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自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

生きる指針

2016年02月28日 | Weblog
 作家(代表作『阿弥陀堂だより』)で内科医の南木佳士(なぎけいし)がパニック障害(僕はこの障害がどんな障害なのか、詳しい事を知らない)を発病し、十年間死ななかった理由を3つ挙げている。
 (1)医者としてのプライドを捨て去り、患者になりきり、主治医の指示通りに薬を飲んだこと。
 (2)病んでいる間にも時は過ぎ行くのだから、元の状態に戻ることが治癒だと考えるなら、それはあり得ないと諦めたこと。
 (3)未来は己の意志で切り開けるものなのではなく、降って湧く出来事におろおろしながら対処していく、そのみっともない生き様こそが私の人生なのだと恥じ入りつつ開き直ること。

 この3つを適切に言い換えれば、生きる指針になるかもしれない。しかし、生きる為の「主治医」は自分自身である他は無く、矢張り自分が自分自身を世話しなければならないのだと思う。ただ、その場合、(2)と(3)は充分に指針となるのだろうと思う。とりわけ若い人が自分自身に自信を無くした時は。そういう時は幾ら前向きになろうとしても、上手くいかないものなのだ。「恥じ入りつつ開き直る」ことがあってもいいではないか。

他人の好意

2016年02月27日 | Weblog
 我々が、他人の好意を
 心から喜ぶ時、
 我々は、心底、生き生きとするのだ。 (ゲーテ『箴言と省察』より)

 幼児は、いつでも、他人の好意をそのまま素直に受け止める。だから、幼児の表情はいつも美しい。
 ところが、歳をとるに従い、相手の下心を知らされたり、裏切りを経験したりなど、人生の悲しむべき学習をした結果、人は素直さを失い、他人の好意を率直に喜べなくなることがある。
 夾雑物を取り除いて生き生きと人生を送るか、疑いの心をもって暗い余生を送るか、僕次第なのだ。

どんな態度をとればいいのだろう?

2016年02月26日 | Weblog
(ラ・ロシュフコー『箴言集』より)
「謙虚とは、往々にして、他人を服従させるために装う見せかけの服従に過ぎない。それは傲慢の手口の一つで、高ぶるためにへりくだるのである。それに、傲慢は千通りにも変身するとはいえ、この謙虚の外見をまとった時以上にうまく偽装し、まんまと人を騙しおおせることはない。」

 僕は時々、むきになって直言することがある。人様から見れば傲慢なヤツだと思われていることだろう。直言した後、もう少し謙虚な物言いが出来なかったものかと忸怩たる思いをする。しかしながら、上の箴言によれば、傲慢が謙虚を装うと騙しになる。それでは、言うべきことがあるとき、どんな態度や言葉遣いで話せばいいのだろうか?
 箴言というものは、物事の一理を鋭く説く言葉である。そこには時代を超えた真実が表現されている場合も多い。気がついた箴言を傾聴していると、身動きがとりにくくなる。
 高ぶってもへりくだっても傲慢の偽装となる。それでは、どうせよ、というのだろうか。謙虚と傲慢という言葉を僕の辞書から無くせばいいのだ。だが、そんなことが出来るはずもない。困ったことだ。

素朴さ

2016年02月23日 | Weblog
 素朴さとは一体どういう心意気なのだろう。
 都会人より山里や海辺に住む人の方が素朴に生活されているだろうと推測される。この文脈での素朴さの意味には自然の摂理に逆らわないという側面があるのであろう。
 もう少し一般的に素朴さの意味を探索してみたい。素朴さの積極的な意味は、心を開いてありのままの自分を見せることだと思う。率直さと言い換えてもいい。この意味での素朴さとは、自己を偽ることへの嫌悪、自分の欠点を正直に打ち明けることなど、自他の関係において隠し所の余地がないことだと思う。
 このような意味での素朴さをボクは持ち合わせていない。隠し所を大いに持っている。この歳で我ながらあきれはてたことだと思う。
 素朴さの消極的な意味、それは自然の摂理に逆らわないということであろう。消極的な、と言ったが、この形容詞は当てはまらないとも思う。自他の関係にも自然の摂理というものがあって、その自然の摂理に沿うことが素朴さなのであろう。生身の人間だから、他人に対する好き嫌いの感情を抱くのは自然なことであろう。その好き嫌いの感情を良い悪いの判断に転化してしまうところに、素朴さと対極をなすと考えられるエゴイズムが顔を見せる。
 そうすると、エゴイズムからの自己浄化された状態が素朴さということになるのであろうか。素朴さの意味をまだまだ探索しなければならないが、探索すればするほど、ボクには縁遠いもののようにも思われる。不惑には到底なれない気がする。

なにがしかといひし世捨人

2016年02月21日 | Weblog
『徒然草』第二十段より。
 なにがしとかいひし世捨人の、「此の世のほだし持たらぬ身に、ただ空の名残のみぞ惜しき」といひしこそ、誠にさも覚えぬべけれ。

 (何とかいう名前の世捨て人が「この世に何の身を束縛するものも持たない(私の)身にとって、ただ自然の風物のみが(私の身に)残す余情だけが執着のたねだ」と言ったことこそ、本当にまさに感じられそうなことだ。)

 そんなこと言われても、世捨て人になれないことはおろか、「空の名残のみぞ惜しき」なんていう心境にもなれない。

吉野林業の父 ・ 土倉庄三郎

2016年02月20日 | Weblog

 掲示板に土倉庄三郎という人物の名前が登場した。全く知らない人物なので、ネットで検索した。
  http://www.vill.kawakami.nara.jp/n/j-rin/j-rin.htm
 このページは奈良県川上村の林業に関するホームページです。それによると、次のように書かれています。

 吉野林業の中興の祖と呼ばれる土倉庄三郎は、天保十一年(1840)年に川上村大滝の山林地主の家に生まれました。16歳で家督を継いだ彼は、林業の発展に力を入れ、後に苗木の密植とていねいな育成で優れた多くの材木を生産できるように工夫した「土倉式造林法」という独自の造林法を生み出しました。そして地元の吉野だけではなく全国各地(群馬県伊香保・奈良公園・兵庫県但馬地方・滋賀県西浅井町・台湾など)にその技術を広め、各地で成果をあげていきました。また借地林業や村外地主の森林所有者による経営、これに伴う山守制度(管理制度)などの基礎を築くなど、吉野林業の父といっても過言ではありません。
 土倉庄三郎は、事業のかたわら、道路の整備や吉野川の改修などの推進や日本赤十字への寄付など社会貢献にも努めました。また、私費によって奈良県初の小学校を川上村に開校したり、同志社大学や日本女子大学の創立にも一役かっています。板垣退助の洋行を援助するなど自由民権運動にも力を注ぐなど、林業以外の分野でも多大な功績を残しています。
 土倉庄三郎は、吉野大滝村で生涯を過ごし、1917年7月に78才で多くの人々に惜しまれながら死去しました。1921年10月には生前の功績を記念して、川上村大滝の鎧掛岩に「土倉翁造林頌徳記念」の文字が刻印された碑が建立されています。
 川上村の山の緑がいきいきと輝くのは、今も土倉庄三郎の熱い魂が村に息づいているからでしょう。そして、木を愛し、木と生きた偉人伝は語り継がれ、その魂は山を、そして自然を愛する川上村の人たちに受け継がれています。

(江戸から明治に変わる頃には日本各地に偉人が現れた。今では余り知られていない偉人について知ることは、今後の日本のあり方を考える上で大いに役立つものと思う。ついでながら、僕の遠い祖先と遠い関係にあった竹川竹斎などに関しても掘り起こしてみるべきかもしれない。)

水のようであれたら・・・

2016年02月18日 | Weblog
水は常に自分の進路を求めて止まない。
水は自ら活動して他を動かす。
洋々として大海を満たし、蒸発して雲と変じ雨ともなり、凍っては氷雪と化す。
しかもその正体を失わないのが水。


若いうちは水のようでありたいと思ったこともあった。若い人は水のようであってほしい。融通無碍であってほしい。(なお、水を比喩とした上の教訓は王陽明のものと伝えられている。)

楽観主義者

2016年02月17日 | Weblog
楽観主義者と楽観的に過ぎる人との違いは何だろう?

簡単に極論すると、
楽観主義者とは、「すべてがうまくいく。」と思う人であり、
楽観的に過ぎる人とは、「すべてがうまくいく。仮にうまくいかなかったことがあっても、それはすべてがうまくいった結果だ。」と思う人である。

現状維持的で大きなほころびを小さなほころびと主張する政治家は、楽観的に過ぎる人である。彼は、すべてがうまくいくと主張し、問題を先延ばしする傾向にある。

上の極論の意味での楽観主義者が居るとすると、その人は現状はどうであれ、未来では、そして来世では、すべてがうまくいくと思う人である。(呆さんはこの意味での楽観主義者かも知れない。)

ボクはどうかと言うと、このどちらでもないと逃げておこう。

若人は悲観的にならないことだ。楽観的と悲観的の違いなどにこだわらずに。

執心、妄心( 再掲 )

2016年02月13日 | Weblog

 時々、日本の名文を読み返すことがある。その一つ、鴨長明『方丈記』の末尾から引く。

 「・・・一期月影傾きて、余算の山の端に近し。たちまちに三途の闇に向はんとす。何の業をかかこたんとする。仏の教え給うおもむきは、事に触れて、執心なかれとなり。・・・しかるを、汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり。・・・もしこれ、貧賤の報のみずから悩ますか。はたまた、妄心のいたりて、狂せるか。その時、心、さらに答ふる事なし。」

 高貴の身を捨て、世俗を去り、山中に六畳ぐらいの草庵で暮らせば、現世でのしこりを忘れ、木々のざわめき、小鳥の声、虫たちの戯れなど、時には読書など、誰からも干渉されることなく、気ままに生を楽しみ営むことができる。しかし長明は心静かに安楽としておれなかった。「執心なかれ」と思っても、妄心に至る。仏の教えを求むるも、達っせざる自らの「心は濁りに染め」る。これが、我が心が「よどみに浮かぶうたかた」であるという事実なのかもしれない。
 事実なのかもしれない。事実なのだ。

ブナと文字( 再掲 )

2016年02月12日 | Weblog

 家に居る間はPCでいろいろしている以外は手当たりしだいに本を斜め読みしている。木に関する本が多い。
 昔々、ドイツ人やイギリス人の祖先ゲルマン民族やフランス人の先住民族ケルト人は文字を知らなかった。紀元直後の頃、アルプスの南から文字の存在を知ったらしく、24個のルーネ文字を作った。鋭い刃物の先で呪文のような記号文字を、滑らかなブナの樹皮や板に引っ掻くようにして記した。だが、ルーネ文字は不便なのでまもなくラテン文字に変わった。
 ところが、「書く」という言葉は残った。鋭い刃物などで「引っ掻く」ことをラテン語でスクリーベレというが、これをそのまま借用したのがドイツ語のシュラィベン(書く)、英語のスクライブ(掻く、書く)、スクリプチャー(文章、聖書)である。エジプト産のパピルス紙やギリシャ産の羊皮紙も持たない貧しいゲルマン民族は、もっぱら滑らかなブナの樹皮や板にルーネやラテン文字を引っ掻いて書いた。そこで、ドイツ語では「文字・字母」のことを今でも「ブナの枝」(ブーフシュターべ)という。「本・書物」を表す英語のbook、ドイツ語のBuchは、「ブナの木」Bucheの語そのままだとも言える。
 北ヨーロッパの文字文化は、ブナの木とともに始まった。ドイツ人にとっては大切な木なのだ。

 こういう話を読むと、何故か嬉しくなる。僕らの文化というか生活が木ときってもきり離せないということが、とにかく嬉しい。何故かというと、僕は木の味方だからである。

大岡昇平 『 野火 』( 初版1954年 )

2016年02月10日 | Weblog

なぜ私は食人をしなかったのか
飢餓で死ぬに極った臨界状況で
「俺の肉を喰ってもいいぞ」と
言い残して逝った見知らぬ友兵
私は右手で
彼のやわらかい肉をさわった
食べる意図を自ら感じた

ジャングルの奥深い木々がざわめいた

私の左手が右手を捉まえ
止せ と
言った 弱々しい声だった
しかし至上命令のように響いた

私は敵兵に捉まってもいい
とにかく水が欲しい 水を渇望して
捉まるのを覚悟の上で草叢を
川を目指して歩いた
途中 肉片のない人体があった
水にありついた

あの至上命令を下した左手は何だったのか
人智を超えた何者か・・・
それは道徳といったものではない
左手に神が宿ったのか という考えに
一瞬とらわれた 宿ったかもしれない 
だが脳にまで達しない神だった
敗残兵として生き残った私にわからぬ
正体不明の畏怖すべき何者かだった

ジャングルの道なき草叢を逃避しながら
疲れきっている私は疑問に思った
自分が生きられるという感じは
何処に由来するのか と

私には知識があるという自負があった
だが知識は役に立たなかった

陥落した兵舎から水を求めて
山を下る途中
木の根を枕に 喉の渇きにうなされながら
不覚にも眠ってしまった

たぶん夢の続きであったろう
或る考えが浮揚した

生きられるという感じは
生きてきた現在までの行為を
明日もまた続けられるであろう という
不定な見込みに由来する と

そう 不定なのだ
すべては不定なのだ

私の疑問は儚くも氷解した
だが自分の考えだけが堅牢無比であると
戦争の真っ只中でも
平和を気取っている今日でも私は確信した

奈良町の身代わり猿

2016年02月09日 | Weblog



 庚申堂(こうじんどう)は、奈良市内の通称・奈良町の中心にあり、「庚申さん」と呼ばれます。庚申信仰の奈良の拠点です。家族分の猿(ぬいぐるみ)を預け、魔よけとします。
 各家の軒先にもぶら下げる習慣もあります。(新参のボクの家ではぶら下げませんが。)なかなかにユーモラスです。
 町内の住民の災いを代わりに受けることから「身代わり猿」と呼ばれます。
 こういう伝統を大事にしたいと思っています。ただ、僕んちは新参の奈良人ですので、軒下にぶら下げる習慣はありません。

虚飾

2016年02月08日 | Weblog
ゲーテ『箴言と省察』より
 「虚飾を捨てさえするならば、人間はなんとすばらしい生物であることか。」
                       

つまり、人間の諸悪の源は虚飾にある、ということなのだろうか。もっともなことであるとは思う。
だが、反面、人間を人間らしくしているのも、虚飾と言えよう。場合によっては、この虚飾が、人間の生き甲斐になっている事も大いにあるだろう。
虚飾がなければ、文化も貧弱なものになっていたかも知れない。
虚飾を捨て切れない人間!人間とは哀しくも、面白い存在である。
だが、過ぎたる虚飾は人間とその文化をつまらなくしてしまう。これも事実であろう。

感激屋と批判家

2016年02月07日 | Weblog

(ゲーテ『箴言と省察』より)

  熱狂的な感激屋と
  冷たい批判家とは、
  実のところ、同じだということに、
  本人たちは気づいていない。 

 熱狂的な感激屋は、あばたもえくぼに見えるから、こういう人の価値判断は当てにならない。
 冷たい批判家は、えくぼもあばたに見えるから、こういう人の評価も当てにならない。
 東洋では中庸、ドイツでは黄金の中道(die goldene Mitte)というらしいが、これこそ価値を見つける確かな道なのだろう。もっとも、その道を見つけるのは、至難の業なんだが。
 僕はといえば、時には感激屋、時には批判家、どっちつかずでこれまで生きてきた。僕の言うことはすべて当てにならないということになりかねない。ただ、熱狂的な、冷たいという形容詞は付かないと自負している。

自然暦( 再掲 )

2016年02月04日 | Weblog

 『自然暦』の編著者川口孫治郎氏によると、「自然を目標にとった自然暦、それが往々却って太陰暦、太陽暦よりも確かなところがある」。どんなに高度な科学技術でも、自然の複雑さには太刀打ちできないし、それだけに、永年にわたって培ってきた単純な経験的推測の方が自然を的確に捉えるということなのかも知れない。
 同書には次のような記述がある。「自然観察が、言い伝えとなり、諺となって固定したのが自然暦である。猪苗代湖南の村々では、湖をへだてた北の磐梯山に残る雪形を見て耕作の時期を知り、寺の境内の大きな桜の木を種まき桜と言って、その桜の花の咲く時を播種の基準として生活してきた。日本アルプスをはじめ各地にある白馬岳、駒形山のような名のついた山も、その山に残った春雪の形で農耕の時を知ったことから、ついた名である。」
 自然暦は農耕に関連する。農業にとって、農作業の適期を知ることが何よりの関心事であったに違いない。適期をはずせば、農作物の命取りにもないかねない。農作業の適期は、その年の気象条件が決めるのであって、カレンダーが決めるものではないから、自然暦の方が合理的だという説には肯けるところがある。
 同書には様々な諺やその類が載っていて、夫々に面白い。自然の摂理に根ざした知恵というものは、場合によれば、科学的を称する知識よりも有益であろう。逆に言えば、有益でなければ自然の摂理に根ざした知恵とは言えないということであろう。ただし、こんな薀蓄はどうでもよく、農業の現状が先細りになっていくのではないか、その事が気にかかる。

 自然暦は農作業の目安となる諺などを集めただけではなく、食べ物に関する諺などにも事欠かない。特に「寒」についてのものが面白い。
 例えば、羽前北小国村(現・山形県小国町)の「ヤマドリは寒明けに脂が不足する、タヌキは寒中に脂で太る」などは、土地の人の永い経験に裏付けられた知恵として面白い。その他、食べ物の上に「寒」をつければ、それで立派な自然暦の役目を果たすらしい。「寒雀」(飛騨高山)、「寒ウツボ」(紀伊田辺町)などと同様に、フナ、カレイ、ブリなどの上に「寒」がつけば、美味ということになる。
 食べ物の話は、特に雪国の寒中の冬籠りに欠くことのできないものであるが、自然の生き物たちは、この時期最も厳しい試練にあっている。生き物たちは、春を迎えるまでの長い期間苦闘の連続であろう。タヌキが寒中に太るとか、イノシシが太るなどと人間はうそぶいているが、タヌキやイノシシは生き延びるための必死の対策をとっているのであろう。
 僕らは自然の摂理をもっとよく知るべきだと思う。が、その知り方をまず教えてもらわなければならない。自然の摂理を知らない人間が多くなり、自然を荒らすものだから、タヌキやイノシシが里に来て悪さをする。お互いのテリトリーを守るのも自然の摂理の一つだろう。