質、ビタミン類に富み、白子には特殊なタンパク質や強壮源が多く含まれることから、肉以上に内臓を大切にする地方もある。
 胃袋、頭、骨、皮はアラ汁に、卵は煮付けにと、日本人はこの魚の持つ調理上の特性をよく知りぬいて、驚くほど多くの料理法で食べ切ってしまう。鱈ちり、寄せ鍋、吸い物などに向くのは、豆腐や昆布との味の調和が良いからである。
 また、白身で淡白な鱈は酒粕とも調和し、食通によると「鱈の粕漬けは鯛の粕漬けに勝る」のだそうだ。身をほぐして「そぼろ」や「でんぶ」も鱈の食べ方である。
 マダラの卵巣は、生鮮のまま「本タラコ」として市販され、煮付けや佃煮にして重宝される。スケトウダラの卵巣は塩漬けされ、赤く着色して「タラコ」として広く食用されている。これに唐辛子を添加した「明太子」も人気が高い。
 スケトウダラのすり身は、蒲鉾などの練り製品に欠かすことが出来ない。しかし最近は例の二百カイリで漁獲量が激減しているそうだ。明太子の高いこと、高いこと。

柊( ひいらぎ )

2015年12月22日 | Weblog

 柊の葉には独特のトゲがあり、これを鬼の目突きというそうだ。節分の日、魔よけのために柊の小枝をイワシの頭とともに門口に立てる慣習はかなり古くからあるそうだ。
 ものの本によると、面白いのは、柊が五十年から八十年ほど成長すると、葉のギザギザが自然に消えることだ。年輪を刻んで、次第にトゲがなくなる。角がとれて丸くなる。柊に学びたいと思うが、僕なんぞはなかなかこうはいかない。
 葉にトゲがある若木をオニヒイラギ、年を経てトゲがなくなった老木をヒメヒイラギと呼ぶのもいかにも面白い。日本産ヒイラギ人種は、とげとげしい過密国で暮らさねばならないせいか、五十歳を過ぎても、六十歳を過ぎてもヒメヒイラギのように角がとれない。(畏友の呆さんはすっかりヒメヒイラギになられた。これはまた珍しけれ。)
 先日、所用で奈良県中部の市に足をのばした。電車の中で樹についての本を読んだ。着いた先の市役所の傍に、冬空を背にして、葉をあらかた落としたケヤキが厳しい姿で立っていた。宙に描かれた梢の線は、繊細でしかも力強く、野放図のようでいて、ある調和を保っている。そのケヤキにトゲ葉をつけた柊が寄り添っている。その姿が、なんとなく面白く感じられた。

森への畏れ

2015年12月16日 | Weblog

 僕らの教わった知識では、自然は合理的な体系をなすものである。この点に自然科学の発展も起因する。
 ところが、僕の幼少時の体験からすると、森は合理的な因果関係だけで説明されないのではないかと素朴に思う。もしかすると、森の木々も草も苔も水も彼らの流儀で、生真面目に、あるいはランダムに生きているのかも知れない。森は様々な生命が交流する小宇宙だ。その様々な生命のあり方、言い換えると、生きている事の意味については、たとえ遺伝子の構造などが分かっても、分からないのではないか。そうだとすると、生命の社交場としての森について僕らは全く知らない面があるのではないか。合理的な思考では人間の生の意味が分からないのと同じように、生きている森の事も分からないのではないか。
 そうだとすると、僕らは森への一種の畏れを持ち続けなければならないと思う。何故なら、決して理解できない生命の社交場としての森を、一時の人間の思いつきで、大きく変え台無しにしてしまうかもしれないから。熱帯林がその例である。
 幼少時の僕が味わったのは、社交場で遊ぶ楽しさと夕闇迫る森への恐れだった。先入観かもしれないが、近世以降の人々が失いかけたのは、この恐れ、畏れの感覚かもしれない。この感覚を忘れかけた時、森を合理的にとらえ、合理的に利用しようとする時代が始まった。
 このように言って林業を批判しているのではない。ただ、少し懸念される事は、人工林の役目が規格品を大量に得る事であるからには、おそらく人工林は森の本来の生命力を低下させているのではないか、という事である。かといって、人工林の生産を止める訳にはいかない。難しい問題だと思う。難しく考えることもないのかも知れない。人工林は、森の生と人間の生との相互補完関係を保証するものだと考えられるのかも知れない。
 このように考えたとしても、森の生命への畏れを忘れてはならないと思う。こう思う事が大袈裟にに言うと、本当の生き易い文化への道なのではないだろうか。

藁草履

2015年12月12日 | Weblog

 僕は小学1、2年生の頃、4キロ近い道のりを祖母が夜なべで編んでくれた草履で通学した。が、冬も草履であったかどうか。冷え込む中、草履ではなかっただろう。では、何を履いて通学したのか、憶えがない。足袋に草履ではなかったと思うが。
 草履(ぞうり、わらじ)と言えば芭蕉に

   年暮れぬ笠きて草鞋はきながら

という句がある。『野ざらし紀行』の一句。芭蕉は貞享元年八月、江戸を発って伊賀へ帰郷の旅に出た。九月八日帰郷。その後、大和、吉野、山城と廻って名古屋、熱田で十二月末まで滞在し、正月は故郷で迎えた。そして、二月には奈良で東大寺二月堂のお水取りを見て、京都、近江から東海道を下って四月に江戸に戻った。あしかけ九ヶ月の長旅で、のちに紀行にまとめたのが『野ざらし紀行』である。芭蕉、四十一歳から二歳にかけての旅だった。
 この句は「ここに草鞋をとき、かしこに杖を捨てて、旅寝ながらに年の暮れければ」との前書きがあって、名古屋から伊賀への旅の途中の句。漂白のうちに年が暮れてゆく。その漂白の旅のなかの自分の姿をありのまま描いた句。旅を続けること半年余り、笠をきて草履のままの姿で、年が暮れてしまうのかという感懐が一句になった。旅の寂しさとともに、故郷へ向かっての旅という気安さもあったのだろう。芭蕉の句にしては、何となく安らかな思いが感じられる句である。

 現代は草履の時代ではない。小学校からの下校途中、雨で濡れると草履が縮み、足の指に食い込んでくる。痛かった。裸足で帰った。

ド忘れ恐れるべからず

2015年12月09日 | Weblog

 物忘れは仕事上困るだけではなく、気分もよくない。ド忘れを連発すると、「歳かな」などと開き直るか、自己嫌悪に陥るかもしれない。
 最近発表された、エジンバラ大学の認知心理学者の論文は興味深い。彼は「水迷路」と呼ばれるネズミ用の記憶試験法を編み出した脳科学者として有名な学者である。最新論文の実験でも水迷路を活用している。この試験はプールにネズミを放して水を回避できる場所(避難所)を覚えさせるという試験である。
 訓練を積んで避難所を覚えたネズミの海馬という脳の部位を部分的にダメにする。すると、ネズミは避難所を思い出せない。いわば人工健忘だ。これは脳科学者の間ではよく知られているそうだ。
 最新論文で面白いのは、こうして記憶をなくしたネズミは、新しい水迷路を訓練することによって、古い記憶を次第に取り戻したという点にある。失われていた記憶が蘇える「きっかけ」があるというのだ。
 どんな「きっかけ」が最適なのかというのが問題なのだが、「ド忘れする前と似た状況を作る」ことが最適なんだそうだ。例えば、隣の部屋に来たものの、何が目的だったかをド忘れした場合、その場で「なんだっけ」と考えあぐねるのではなく、元の場所に戻って周囲の状況を見渡してみるのが最も効果的なんだそうだ。
 ところで、ド忘れは大人に特有な現象ではない。物忘れがひどくなったと感じるのは、「歳をとると記憶力が低下する」という通俗的な思い込みのせいである。子供もド忘れする。ただ、子供は物忘れをいちいち気にしない。大人は「歳のせいだ」と逃げる。
 子供と大人とでは記憶量が違う。千個の記憶から一つを思い出すのと、一万個の記憶から一つを検索するのでは、労力や時間に差があって当然である。ド忘れしたとき、「それだけ私の脳には沢山の知識が詰まっているのだ」と前向きになるべきだろう。
 とはいえ、最近、ド忘れが多すぎる。