谷沢健一のニューアマチュアリズム

新ドメインに移行しました。

神様に会う日(続きの続きの続きの続き)

2006-01-10 | YBC始動
 気がつくと、約束の時間も過ぎており、あわててお暇乞いをすることになった。お土産にと、わざわざ予め用意してくださっていた色紙を戴いた。その1枚にはなんと「谷沢野球コミュニティ千葉」と文字が墨痕鮮やかに書かれていた。私は、ただちに「これを機関誌の題字に拝借しよう」と決めた。それでこの日の感激は、これからも日々に新たになるだろう。
 私は、その方の書かれた書籍のうち11冊を持参した。嬉しいことに「あら、これはうちに無い本よ」とお嬢様がおっしゃり、1冊を進呈することになった。それで、長年の無形のご恩にほんの少しお返しができたように思った。
 その方はとくに嬉しそうにおっしゃった。「私が球界を退くときに、多くの球団から監督就任の要請があった。しかし、私の使命は野球の裾野を広げることであり、少年たちと少年野球の指導者たちに基礎の指導を行うことだと考えて、全国をめぐって野球教室を開催して回った。これは、私だけで終わることではなく、一流のプロ選手たちが引き続き行わなければならないことだ。それを谷沢君がやってくれることは、「週刊ベースボール」の打撃分析を君が引き継いでくれたのと同じように(毎週、読んで君の批評にうなずいているよ)、私にはひじょうに嬉しいことだよ。」
 私の胸に言いようもない深い歓喜が走った・・・

神様に会う日(続きの続きの続き)

2006-01-10 | YBC始動
 その方は、満面に柔和な笑みをたたえて迎えてくださった。足を少し痛めておいでだと言うが、あの独特のやや高めの声はあいかわらず張りがあった。その方は私の願いを快諾してくださった。話は当然「聖数」の由来になったが、その話はYBCの機関誌創刊号に載るはずだから割愛する。
 お話は多岐に渡った。しかし、どの話にも衰えぬ野球への情熱がほとばしり、かつまた、「神様」ならではの含蓄の深い言葉が続いたのである。
 私の心は自分でも不思議な状態になっていた。静かな興奮というか、覚めた陶然というか、ひじょうに感動しながらもその一語一語が鋭く胸に刻み込まれて、まさに知と情とが混然とした時間の中にいた。

神様に会う日(続きの続き)

2006-01-10 | YBC始動
 たしかに41番も悪くはない。私の現役時代を象徴する番号であり、うぬぼれて言えば「背番号41といえば谷沢」という程度にはファンに知られているつもりである。
 しかし、選手時代は選手時代。今、始動したYBCはまったく新しい発想で組織化しようとしている。それは私の野球の原点ー野球に興じていた少年時代の心ーにたちかえって発想したものである。
 とすれば、その少年時の心がもっとも憧れた背番号、それをつけるのがYBCフェニーズの監督の責務であると考えたのである。
 しかし、それを我が背番号として勝手に拝借するのは、その方に対して失礼だと思った。私にとってはまさに「聖数」、ほんとうに神聖な番号だからである。
 そこで、それを拝借するご挨拶に伺おうと心を決めてお願いしたところ、「会おう」というご返事を得たのである。

神様に会う日(続き)

2006-01-10 | YBC始動
 22日はYBCフェニーズのユニフォームの発表が行われる。そのとき公開されるユニフォームにつけられる背番号は監督(つまり私)の背番号である。
 ほとんどのスタッフは「監督は41番をつけるのですよね」と、まるで決まっているかのように言っていた。「う~ぬ、君らはまだまだ我が心中をわかっていない・・・」と内心で思いながら、私はひそかにある番号しかないと決めていた。
 私に発想法についてもっともよく理解しているはずの加藤準備本部長でさえも、「監督の背番号は、無からの出発という意味で0なんかは、悪くないですね」と言っていたくらいだから、私は「よし、みんなの期待を大きく裏切るのだから、ぎりぎりまで秘密にしておこう」と考えたのである。

神様に会う日

2006-01-10 | YBC始動
 今朝はいつも以上に胸をわくわくさせて早く目覚めた。早大の体育実技の授業を再開する日だったこともあるが、その何倍もの別の理由があった。実は、ある方のお宅を訪問する約束の日なのである。その方は、私の小学生の時からの憧れの人だった。ある意味では、その方に近づきたいという一心で精進してきたとさえ言える。
 長い間、近くにおいでであったが、それ以上に親しくお話を伺うことさえしなかったのは、やはり強く畏敬の念を抱いていたからで、「神様」にはこちらからは声をかけるということはできなかったからである。
 それなのに今回、敢えてお訪ねした理由は22日の発会式で明らかにするつもりでいる。