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自 遊 想

ジャンルを特定しないで、その日その日に思ったことを徒然なるままに記しています。

出来ますか?

2015年06月19日 | Weblog

 最近、気がついたこと。両手、両足指の動かし方。
まず、右手を開き(パー)同時に、
  左手を閉じる(グー)同時に、
  右足指をそのまま、同時に
  左足指をキュッと閉じる。
これは何度でも出来ます。

では、右手パー、同時に、
  左手グー、同時に、
  右足指キュッ、同時に、
  左足指そのまま。
これ、出来ますか?出来たら何度でも出来ますか?同時にですよ。同時に!力まずに!左足指をピクとも動かさずに!
 正直に言いまして僕は出来ません。僕だけなのかどうか、分りません。もしお出来になれない方が居られましたら、何故お出来になれないのか、その理由を教えて頂けませんか?

『老人と海』――老いの一つの姿( 再掲 )

2015年06月18日 | Weblog

 かつて読んだことのあるヘミングウェィ『老人と海』を思い出して、老いについて考えた。
 主人公の孤独がまず挙げられる。仮に家族や友人がいても、孤独を深めざるを得ないのが老境というものであろう。家族も身寄りもない主人公の設定は老人の孤独を際立たせている。
 しかもこの主人公の老人は不運にとりつかれ、漁に出てもさっぱり獲物にありつけない。飲み屋に出かけても、からかわれるだけである。
 だが、この老人はレッキとした現役の漁師だ。不運続きで、あるいは腕も鈍りかけているにも拘わらず、敢然と毎日の出漁をやめない。これは少しカッコよすぎる老年像かもしれないが、彼の負けん気の強さは、老いの一つの姿だと思う。
 しかし、老人は結局は敗れる。大マカジキとの3日間にわたる力闘、苦闘の末、相手をしとめたものの、鮫の群れに獲物を散々食い荒らされてしまう。
 老人は所詮敗れ去るものなのだ。だが、敗れ去った後、老人は不思議な安堵感を覚える。
 『老人と海』の老人は、孤独の中に居ながらも、死力を尽くし敗れた後、安らかに苦闘を回顧する。おそらく、ヘミングウェィ自身を主人公に重ねているのだと思う。
 孤独と負けん気の強さと、若者には分からない不思議な安堵感とが、老いの一つの姿なのかもしれない。僕にはまだ実感できないが。それに、この不思議な安堵感は、肉体労働をやり終えてこそ初めて得られるものではないか、とも思う。
 

理解せんとしよう

2015年06月15日 | Weblog


理解せんとしよう
世界の混沌を
理解せんとしよう
世の中の難事を
理解せんとしよう
人々の絆を
理解せんとしよう
アナタの心を
けれど どの理解も僕の理解を超えているのかも
それでも 理解に理解を重ねようと僕は決意した
なぜ決意したかって?
ムクゲの白い花がけなげにも一輪咲いたからさ
そして 次々と花開くからさ
次々と理解せよと僕に言っているからさ

ワルツ

2015年06月14日 | Weblog

 ある小説を読んでいて(まだ初めのところなんだけど)興味深い考えに行き当たった。この小説は音楽をテーマしているのではないが、ところどころにいわば音楽論が出てくる。ワルツについて作者の考えを要約しておく。
 ワルツってのは単なる優雅なダンス音楽ではない。激しくて情熱的で知的なんだ。
 ワルツは抵抗の音楽なんだ。むろんレントラーという舞曲が発展したもではあるが、この三拍子のリズムにモーツアルトもベートーヴェンもショパンもヨハン・シュトラウスも革命への思いというと過激だが少なくとも新時代への期待をこめて作曲したんだ。シュトラウスが『美しき青きドナウ』を作曲したのは1867年、チャイコフスキーが『花のワルツ』を作曲したのは1892年、つまりロシアはヨーロッパから二十五年遅れてワルツの名曲を手に入れたわけだけれど、革新派詩人プーシキンの原作であるオペラ『スペードの女王』を作曲したチャイコフスキーはさすがだ。ワルツのもっている危険思想をしっかりと理解していた。だからこの『花のワルツ』も一見したところ少女趣味的ロマンチックなものに聴こえるかもしれないが、実は違うんだ。チャイコフスキーは、自由に憧れたヨーロッパの先輩作曲家たちが発したメッセージへの返信としてこのワルツを書いている。

 うーーーん、と僕は思った。ショパンのワルツ集を改めて見て(今はもう弾けない)、楽譜を目で追うと、14番ホ短調遺稿などは完全に実用的舞踏曲ではない。この曲はブリリアント型ワルツの先駆だとの評価が定着しているが、そうかもしれないが、それだけではなく上で言われた自由への憧れを表しているとも思われる。ワルツ以外のショパンの作品の多くには祖国解放、自由思想が表現されていると通常言われる。ワルツもそうなのだ。14番ホ短調だけではなく、哀愁と激情が入り混じったワルツが多い。

 『花のワルツ』を今から聴いてみよう。

ベルリン ・ ヒロシマ通り (再掲)

2015年06月13日 | Weblog

 東西ドイツが統一された後、程ない1990年9月1日、ベルリンのティアガルテン区で或る通りと或る橋の改名式が行われた。旧名を海軍提督の名をとった「グラーフ・シュペー通り」、「グラーフ・シュペー橋」と言う。改名式で区の代表者が次のような演説をした。
 「・・・ヒロシマという新しい橋の名前により、私たちは、最初の原爆投下の影響により今なお苦しみを受忍している都市のことを思い起こすのであります。
 人間精神の比類なき倒錯である原爆は、ドイツ・ファシストたちによって始められた犯罪的戦争の最後に現れました。1933年リュツオフ橋をグラーフ・シュペー橋に改名したのもファシストたちでした。この時、この付近で多くの通りが旧国防軍(海軍)の将校の名前を付けられたことを私は思い起こします。・・・グラーフ・シュペー通りをヒロシマ通りと呼ぶことができるようになったことは、私の深く喜びとするところであります。・・・
 ヒロシマという名前は、世界の人々がナチスのテロにより受けた多くの犯罪と苦痛をも代弁するものとなるのであります。」

 忘れることをよくする僕らに忘れてはならないことがあることを、ベルリン市民の行動が教えてくれている。大戦に対する反省の度合いが、日本よりドイツの方が強いということは、しばしば聞くところである。ヒロシマという名前を通りと橋に付けることによって反省を明確に表す行動を他山の石にしてはならないと思う。

作家・半藤一利氏に聞く

2015年06月11日 | Weblog

(6月8日新聞より)
 この国はどこへ行こうとしているのか?「平和」の名の下に。

 ◇「非国民」にされる空気

 1年前と同じ喫茶店の同じ席で、作家、半藤一利さん(85)は「あれから、まだ1年しかたっていないんですね」と小さく笑った。

 この人の指を何度思い返しただろう。昨年5月のインタビューで、安倍晋三政権が集団的自衛権を行使可能にする憲法解釈の変更に踏み出したのを受けて「私たちにできること」を問うた時、半藤さんは何度も指で空をつまむ仕草を繰り返し、言った。「戦争の芽を一つ一つつぶしてかかるしかない。こんなふうに、自分の手で」

 あの日、この指の力強さを忘れまい、と思ったのだった。

 「この1年で国は随分変わりましたね。『戦争の芽』は指ではもうつぶせないくらいに育ってしまったようだ。戦後70年の間で、今ほど国会で『戦争』が論じられた日が過去にあったでしょうか。70年間、常に平和を論じてきたはずなのに」

 再び会いたくなったのには理由がある。海外での自衛隊の活動の拡大を図る安全保障関連法案が閣議決定された5月14日夜、安倍首相は記者会見で「米国の戦争に巻き込まれることは絶対にない」と断言した。迷いのない言葉を聞いて、ふと、「絶対」という言葉を使わない作家の存在を思い出したのだ。

 東京大空襲の焼け跡で14歳だった半藤少年は「絶対に日本は正しいとか、絶対に神風は吹くとか、すべてうそだ」と思い知った。それ以来「絶対」という言葉を使わないと決めた。そんな半藤さんは安倍首相の「絶対」をどう聞いたのだろう。

 「絶対、などとなぜ言い切れるのか。あの言葉に心から安心できた人がいたのでしょうか」。そう言いながら小さな紙切れを見せてくれた。国会で審議中の自衛隊法改正案など11の安保関連法案の一覧や、武力行使できる新旧「3要件」の相違点が書かれていた。「要点がわかりにくいのでメモを持ち歩いているんです。国会中継を見ていても、武力行使と武器使用は違うとか、後方支援は武力行使に当たらないとか議論がよく分からない」

 「分かりにくさ」は意図されたものだ、という。「安倍さんが語るのは理念だけ。集団的自衛権の行使が可能となる『存立危機事態』を説明するのにも、具体的な『仮想敵国』一つ挙げない」。確かに、国会で議論になっている具体的な地域といえば「中東のホルムズ海峡」や「南シナ海」しか思い出せない。

 「朝鮮半島や日本近海での有事を語らない。国民が戦争を具体的にイメージし、恐怖や不安を感じ始めるのを巧妙に避けているかのようじゃないですか」

 分かりにくい理由のもう一つは、安保法案の一括審議だ。

 「麻生太郎副総理が2年前、改憲について『ナチスの手口に学んだら』と発言したことで、立法権を国会が政府に委任した『全権委任法』が話題になりました。しかし実は、同法より前、ヒトラーは国会決議を経ない閣議決定で大統領緊急令を発令させ、ワイマール憲法を空洞化し、幾つかの法を一束にしてまとめて変え、国民の自由を制限しました」

 メモや資料を順々に示していた細く長い指が急に止まる。半藤さんは視線を上げると静かに言った。「安保法制の進め方にも似ていませんか?」

 昨夏から新しい連載を書いている。隔月刊雑誌「こころ」(平凡社)の「B面昭和史」だ。「政治家や軍人が刻んだ歴史がA面だとすれば、人々の暮らしや風俗から読み取れるのがB面の歴史。私たち民衆がかつてどんなふうに政府にだまされ、あるいは同調し、戦争に向かったのかをどうしても書き残しておきたいのです」と話す。

 戦前の民衆の暮らしがじわりじわりと変わる様子が描かれる。昭和2、3年ごろは盛り場をモダンガールと歩いた男性が、7、8年後には官憲から「非常時にイチャイチャするとは何事だ」と批判される。軍縮や対中国強硬論反対をぶっていたはずの新聞が読者の期待に沿うように<勝利につぐ勝利の報道>へとかじを切り、これがさらに読者の熱狂をあおる。「銃後」の言葉の下、女たちが自主的に兵士の見送りや慰問を始める……。<決して流されているつもりはなくて、いつか流されていた>。そんな一文にドキリとした。

 「昭和の最初、米英批判は極端な意見に過ぎなかった。ところが人々がそれに慣れ、受け入れるうちに主流になった。リベラリストが排除され、打倒米英を本気で唱える社会となっていった。国定教科書改訂で『修身』が忠君愛国の精神を強調した数年後には『日本臣民』が続々と世に増えました」

 あのころだって日本には、ヒトラーのような圧倒的な独裁者がいたわけではなかった。

 「むしろ政治家は、民衆のうちにある感情を受容し、反映する形で民衆を左右した。最初は政治家が世論を先導しているようでも、途中から民衆の方が熱くなり、時に世論が政治家を駆り立てたんです」

 では私たちはどうすれば、と問うたら、半藤さん、「隣組を作らないこと、でしょうか」。意外な答えに不意を突かれた。

 「この国に今すぐ戦前のような隣組ができるとは思いません。でも今回の安保法案が成立すれば『非常時だ、存立危機事態だ』と人々の暮らしが規制され、できるかもしれませんよ、隣組」と笑顔のまま、怖いことを言う。

 こんな例を挙げた。「仮に自衛隊が海外派遣されるとする。『私たちのために戦いに行く彼らを見送ろう』と声が上がる。見送りすることは悪いことではないから批判しづらい。しかし見送りに参加しなければ『非国民』呼ばわりされかねない空気が段々と醸成されていく。ありえると思いませんか」

 やっと分かった。だから“歴史探偵”はB面の歴史をつづり始めたのではないか。私たちが同じ失敗を繰り返さないように。当事者として歴史から学べるように−−。

 半藤さんは今、異なる言論に対する許容度が極端に落ちていることも深く懸念する。「閉鎖的同調社会になりつつあるのではないでしょうか。似た考えの仲間だけで同調し合い、集団化し、その外側にいる者に圧力をかける。外側にいる者は集団からの圧力を感じ取り、無意識に自分の価値観を変化させ、集団の意見と同調していく。その方が楽に生きられるから」。隣組はすぐその先だ。

 「今はまだ大丈夫。こうして私たちが好き勝手なことを話し、書けているうちはね」。半藤さんは朗らかな声で私を励ました後、ゆっくりと言い添えた。

 「だから異なる考えを持つ人と語り合い、意見が違っても語り合えるだけの人間関係を築きましょう。物言えば唇寒し、と自分を縛らず、率直に意見を述べ合い、書いていきましょう」

 テーブルの上に置かれた半藤さんの手を再び見つめた。言葉を紡ぐことを諦めないこの手こそが、戦争の芽をつむのだ、きっと。【小国綾子】

梅雨

2015年06月08日 | Weblog

ちょうど梅の実が熟す時期に降る雨なので梅雨。ものみな黴(かび)を生じさせる雨、黴雨(ばいう)が転じて梅雨になったという説もある。

梅雨前線が日本の南海上に停滞し、曇りや雨の日が多くなり始める時期を入梅と言う。

梅雨の最中に、一時的に晴天が続くことがある。このような時、梅雨前線は南海上に下がっているか、活動が弱くなっている。梅雨の中休みと言う。しかし、雨は中休み以降が本番。集中豪雨は梅雨の後半に多く発生する。今年はどうだろうか。集中豪雨は困る。

梅雨の時期なのにほとんど雨が降らず、夏のような暑い晴天が続くことがある。これが空梅雨。夏の水不足が心配される。

じめじめと蒸し暑い梅雨の最中でも、オホーツク海高気圧が勢力を強めると、梅雨寒になる。暖房をしたくなるようなこともある。

ようやく梅雨が明けたと思っていると、またぶり返して雨が降ることがある。これを戻り梅雨と言う。


ところで、梅雨を【つゆ】と読むのは何故だろう。ちょっと調べたんですが分からずじまい。誰か教えて頂けませんか?

堀明子詩集『四季の色』より「水玉」

2015年06月07日 | Weblog

 集中豪雨は困るが、静かな雨は気持ちを整えてくれる。雨がつくる水玉は木の枝をつたってくる水でゆっくり大きくなり、きらめきながら枝先を離れて落ちていくが、しばらくすると再び水玉が同じ枝先に生まれ、光り始める。そんな水玉の様子をボーと眺めるのが好きだ。
 堀明子詩集『四季の色』の一編「水玉」が思い出される。詳しいことは知らないが、作者の堀さんは高校一年生で逝去された人で、小さい時から詩を書くのが好きだったようだ。ご両親がその遺稿を詩集にまとめられた。「水玉」は小学校三年生のときの作品。
 
   水玉いっぱい
   はぎの葉
   葉一面に
   かわいい水玉
   光ってる
   でもぬれないかな

   あれあれ水玉
   虫めがね?
   水玉をとおして
   葉みゃくが
   よく見える
   ふしぎだなあ?

 水玉が凸レンズの役割をする、などとの説明は無用だ。自然の「ふしぎ」に出会うことが一番大切なことだろう。僕は「水玉をとおして 葉みゃく」を見たことがあっただろうか。


 話は変わるが、福島第1原発の大事故の収束の目途がたたない。核汚染された水が溜まる一方だ。そこに豪雨が降ったら溢れ出るだろう。溢れ出る前に手を打たねばならない。どうだろう。10万トン級の巨大タンカーを接岸させ、消防自動車の吸水ホースと出水ホースを長くし、汚染水をタンカーに一時的にでも貯留したら、どうだろう。

読む度に恥ずかしくなる本

2015年06月06日 | Weblog

 マルクス・アウレ-リウス『自省録』(神谷美恵子訳)は読む度に恥ずかしくなる本である。
 特に、その初めの方には、例えば「驚かぬこと、臆さぬこと、決してあわてたり、しりごみしたり、とまどうたり、落胆したり、作り笑いせぬこと。また怒ったり、猜疑の心をおこしたりせぬこと」という句がある。
 このような句の意味するところを我がものとし得ないことは言うまでもない。
 常日頃の座右の銘にするのも僭越である。臆したり、あわてたり、しりごみしたり、とまどうたり、落胆したり、そんなことばかりしているのではないかと顧みるばかりである。ただ、僕は作り笑いはしないのではないかと密かに思つている。世の中には作り笑いの得意な人もいる。
 しかし、そんな現状も、訳者の神谷美恵子のライ病患者への献身を思うと、たいした事ではないのではないかという気がする。『自省録』の句と神谷美恵子の生きざまとが重なり、僕に迫り来るが、いかんせん、恥ずかしくなるだけである。

ドジョウ

2015年06月04日 | Weblog

 僕は子供も頃、川でハヨやウグイなどを捕って遊んだが、竹モジを一晩川底に仕掛けておくと、ドジョウがよく捕れた。捕れたからといって、食した訳ではない。食するのはアユ、ウナギぐらいのもので、他の魚は捕って放して遊ぶだけだった。
 ところで、童謡「どんぐりころころ」の歌詞に出てくるドジョウは、水面で空気を飲み込んでは肛門から出すという動作を繰り返しながら、くねくねと動く。見ようによってはかなり変だ。それが「坊ちゃん、いっしょに遊びましょ」と言って池から出て来るというのは、少し異常感覚なのではないかとも思われる。無邪気な童謡の歌詞に、何故ドジョウが、という疑問が湧いてくる。
 だが、この歌ができた頃(大正10年=1921年)には、ドジョウがまだ日本中のいたるところに居て、小川や水田で捕れる貴重なタンパク源、スタミナ源だったに違いない。田圃で子供がドジョウすくいをするのは、日常茶飯の事だったのであろう。そうであったからこそ、身をくねらせ踊り戯れているようなドジョウの愛敬のある顔とドングリの組み合わせも、自然に思えてきたのであろう。
 時代が変わって、今やドジョウの姿を殆ど見ない。生態系が変わった。変わらせたのは人間である。柳川鍋で好んで食べられるドジョウも養殖であろう。自然では捕れないようにしておいて、食べたいからといって、養殖する、人間のしたい放題である。こうして環境が汚染されていったのである。
 今の子供は「どんぐりころころ・・・坊ちゃん、いっしょに遊びましょ」と歌うのであろうか。

病む事

2015年06月02日 | Weblog

 五十三歳の時に大病というのか急病というのか、とにかく一歩間違えば彼岸にいく病を得た。それ以来、投薬を続けている。体調はいたって順調ではあるが、順調であるように思えるだけで、病んでいる事は事実のようだ。
 近頃思うのだが、病は生命のひとつの姿ではないかと。(当然だと言われれば返す言葉がないが。)病む事があるからこそ、生命のバランスを保っているのではないかと。一病息災とはよく言ったものだと。一病であればいいのだが。
 病んだとき、例えば風邪で寝たぐらいのときでも、風の音に耳を傾け、流れる雲を静視する自分に気がつく事があった。
 志賀直哉は交通事故の後養生に城崎温泉へ出かけ、蜂や鼠やイモリの死を見つめる事で死生観を問い直し、『城の崎にて』を書いた。梶井基次郎は肺結核の療養で滞在した伊豆の湯ヶ島で『闇の絵巻』や『交尾』などを書き、自然と生命を凝視する眼を澄ませた。島木健作は修善寺に病身を運び、そこで見た蛙の死に、小さな命に宿る崇高さを感得し、『赤蛙』を書いた。彼は敗戦の翌々日に病死するが、『赤蛙』には、四十二歳という若すぎる最期が未完でなかった事が窺える。
 病んで、場合によっては死ぬ事があっても、自然の本当の姿を垣間見る事が出来る。病む事は生を豊饒にするとも考えられる。僕の場合、問題は、「考えられる」という事だけで思考と感受性が停止するだろうという事である。

死についての言葉拾遺

2015年06月01日 | Weblog

・ あたかもよくすごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく用いられた一生はやすらかな死を与える。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』)

・ 死ぬことは恐ろしくでっかい冒険だろう。(バリー『ピーター・パン』)

・ 生あるものは必ず死す。この世を経て永劫に赴くのは人の世の常というもの。(シェークスピア『ハムレット』)

・ 悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居るという事であった。(正岡子規『病牀六尺』)

・ 死んだ後、人間は神の裁きをうけねばならぬ。この裁きに対する恐怖が当時私に、自殺を拒ませたことがよくあったのです。(遠藤周作『宗教と文学』)

・ 自然の美しいのは、僕の末期の眼に写るからである。(芥川龍之介『或旧友へ送る手記』)

・ 死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ。奈何(いか)ナル官憲威力と雖此二反抗スル事ヲ得ズト信ズ。余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス。(森鴎外)

 ちょっと気になった言葉を順不同で記しました。まだまだあります。人は何故自分の死を気にするのでしょう。人生最後の最大の問題だから、という訳だからでしょうか。最後の、ということは常識的に理解できます。最大の、ということはそう簡単には理解できないでしょう。さて、僕には何も残す言葉がありません、今のところ。 残さず人知れず逝くのもオツなものだとも思っています。

南九州で火山活動が活発化、各地に影響は?

2015年05月30日 | Weblog

(TBS NEWS より)
 活発な火山活動は鹿児島の桜島など、南九州で続いています。ほかの火山への影響はあるのでしょうか。
 島にいるすべての人々に島外への避難指示が出された口永良部島・新岳の噴火。北におよそ130キロ、鹿児島県の桜島でも活発な火山活動が続いていて、噴火回数は、このおよそ半年間、29日までですでに1000回を超えています。その数は、ここ10年間と比べてみても圧倒的な多さ。南九州では火山活動が活発化しています。

(以下、長文で動画もありますのでコメント欄にURLを貼っておきます。)
一応、ここにも。
 http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2504855.html

なんとバカげた日常か!

2015年05月28日 | Weblog

  私は毎日毎日の仕事を
  いまいましく思う。
  なぜなら、いつだって
  バカげているからだ。

とはゲーテの言葉。
毎日毎日の学校生活もつまらない。だって皆な、勝手なことばかりしているんだもの。
でもね、ゲーテは続けて言ってるよ。

  とはいえ、
  出来る限りの努力をし、
  その日常から得たものが、
  いつかは加算されて
  ものをいうことになるだろう。

そうなんだ。よほどの天分に恵まれていない限り、日々の生活は単調で、時にはやりきれないと感じるだろう。
ゲーテのような天才で、陽の当る道を歩いていたように思われる人でさえ、俗物貴族と顔をつき合わせて仕事をしなければならない毎日を送った。
しかし彼は、出来る限りの努力を惜しまず、自分に対して誠実な仕事をし続けた。彼の偉業は、そうした仕事が加算、累乗された結果なのだ。