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自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

『木を植えた人』(再掲)

2015年11月04日 | Weblog

 ジャン・ジオノ『木を植えた人』の物語が実話なのか虚構なのかは不明である。虚構であっても、この短編から大きな感動を受ける。フランス南部のプロヴァンス地方に生まれたジャン・ジオノが、その地方の荒れ果てた高地を森に変えた一人の男を描いているのがこの短編である。
 その男、エルゼアール・ブフィエは毎晩ドングリを百粒を荒地に植えていた。植え始めて三年、十万粒のドングリの内二万本の芽が出た。その半分はネズミやリスにかじられたが、一万本のカシの木が荒地に育った。第一次大戦後五年を経て、「私」が再び訪れると、一万本のカシの木は既に人の背丈を越え、ブナやカバの森も育っていた。広大な荒地が緑の森に変わっていた。
 近くの村には小川が流れていた。そこに水が流れるのは随分と久しぶりのことで、誰も覚えていないくらい昔のことだった。男の育てた森が小川を生み出していたのだ。
 更に二十数年、男は根気よく森を育てた。廃墟だった村に気持ちの良い生活が戻り、「森が保持する雨や雪を受けて、古い水源がふたたび流れはじめ、人々はそこから水を引いている。」
 森が水をつくってくれるのだ。森は薪も炭も与えてくれるが、何より水を与えてくれる。豊かな森には豊かな水がある。
 僕らは森の恵みをどれほど認識しているだろう。文明というものが、森を切り拓くことによって進歩してきたというのが事実であるならば、この事実を反省しなければならないと思う。

落ち葉

2015年11月03日 | Weblog

 夏の間、太陽の光を吸い、活発に働き続けてきた落葉樹の葉は、秋風に散って土を覆う。土を覆う落ち葉は、土壌内の生物との合作で肥料になり、その肥料はまた根から吸収される。自然界の循環作用である。一説に、原生林の林床を踏む場合、両足の靴底の面積を約400平方センチだとすると、両足で8万匹もの生きものを踏みつけていることになるそうだ。森の土には、土壌ダニなどの小さな生物がそれだけ沢山いるということだ。それらの生物が木の葉を食べ、肥料を生産する有り様はまさに精密工場なみだと言わなければならない。
 都市部ではアスファルトやなけなしの土の上に散った落ち葉もすぐに掻き集められ、捨てられる。木の葉という栄養分の補給がないから土壌内の微生物も死に絶える。都市部の土は死んだ土になりつつある。
 命のこもっている木の葉の恵が忘れられつつある。忘れずに、木の葉と微生物の合作活動に思いをいたすことがあっても良いのではないだろうか。秋の夜長に。

時雨かな。

2015年11月02日 | Weblog

 夜明け前からしとしとと雨。時雨かな。今はどうやら上がったようだ。
 ブログを記すようになってから、季節の移り行きに敏感になったような気がする。毎日毎日そんなに記すことがあるはずもないので、自ずと季節についてなけなしの知識を本で補いながら記すということになる。
 日本海側や京都盆地、岐阜、長野、福島などの山間部では、十一月初め頃、急に空がかげったかと思うとシズシズと降り出し、短時間でサッとあがり、また降り出すという雨がよくある。これが時雨である。
 この時期、勢力を増した大陸性高気圧のため、北西の季節風が吹き始め「木枯らし」となる。これが中央脊梁山脈を吹き上げ、冷やされて雲をつくり降雨する。この残りの湿った空気が風で山越えして来る時に降らせる急雨が時雨である。
 時雨は本来、ローカルな気象現象なのだが、何故か日本人の好む言葉となっている。蝉時雨とか、時雨煮とかというように。確かに何となく響のいい言葉ではある。桑名の焼き蛤は美味だが、蛤の時雨煮も美味だ。アサリの時雨煮も美味い。牛肉の時雨煮は不味い。
 日本全土に平等に雨が降ってくれればいいのだが、気象異変のせいか、局地的豪雨に襲われる地域が多くなったような気がする。大地震や火山噴火の後に豪雨ということもある。たまったものではないだろう。神仏は何をしてござるのか。

シューベルト

2015年10月30日 | Weblog

 好きな作曲家を一人挙げよと言われたら、難しいことであるがもう何年も前からシューベルトを挙げている。歌曲に真骨頂があり勿論いいのだが、ピアノ・ソナタに魅力を感じる。弦楽四重奏曲や弦楽五重奏曲も好きだ。この五重奏曲を聴くと、何処へ連れて行かれるか少し不安になりながらも、楽想に沈潜してしまわざるを得ない。その吸引力が凄まじい曲だと思う。色んな形式の曲がすべて好きなのであり、要するにシューベルトの音楽を僕は好きだ。
 ピアノ・ソナタ10曲に思いを巡らしてみると、そこには共通する特徴が幾つかある。まず第一に、第一楽章の主題が多くの場合、静謐で長く、展開部を導き出すような動的な力に乏しい。第一楽章だけでひとつの長い歌であるかのような美しい旋律で満ち満ちている。第二に、このような主題の特徴の故に、展開部はごく控えめであるが、中にはあまりにも魅力的な美しさに溢れている楽想がある。あるいはまた、シューベルトの人知れぬ苦悩が提示されている。第三に、心の底から紡いだ歌への未練から抜け出す事ができず、同じ旋律をオクターブで繰り返したりすることがしばしばあるが、殆ど同じような旋律をメタモルフォーズしていく手法のなめらかさは、抒情的に静的な美しさを醸す。その美しさは単調であるかもしれないが、音色の微妙な変化が一種恍惚感をもたらす。第四に、シューベルトがピアノに求めたものは、日常的な個人的生活感情を何の衒いも無く表現することにあった。この点に、ベートーヴェンがピアノに交響曲的規模を表現しようとしたこと、ショパンが(誤解を招くかもしれないが、)打鍵に民族的抒情を表現しようとしたこと、ヴェーバーやリストがピアノに超絶的な華やかさを表現しようとしたこと、などと合わせ考えると、シューベルトの特徴が際立って感じられると思う。
 シューベルトの曲には彼の等身大の楽想で彼の喜怒哀楽が構成されているのだ。そこがいい。

パブロ・カザルス(再掲)

2015年10月29日 | Weblog

 カザルスの伝記のような本を斜め読みした。これで何度目か分らない。どのページにも感動的な事が書かれている。一つ引く。
 「私には、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスといういつも変わらぬ友があった。また、演奏旅行には、たいてい音楽仲間で親友のハロルド・バウア、アルフレド・コルトー、ジャック・ティボー、フリッツ・クライスラーが一緒だった。どこの国に行こうと、どこで演奏しようと、それがモスクワの貴族会館ホールであれ、メアリランドの高校の講堂であれ、見知らぬ土地で異邦人だと感じたことは一度もない。モルフィ伯が数ヶ国語を勉強するように言ってくれたことに、いつも感謝していた。私は七ヶ国語は流暢に話せた。しかし、どこでも人々と理解し合えたのは、根本的に音楽を通してだった。国語は違っても、われわれの心を結ぶ言葉は同じであった。国境を越えて異国の町で眠っても、この共通の友愛の精神を常に発見できた。」
 懐かしい演奏家の名前が出てきた。僕の個人的な事を言えば、コルトーのショパンを聴いて、これがピアノ音楽というものかと実感した事がある。それはさて措き、「共通の友愛の精神」、現在の世界で最も求められている精神なのではないだろうか。この精神は平和を希求する精神に通じる。スペインのフランコ軍事政権に追われたカザルスが、いつだったか、おそらく50年ぐらい前に国連総会で感動的な演奏した。その演奏をテレビ報道ではっきりと覚えている。故郷カタルーニャの民謡「鳥の歌」を弾いた。弾く前に一言、「カタルーニャの鳥はピース、ピースと啼きます」。

木枯らし1号

2015年10月28日 | Weblog

 関西では26日に木枯らし1号が吹いたとのこと。
 童謡「たきび」で、たきびをしている場所はどこだったかというと、山茶花が咲き、木枯らしが吹く寒い道だ。山茶花が咲き始める季節と木枯らしが吹き始める季節とはだいたい同じ頃なのだ。今年はまだ山茶花は咲いていない。
 冬の初めの、北または西寄りの強い風を木枯らしという。その年の最初の木枯らしを「木枯らし一号」と呼ぶ。ものの本に依ると、東京に木枯らし一号が吹いた日の平均日は十一月八日。この日は偶然にも立冬(毎年十一月七日か八日)と一致する。平均日というからには、早い年には十月下旬に、遅い年には十二月初旬に木枯らし一号が吹くということだ。
 ある風を木枯らしと言うには、幾つかの条件がある。風が吹いた時の気圧配置が西高東低であること、風向きが北から西北西の間で、最大風速がおよそ八メートル以上あること、日中の気温が前日より二、三度低いこと。このような条件を充たし、冬に最初に吹く風が木枯らし一号なのだ。
 木枯らしが吹く仕組みはどうかと言うと、だいたい次のようであるらしい。太平洋側で木枯らしが吹く頃、日本海側では時雨が多くなる。上空の気圧配置が西高東低になると、北極から水分を含んだ寒気が押し寄せる。この寒気は、日本海側の山地で雨や雪を降らせ、水分を落とす。こうして、山地を越えて、太平洋側に吹く乾燥した寒気が木枯らしとなる。
 今年の木枯らし1号は立冬以前に吹いた。天に坐します神様、お願いだから秋の風情を楽しませてよ。
 東日本大震災の被災地は、もうだいぶん寒くなっているだろう。仮設住宅などに暖房装置をつけて欲しい。冬になれば雪下ろしも大変!!!

久しぶりに、シューベルト

2015年10月27日 | Weblog

『冬の旅』より9番「鬼火Irrlicht」
  深き谷間へと 鬼火は誘う
  われは迷えども 心痛まず
  鬼火の誘いに われは慣れたり
  喜び嘆きも すべて鬼火のしわざなりしか

  水なき川に沿い われは下りぬ
  すべての流れは海に注ぎ
  すべての悲しみは
  墓場につづかん

(夜の旅は、あてどない道をゆく若者に恐怖を与える。鬼火は彼を深い谷間へと誘う。しかし若者はもう慣れた。この世の喜びも悲しみもすべて鬼火の仕業だと感じる。
 この曲で、若者は一つの思想を初めて抱く。それは「諦観」である。それまでは恋人への執着を歌っていたが、この世は鬼火のようなものだという虚無感に襲われたとき、二十代後半のシューベルトは絶妙な歌曲を産み出した。
 二十代後半、懐かしい。昨晩は、もの思う秋であった。)

森林の力(再掲)

2015年10月26日 | Weblog

 林野庁のホームページによると次の等式が成り立つそうだ。
   国内の森林≒443億リッポーメートル
 この等式は、国内の生活用水の3年分に相当する約443億リッポーメートルの水を保つ力が、国内の森林にある、という事を表す。こう言われても実感できないが、保水力が森林に備わっているとい事は周知のところである。
 森林に降った雨水は、スポンジのように柔らかい森林の地面に染み込み、地層によって濾過されて徐々に河川へ流れる。森林が保水に優れ、「緑のダム」と呼ばれるのも故ある事である。
 森林の木々は根から水を吸い上げ、葉から水蒸気として大気に戻す。森林が気温を下げているのはこの時の気化熱のおかげである。この他にも、土の中に張り巡らされた根が土砂崩れを防いだり、微生物から動物まで様々な生物を育んだり、また言うまでもないことだが、二酸化炭素の吸収に大きな役割を果たしている。
 森林の重要性をもっともっと認識する必要があると強調したことがあったが、都会の若い人は怪訝な顔をしていた。森林浴でも体験すれば、森林の恵に気が付いてくれるのだろうか。

2015年10月25日 | Weblog

  菊 花   白居易(中唐)

一夜新霜著瓦軽   一夜 新霜 瓦に著いて軽し
芭蕉新折敗荷傾   芭蕉は新たに折れて敗荷は傾く
耐寒唯有東籬菊   寒に耐うるは唯だ東籬の菊のみ有りて
金粟花開暁更清   金粟(きんぞく)の花は開いて暁更に清し


(一夜明けると、初霜が降りて瓦がうっすらと白くなっている。
 寒気に芭蕉は新たに折れて、やぶれた荷(はす)の葉も傾いた。
 そうした中で寒気に耐えているのは、ただ東の垣根の菊だけ、
 その菊の花はこの朝、いっそう清らかに咲きほこる。)

 一読して、秋たけなわの朝の清々しい光景が目に浮かぶ。このところ朝晩、秋冷が続きます。お風邪など召しませぬように。

知里幸恵と『アイヌ神謡集』

2015年10月24日 | Weblog


 僕は何故か『アイヌ神謡集』が好きだ。あえて理由を言えば、自然の摂理に背を向けた現代社会が『アイヌ神謡集』など、自然に根付いた言の葉を渇望しているからであるかもしれない。知里幸恵について簡潔に。
 知里幸恵は1903年北海道登別生まれ、没年1922年。享年19歳。アイヌ出身である彼女は、金田一京助に励まされて、アイヌ語のローマ字表記を工夫し、身近な人々から伝え聞いた物語の中から十三編の神謡を採り出して日本語に翻訳した。十八歳から十九歳にかけての仕事であった。以前から心臓の悪かった幸恵は、校正を終えてから東京の金田一家で急逝した。刊行はその一年後であった。
 『アイヌ神謡集』はもともと口承詩であるから、それを文字、しかも日本語に置き換える作業はどんなにか困難であったろう。しかし幸恵は、リズミカルな原語のローマ字表記とみずみずしい訳文の日本語を、左右に対置させた。それによって相乗効果が生まれ、極めて独創的な作品となった。
 幸恵がこの仕事に精魂こめていたころ、多くの日本人はアイヌ民族を劣等民族と見なし、様々な圧迫と差別を加えている。同化政策と称してアイヌからアイヌ語を奪ったのもその一例である。しかしこの少女はめげなかった。
 幸恵はその序文でかつて先祖たちの自由な天地であった北海道の自然と、用いていた言語や言い伝えが滅びつつある現状を哀しみをこめて語りながら、それゆえにこそ、破壊者である日本人にこの本を読んでもらいたいのだ、という明確な意志を表明している。
 一方、『アイヌ神謡集』の物語はいずれも明るくのびやかな空気に満ちている。幸恵の訳文は、本来は聴く物語の雰囲気を巧みに出していて、僕の気分にもよるが、思わず声に出して読み上げたくなる。

 「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに」

 近代の文学とは感触が異なる。十三編のうち九編はフクロウやキツネやカエルなどの野生動物、つまりアイヌの神々が自らを歌った謡(うた)であり、魔神や人間の始祖の文化神の謡にしても自然が主題である。幸恵は序文や自分が選んだユーカラを通して、アイヌが自然との共生のもとに文化を成立させてきたことを訴えたかったのであろう。
 『アイヌ神謡集』に登場する神々は支配的な存在ではなく、人間と対等につきあっている。敬われればお返しに贈り物を与える神もいるが、悪さをしたり、得になるための権謀を弄すれば、懲らしめる神もいる。しかし、皆どことなく愛嬌があって憎めない。絶対悪も絶対善もない世界は、あたかも種間に優劣がなく、バランスのとれた自然界の写し絵のようである。この点では、現代の環境文学の礎として見られなければならないであろう。
 豊かな自然を前にして謡われる神謡が、何故に環境破壊極まったこの時代に流布しつつあるのか。僕たちの身体感覚に、まだ残っている自然性の証なのであろうか。言葉の意味だけに寄りかかってきた多くの文学作品が何かを取り残してきた事への反省なのであろうか。ユーカラのような口承文芸は、過去の遺産ではなく、文学の一ジャンルとしての地位を担うものと考えるべきである。
 知里幸恵の仕事は、様々なテーマを現代に投げかけてくる。

歳はとりたくないもの

2015年10月21日 | Weblog

 (ラ・ロシュフコー『箴言集』より)
 「そろそろ下り坂という年齢(とし)で、その肉体と精神の衰えを、はたの人に悟らせる人はめったにいない。」

 僕はもうとっくに下り坂で、肉体と精神の衰えを自覚しているが、近隣の人に知られたくないと思っているふしがある。正直に知って頂ければいいものを、知られたくないという自負心みたいな感情に誘われる。何故だろう?電車の中で僕ぐらいの年齢の人を見ると、比較してしまう。ん?僕の方が若くみえる?なんてつい思ってしまう。だが、実際は歳相応にくたびれているのだ。
 ロシュフコーにかかれば、自分の心理を即座に見抜かれてしまう。見抜かれて、確かに歳をとったと実感させられる。
 だが、まだまだこれからだ!という強引な感情を抱く。負け犬根性とは言わないが、負け犬にならない為には実行が伴わなければならない。少しでも実行に向かって、歳を隠そうと思う。なさけない文を記してしまった。

( 秋刀魚を )焼く

2015年10月20日 | Weblog

 炭火の熾った七輪の上の網に秋刀魚をのせると、ジュージューと音をたてながら、まず表面が焼ける。が、表面だけが早く焼けるようでは焦げついてしまうので、中までうまく火が通るようにしなければあらない。そこは炭火のよいところで、火を加減すれば充分にうまくいく。
 あの煙の匂いは、魚の皮や皮下脂肪が焼けて炭化する時のもの。秋刀魚には30%近いタンパク質と7~8%もの脂肪があるから、これが炭火で焙られると脂肪が溶け出し、これが炭火に落ちて燻られる。その煙の匂いには魚の生臭みの成分や脂肪とタンパク質が炭化した際の化合物などがあって、それらが特有の匂いを発する。
 「焼く」という調理法は、ごく一部の例外を除いて、地球上のほとんどの民族が最初に行った手法である。長い食の歴史を経て世界各国には「焼きの食文化」が盛衰してきた。
 その中で、食生活に独自の焼きの手法を取り入れ、バラエティに富ませ発展させたのが日本人であると、食の博士・小泉武夫氏は語る。もちろん外国には、肉を串に刺して焼いたり、鉄板の上で肉を焼く料理、魚の燻製など、焼き料理は多数ある。しかし日本人ほど材料の持ち味を活かして焼く手法を確立した民族は珍しいらしい。塩焼き、照り焼き、付け焼き、串焼き、蒸し焼き、包み焼き、ほうろく焼き、等々。街には炉ばた焼き屋、焼き鳥屋、串焼き屋、たこ焼き屋、お好み焼き屋、焼き芋屋、等々。
 日本で焼く料理がこれほど独自に発展した理由は幾つかある。まず、魚介類や肉、野菜など、焼かれて美味い素材が豊富であること。焼いたものへの味付けとして醤油、味醂、日本酒などの特有の調味料があること。さらに備長炭に代表される炭や七輪、金網など焼く用具を調理に合わせてしつらえたこと。このような条件がそろっているのだから、焼いた料理を食べてまずいはずがなく、日本人の好む料理法となった。
 焼かれて美味い魚は多くの場合、日本の近海のもので、脂肪ののった魚である。その代表が秋刀魚。炭火で焼いてアツアツの内に食べるのが一番美味い。
 ところが残念ながら、いつの頃からか七輪が姿を消した。大抵の家庭ではガスで焼く。炭火とガス火では味が微妙に違う。脂の落ち方が違うのだろう。なお残念なことに、炭火を熾す、火を熾すという習慣が、特に都市部でなくなったことだ。

神さま 仏さま ( 再掲 )

2015年10月19日 | Weblog

 僕のような無心信者が宗教について云々するのは僭越である。僭越なんだけれど、ほんのちょっとだけ宗教について記すことにする。積極的に記す気はないんだけれど。
 思うに、日本人は、個々人の生き方に関しての平安や救いについて仏さまに期するところが大きいように思われる。一神教の国では、生活の繁栄も個々人の安心立命も自然の恵みも神に祈り、神に感謝する。
 古代インドの悠久の大地で成立した(と思われる)、途方も無い大きいスケールの輪廻の宇宙観は、小さな島国たる日本にはそれ程根づかなかったように思う。むしろ、西方浄土で現世の苦からの解脱を期待することが主要な関心事となったように思う。そして、願わくば現世での苦から少しでも解脱すること(この言い方は本来はおかしいのだが)を望む人々が日本の仏教を支えてきたように思われる。
 ところが、日本人の多様な信心は神さまにも向かった。五穀豊穣を祈るのは田の神さまに対してである。山には山の神さまがおられる。海には海の神さまがおられる。
 神仏習合は、それ程の褐藤もなく成立したのではないだろうか。それは、個々人の信のあり方としてだけではなく、境内に七福神を祭ったり、お稲荷さんを祭ったりしている寺院があることからも肯ける。仏壇と神棚をお祭りされている家々がある。(一神教の国の信心深い友人をかつて京都の神社仏閣にお連れした時、彼は手を合わせていた。仮に手を合わせたのだとは思われなかった。)
 僕は特別に宗教を意識することはないが、もって生まれた血の中に、そういう、苦からの解脱や平安を与えて欲しいと願う仏さまと、山の神さま、田の神さまが棲んでおられるのではないかと思う時がある。

2015年10月17日 | Weblog

 僕は焼き物を観るのが好きだ。もっと若い頃は衝動買いで安物を手に入れ、悦に入ったことがあった。日本の焼き物は土を焼成したものが多い。変なことを考えた。土とは何か?
 長大な時をかけ焼かれたものが冷え、固まって風化した、それが地球だ。その地球の表層が土だ。土がもし無かったら、多くの植物は生えない。植物が生えなかったら、光合成がなされず、殆どの生物は存在しない。そうすると、仮に僕らが生存できるとしても、僕らの用を成すものの殆どは生育しない。勿論、樹木も野菜も生育しない。
 だから、人間を含む生物は土無しには生きられないのだ。当たり前のことだが、都市部の人々は土に感謝しているだろうか。土が見えないようにアスファルトで覆っているではないか。
 ところで、土を耕す人々が居る。彼らこそ地球の住民だ。土に養分を施し、豊かな土に種を蒔き、植物を育てる。その植物を僕らは金で買って食べて生きている。土に密着して植物を育てる人々のお陰で、僕らは生きることが出来る。僕らは土から浮遊しているのだ。浮遊物なのだ。
 浮遊物なんだけど、時には土に思いを馳せることがあってもいいのではないか。いずれ土に還るのだから。土と仲良くしておく方が寝心地がいいだろう。

自然( 再掲 )

2015年10月16日 | Weblog

 だいぶん前から気になっていた言葉の一つに「自然」がある。この言葉を僕らは何気なしに使っているが、nature という言葉が西欧から入ってきたのは勿論明治以降である。それ以前の日本では、漢字の自然はそれほど用いられていなかったようだ。(親鸞の「自然法爾(しぜんほうに)は有名だそうだが、僕は知らない。)親鸞の語法はむしろ例外的で、「おのずから然(しか)ある事柄の相」を指して自然という言葉は用いられていたと思われる。現在僕らが用いている自然という言葉は「天地」「天地万物」、あるいは山川草木、日月星辰、森羅万象を意味する語として用いられてきたと思われる。
 明治の初め西欧の学問とともに入ってきた nature をどう訳すかについてはだいぶん困ったふしがある。明治14年には、本性、資質、造化、万有などが当てられ、明治44年に初めて「自然」という訳語が追加されている(井上哲次郎「哲学字彙」1881年)。
 そこで、昔の日本人は、自然ということで「おのずから然ある事柄の相」を理解していたようで、自然という漢字で、山川草木、日月星辰、森羅万象を理解するようになったのは、むしろ新しいと考えられる。
 で、何が言いたいかというと、「自然」のむしろ新しい理解に昔の理解を重ねて、自然を重層的に理解するのが良いのではないか、ということです。荒廃した山川草木を「おのずから然ある事柄の相」で改めて見直すことが大事だと思う。思うだけでは何にもならないと思うが、そのように見直す姿勢を保っておれば、自然の違った相が見えてこよう。