谷沢健一のニューアマチュアリズム

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日本選手権県予選ーJR千葉に勝利(その2)

2007-09-25 | YBC前進
 満塁打のきっかけを作った森君も、木更津から通い続けてきた。彼は寡黙なほうだから、夜から朝方まで仕事が入っていることなど、こちらは知らずに先発に起用していたが、どうも動きがかなり鈍い時がある。ミスすると、チーム内からも野次られ、それを黙殺し続けていても、鬱積したモヤモヤは爆発して取っ組み合いの喧嘩になる。1度は練習時に、2度目は試合中に起きた。私は叱りはしなかった。彼の内面をすこしはわかっていたからである。
 野球一筋できた選手は、自己表現の下手な者が多い。だから、謝罪にくれば、じっくり話を聞いてやる。原則として、こちらから呼びつけない。自分に過ちがあると思えば、必ず謝りに来るはずだからだ。昨年、大きな過失を犯した選手を呼んで叱責したら、呼びもしないチームメートがついてきて、言葉では謝罪しても内心では逆に反発していた。代わって、チームメートが弁解ばかりしていた。
 クラブチームは、じつに選手同士の関係がややこしい。その点ではプロ野球以上だ。メンバーの目的も技量も生活環境もまちまちである。レギュラークラスの選手たちは望みが高い。もっとも、だからこそYBCに集まってきたとも言える。自分の技量向上のためには、他を省みないなことが少なくない。それはそれでかまわないのだが、チーム全体に大きな悪影響を及ぼすことになる場合は、監督としてまた部長として黙認しておけなくなる。そのため、チームを去ることになるのが、残念なことだが珍しい話ではない。
 森君をはじめ、レギュラーの大半は、プロ野球の世界やプロに準ずる(と信じられている)独立リーグの世界を目指している。そのために、他の同世代の若者と違って、安定した就職など歯牙にもかけない。貧しい生活が苦にならない。金よりも自己の向上を求める若者たちである。
 そういう高い目標を胸に描いて羽ばたいて行って欲しいが、フェニー(不死鳥の雛)はチキン(鶏もしくは臆病者)でないのだから、後足で砂をかけるような所業は謹んで欲しいといつも思っている。YBCはレギュラークラスの選手のためだけにあるのではない。自分の野球観を人に語るのはいいが、押しつけるのは危うい。常に心しておきたいことだ。
 平池君もふだん私からこっぴどく怒られてる口だ。はじめは彼はうつむいていた。それが悔しさを表に出してぶつけてくるタイプに変わってきた。試合で何度も打ち込まれ走られていくうちに、練習の回数も増えていった。何よりも表情が明るくなったきた。その心の変わりようが、この試合での終盤の好投に結びついたのではないかと思う。彼は久々に勝利投手になった。
 さて、翌日の準決勝のJFE東日本は力量差が歴然とした結果になったが、大敗後の選手たちの顔を見ていると、生き方においても打たれ強い選手が増えてきたように思われた。YBC2年目の大収穫であった。

日本選手権県予選ーJR千葉に勝利(その1)

2007-09-25 | YBC前進
 YBCにとって本年度締めくくりの公式戦を迎えた。初戦はJR千葉戦である。今年、企業チーム登録をした格上のチームである。ゲーム内容はホームページに掲載済みなので多くは触れないが、投手力をはじめ、攻守走のどれもがまだまだ弱い中で、全員がよく頑張ってくれたと思う。スポーツ界には「練習はうそをつかない」という言葉があるが、まさにそれが証明された試合だった。
 DHで先発した松村君は、不定期な勤務時間の隙を縫って、グランドに来るやただちにランニングでたっぷり汗を流している。その真摯な姿勢をスタッフも選手も知っている。2点差を追う8回表、無死1,2塁になったとき、川村君にあえてバントを指示した。期待通り、きっちり3塁前に転がしてくれた。1死2.3塁。最悪でも次打者の松村君が犠飛を打ち上げてくれるはずだ。ともすれば速球に振り遅れがちな彼は、早めのタイミングで1振りし、左翼へ飛球を打ち上げた。そして、次の瞬間、野手が落球していた。上空で強く渦巻いていた風をうまく味方に付けたのだ。戦争映画でいえば、指揮官の読みを熟練した下士官が以心伝心で感じ取った場面である。
 リードしていた4回裏に一気に5点取られて意気消沈の5回表、すぐに森、元野、瀬尾の諸君が連続安打してお膳立てを整え、3番の渡辺君が同点の満塁本塁打をかっ飛ばした。彼には私は厳しいことばかりを言ってきた。守備の要である遊撃と二塁という2つのポジションを往ったり来たりさせたが、日に日に成長を遂げていった。その締めくくりが、このホームランだった。いつも球場に応援の足を運んでいるご両親の喜びの声がベンチにいた私の耳に聞こえたような気がした。

谷繁捕手のミット(その2)

2007-08-27 | YBC前進
 普段は谷繁君を「しげ」と呼ぶことが多い。「しげ!頼みがあるんだ。使い古しでいいから、うちのチームにミットをプレゼントしてくれないか」我ながら図々しい頼みである。
 ところが、谷繁君はすぐにスクッと立って「いいですよ。ちょっと待ってください」と言うなり、ロッカールームへ走っていった。数分後に、「どうぞ!使ってください」
 差し出されたミットは、少し小ぶりでたっぷりとオイルが浸み込んでいて光沢豊かな、手入れの行き届いた絶品であった。ほんとうに驚いた。まさか今使用しているものを!
 捕手というポジションの門外漢の私でさえも小躍りしたくなるような瞬間だった。何よりも嬉しかったのは、練習中であったにもかかわらず、すぐにロッカーに走ってくれた谷繁選手の誠意と、私のYBC活動に最大限の敬意を払ってくれたことと、クラブチームの選手の心理をすぐさま察知してくれたことだった。
 翌日の国際武道大との試合前に、「Shige」とイニシァルの入ったミットを川村君に手渡した。一瞬、言葉がなかったが、すぐに「有難うございます!!」と満面に笑みが広がった。加藤副部長が「その谷繁ミットはチームに所有権があるが、川村!お前に独占使用権を与える」とわざと小難しい言葉で言い、「もちろん、丁寧に手入れして管理するんだぞ」と付け加えた。
 普段よりも数千デシベルも大きな声で「ハイ!」と答えて、ミットを手にシートノックに飛び出していった。試合には敗れたが、ミットの捕球音だけは相手よりも数段上回っていたことを、谷繁選手に報告したいと思う。
 帰り際、瀬尾君が「監督さん、井端さんのバットが見たいんですけど・・・プロって、どんなバットを使っているか・・・」どうも遠回しの「おねだり」のように聞こえた。久保田コーチがいわく「谷沢監督がプロ選手からモノを戴いたら、中継の解説でもその選手に気を使うことになるかもしれないって、うちの選手はわかりますかねえ」。
 それが聞こえたのか、頭を掻きながら帰りの車に乗り込んでいった瀬尾君の気持ちもよく分かる。もう何年も前から、私は「けなす解説」は必要最小限にしているし、谷繁君ほどのレベルになれば、我々解説者が指摘しなくても、自らのプレーの良きも悪しきも十二分に知っているのだから、殊更に言うこともない。私の解説は、選手のプレーのすばらしさと野球というスポーツの難しさを、球場に来られないファンに伝えるのが力点になっている。ただ、時には苦言を呈するので、八方美人にはなれないのだが。

谷繁捕手のミット(その1)

2007-08-27 | YBC前進
 8月10日、この日は東海ラジオの中日巨人戦の中継解説のため、ナゴヤドームに早めに到着した。午後3時前と言うと相手チームのアップも始まっていないので、打撃練習の打球音が耳に響いてくる。打撃順の最後になるとウッズ、井上両選手の白球が鮮明な弧を描いて外野スタンドの椅子を直撃する。注目の一戦のせいか、打球音の谺(こだま)には反響の空しさも皆無で、ただただ力強さが耳を打つ。
 暫く練習を見ていたが、ティー打撃を終えた谷繁捕手がやって来て、打順を待つべく腰を下ろした。と、私の嚢中に電球がパッと点いた。私の足は谷繁君のもとへ向かっていた。
 昨年、小田捕手からYBCに望外のプレゼントがあった。ミットの寄贈である。プロが使用している用具はアマチュア選手にとっては、高嶺の花である。「プロはどんなグラブを使っているんだろう」と我が雛鳥たちが話しているのが聞こえることもあった。当時のYBCは、正捕手(今は北信越リーグで活躍している)の故障などで、捕手難だった。それで、他ポジションからコンバートを繰り返していた。タイミングのよい贈り物だった。私の期待通り、小田ミットは捕手難解消のカンフル剤になり、公式戦の初勝利に結びついた。
 そのミットも捕手たちが頻繁に使い続けたことで、最近はキャッチングの際の「バシッ」という良い音も鈍くなり、投手陣の懸命の投球までもが弱々しく感じられるようになっていた。
 2年目を迎えたYBCは、甲子園組の川村雄次君(広島商-帝京大)の加入で、捕手陣も引き締まりつつあり、藏重投手コーチからも「プロ仕様レベルの良いミットを、川村に使わせてやりたいですね」と言われもしていた。選手や若いスタッフたちは、差し入れなら飲料水1杯でも「さもしい」くらいに喜びを表し、争奪戦を繰り広げることさえある。しかし、藏重コーチは、およそ物欲しがる言動はいっさい見せることはない。だから、その一言は心に深く残った。
 しかし、チームが一選手の用具を無料で用意するわけには行かない。不公平になるからだ。

6月は大学との交流戦(その4)

2007-06-21 | YBC前進
 17日の城西国際大の水田球場(学園創立者・故水田三喜男氏に由来する)はJR外房線大網駅で下車し、車で10分程だった。
既に到着していた加藤副部長、久保田コーチが、今春から就任した佐藤清君とクラブハウスで談笑していた。
 じつはYBC創設の際に、佐藤君に助監督就任を依頼し、いったんは快諾を得たが、諸事情から実現しなかった。早大監督時代は、全国の高校を巡って、藤井、鎌田(いずれも現ヤクルト)、江尻(現日ハム)といった球児の心に「野球をやるなら早稲田」という思いを芽生えさせ、十二分にメンバーを整えたところで、野村氏に後任を委ねて潔く去った出処進退は見事だった。
 私はプロ経験者だし、まだ客員教授でもなかったから、関わることが禁じられていたため、可能なギリギリのところで援助するしかなかったが、その時に佐藤監督の作り上げたシステムをサポートした面々が山本氏や加藤氏であり、ともに参与、副理事長として今YBCを支えてくれている。
 山本参与は中学からの早稲田マンであり、「山本の頭を割れば脳みそが臙脂色しているだろう」とからかわれるほど、早稲田一色の言動の男だが、加藤副理事長(フェニーズ副部長)はもともと早稲田とはまったく関わりがないのに、小宮山君(現ロッテ)をはじめ、随分と早稲田野球部の面倒を人知れず見てくれていた。YBCの誕生はその時に運命づけられていたのかも知れない。
 その佐藤監督が就任したのだから、城西国際大は強くなるに決まっている。今年初めに就任内定という電話を貰ったときには、私もたいそう嬉しかった。JOSAI Internationalのユニフォーム姿に身を包み、満面の笑みを浮かべて迎えてくれた佐藤氏は、すぐに道方康友氏(JFE勤務)を紹介してくれた。マックスと異名を取った打撃王の佐藤監督の片腕として投手陣を指導する頼もしいコーチである。
 公式戦以外に、関西方面にも遠征して、城西国際大の名を広めていくとか、様々なプランを語る佐藤監督の目は、実に澄んでいて、アマチュア野球人の典型的な姿を見ている思いだった。試合は一勝一敗の五分に終わったが、来年ははたしてどうなるか、こちらも大いに腕を磨いて次回も対等に戦いたいと、ひそかに思わされたのだった。

6月は大学との交流戦(その3)

2007-06-21 | YBC前進
 10日の山梨遠征は、入手したばかりの荷物車もフル稼働だった。これまでは木藤、大野君らが自分の車で運搬してくれていた。そういう寄与はYBCの基本精神であるとはいえ、大いにその労に感謝したい。
 山梨学院大の米田俊次監督は2年後輩である。昨秋、遠征の話が出た時「じきに全面人工芝の球場が完成しますから、その時に是非」ということだった。米田氏は小兵だが報徳学園で、甲子園に春夏合わせて4回出場。同じ年に春夏連続でホームランを打った高校球児第一号である。早大時代も3年まで外野手として鳴らし、肩の強さを買われて4年時は投手としても起用された。阪神・オリックスの監督をつとめた中村勝広氏の同期である。卒業後は、伊勢丹に勤務しながら、少年野球を指導していた。シンガポール伊勢丹時代には、積極的に野球を広め、それから山学大の監督に就任した。
 JR石和(いさわ)温泉から車で5分走ると球場に着いた。陸上競技場(駅伝の強さはいうまでもない)と隣接し、ナイター設備も整った素晴らしい施設である。試合は4対5のサヨナラ負けだった(森君が「僕がもっと落ち着いて2度もミスをしなければ…」と悄気(しょげ)ていた)が、学生らしいきびきびとしたプレーには、米田君の魂のこもった指導が十二分に浸透していた。試合途中から晴れ間も見えてきて、外野後方には雲海に浮かぶ山並み、バックネット後方には南アルプスが雄大に聳え、そのパノラマは壮観であった。この環境で育成醸成される山梨学院大は、じきに大学野球界を席巻するだろう。

6月は大学との交流戦(その2)

2007-06-21 | YBC前進
 さて、なんとか空いている日曜の夜間使用で、球場は確保したが、肝心の相手が見つからない。クラブチームは大会予選の最中で、おいそれと日曜の夜に習志野までやってきてくれそうにない。
 そこで頭に閃いたのは大学チームである。どこも春のリーグ戦が終了したばかりだから、スケジュールに余裕があるかも知れない。すぐに、いくつかの大学の監督に連絡を取った。こういう場合はやはり先輩風を吹かして無理を通すしかない。というわけで、大学の後輩たちに白羽の矢を立てた。
 6月3日は、弱体だった早大を監督として改革して4連覇の礎を築いた佐藤清氏の誼で、昨年からこちらのわがままをきいてくれる流通経済大。10日は、海外への野球普及にも実績のある米田俊次氏の山梨学院大。17日は、佐藤氏が今春から監督就任した城西国際大。24日は、授業での教え子が主務の東京大というふうに、4チームと対戦することになった。

6月は大学との交流戦(その1)

2007-06-21 | YBC前進
 現在、各地で都市対抗二次予選が真っ盛りで、部の存続を賭けて全国大会出場権の獲得に必死の企業チームさえある。クラブチームは、企業チームに挑んではいるが、ほとんどの場合、あっさりと蹴散らされている。一昨年、本大会に出場したNOMOクラブは非常に希な例で、そんなにうまくは事が運ばない。
 社会人野球の公式戦は、11月開催の日本選手権まで予定されている。だが、企業チームとちがって、クラブチームの大半は公式戦のゲーム数も少なく、予選での敗退とともに目標を失う。YBCも都市対抗予選で敗れたが、9月のクラブ選手権出場への道は絶たれていない。
 YBCは創部2年目のチームだけに、勝ち上がっていくにつれ、何事にも経験不足が露出する。それはただの練習だけではどうしても補えない。やむなく、大胆というか図々しくと言うか、無茶な行動にでることを厭(いと)っていられなくなる。
 例えば、練習試合の回数を増やすために、当初、6月の日曜日は全て習志野市秋津球場でのナイトゲームを予定していた。ナイター照明代は高く、しかも習志野市民料金でなく、外部者使用料金だから、懐が痛む。YBCのCP(つまりメンバー)には柏市民が10名以上いるが、習志野市民は1名である。「全員、柏から習志野に引っ越して、住民税を習志野市に払おうか」と、なかば真剣にいう者もいるが、すぐには無理である。
 申込に行ったスタッフの話だと、外部者(習志野市民以外)だとわかると、球場管理の窓口の人物の対応が、やたら冷ややかだという。地方出身のあるスタッフの言だと、「上京以来、東京、神奈川、埼玉、千葉と、多くの関東の人たちと接してきたが、どう考えても千葉県の人がもっとも不親切だ」そうだ。私が千葉で生を享(う)けたことを知っているのに、わざわざ言うのだから、よほど腹に据えかねることが幾度かあったのだろう。うーん、残念としか言えない。
 そういえば、私を除くYBCの理事ら幹部連(みな若い選手やスタッフから尊敬されている)の生国は、千葉、東京、北海道、静岡、佐賀である。しかし、幸いにも、柏生まれで柏在住の松田理事が立派な人格を示してくれているから、「千葉人=不親切者」論を否定できるのでありがたい。

南関東大会へ進出(その4)

2007-05-22 | YBC前進
 番外編ふうにもう一人挙げるとすれば、浜松大から入った久保田雅夫君である。練習不足で今大会では不振も予想できたが、あえて2試合ともクリーンナップに起用した。
 今春、浜松在住の知人からの紹介で入団してきたが、就職したのが都内の鉄鋼関係会社の営業職だった。車の免許取得や社内研修におわれて練習不足はあきらかだった。体格は超優良児なので私のつけた呼称が「ジャンボ」。このジャンボの打撃センスには光るものがあり、時たま出場できた練習試合に中心を打たせた。
 4月半ばにスタッフから、彼は「20日は友人の結婚式に出席するので公式戦でも出場できない」と聞いた。私は出場の強要をしなかった。だが、久保田コーチが同姓の気安さもあってか、「優先順位はどちらが高いんだ。我々は1年間かけてこの大会のために労苦を共にしている。おまえにもチームの攻撃の柱の一人として、みんなが大きな期待をしている。草野球じゃないんだ!」と強く叱咤(しった)してくれた。私のみならず、選手たちの意を汲んでくれたのだろう。
 19日の惨敗後、元野主将から報告があった、「久保田が、『野球に取り組む姿勢が甘かったです。今日のゲームを経験して痛感しました。明日の結婚式はでません』と言ってきました」と。これで友人を無くすかもしれないなー、と私は思った。YBCのスタッフの中には、家族サービスの犠牲や仕事、友人を第二番目と考えがち者もいる。それを良いこととして肯定するわけではないが、その思いはチームにとって貴重なことだ。「たかが野球されど野球」というフレーズは、野球に没頭し肉体と精神がその時間に凝縮されたその時の思いを表現している。それは野球に真摯(しんし)に関わる者の人生の縮図を端的に言いきっている言葉でもある。我が「無敗而有敗」にもそういう意味を込めている。
 成長した者。公式の舞台で緊張して普段の力が不発に終わった者。野球の基本を再度点検する者。裏方を黙々と務めてくれた者。創設2年目での南関東大会への進出を素直に喜びたいが、サウザンリーフ市原に力が及ばなかったことは我々の未熟さの程度が知れる。YBCにとって千葉県クラブチーム1位のサウザンリーフは打倒目標でない。その先の先に目を向けている。
 幸い、千葉県のクラブチームの大半は、グランドではもちろんだが、ベンチにいる時もさわやかである。必要以上に汚い野次はほとんど聞かれない。これは各チームの指導者の人柄だろう。ただ意外なことに、プロ出身の選手やコーチがいるチームの方が、その辺のマナーが良くないのは残念なことだ。私も元プロの一人として、他山の石としなければならない。

南関東大会へ進出(その3)

2007-05-22 | YBC前進
 成長度NO2は、川村捕手である。名門広島商業時代は正捕手として甲子園に出場し、ベスト4になったほどの逸材だが、帝京大に進んでからは肩を痛めたままの4年間だった。捕手という要の位置に座る選手にはグランド中に響き渡るような発声が必要だが、声量も回数もまだまだ不十分で、控えめな好青年の性格がかえって災いしているきらいがある。
 どのチームの捕手もそうであるように、投手の分まで私に叱られ通しで気の毒だったが、大会直前の2週間あまり、手を傷めて欠場せざるをえなかった。当然、本人は内心でイライラしていただろうが、それを表に現さないので、「川村は休んでいる間、監督から叱られないのでホッとしているんだろう」と選手たちからからかわれていたという。
 しかし、急造捕手・元野キャプテンの評価が悪くなかった、それも刺激になったのか、千葉熱血戦では見違えるようなリードを見せた。また、試合序盤の劣勢をピックオフプレーでピンチを救ってくれもした。これは、毎日新聞には「千葉熱血は……序盤の拙攻が最後まで響いた」と書かれていたが、千葉熱血の拙攻というよりも川村君らの堅守が原因である。
 9回、木藤投手を投入した場面でも、サインに首を振る木藤君に「川村のリードに任せろ!」とベンチから叫んだくらいである。捕手は常に打席の打者だけでなく相手ベンチ・味方ベンチ、守備の8人、走者、次打席サークルの打者などを目で見続けるだけでなく、試合の流れ、作戦の予測を冷静に嚢中(のうちゅう)においておかなければならない。それが少しずつ向上してきているので、今後の成長が大いに楽しみだ。

南関東大会へ進出(その2)

2007-05-22 | YBC前進
 投手では金沢君の成長を一番に挙げたい。今回、2勝をもぎ取った原動力であった。彼をYBCの一員に導いたのが小田君で、二人とも慶應義塾大野球部に入部したが続かなかった。両君ともYBCでは投手兼野手として、「緊急コンバート」に振り回された選手たちである。
 金沢君の体躯は野茂投手ばりで、球質もずしりと重く、ストレートにも力がある。ところがまだまだ制球力が低い。当然、野手をやらしても送球が不十分であった。体が強く脚力があるという長所の上に、練習も休まない努力家で性格も素直である。私には叱られてばかりいたが、蔵重コーチが体調も回復し、今年は足繁くグランドに通って、フォームの矯正を丹念に指導してくれている。その成果が目に見えて表れているのである。
 慶大野球部では花が咲かなかったが、かつて小泉塾長が「練習は不可能を可能にする」と自伝でおっしゃっていたことを想い出す。課題の一つは、完投できるスタミナをつけることだ。もっと走り込めば、球速もさらに増してくることは、本人も自覚しているはずである。

南関東大会へ進出(その1)

2007-05-22 | YBC前進
 5月18日から三日間、「第78回都市対抗野球千葉県大会兼第32回全日本クラブ選手権千葉県大会」が実施された。昨年は一回戦でサウザンリーフ市原と対戦、あえなく蹴散らされた。その苦い思い出から1年間、YBCは紆余曲折を経験しながら生まれ変わった。ブログを遡って読むと悔しさのどん底から新生へと向かっていった当時が懐かしく思えてくる。
 かといって充実したチーム力が備わっているかというと不安だらけである。YBCの理念(野球指導の経験者の方々から例外なく、理想的すぎると忠告をいただいている)を堅持しつつ育成していくことは、まるで道なき登山のようで、あるべき姿とはまだまだ遠い。一歩登ったかと思うと三歩も四歩も滑りおりてしまい、また別のルートを探求しなければならない。比喩表現でしか言えないが、様々な感情を味わってきた。
 しかし、選手と若いスタッフはかわいい。語弊を恐れず言えば、親愛を越える愛情が私の内にある。それが、そのときどきに、怒ったり叱ったり愚痴ったりといった私の行動に表れてしまう。今年は特に、私の行動は我ながら激しい。
 YBCのための行動には既成概念をチェンジするパワーが含有されているはずだ。加藤副部長も「監督が良しと判断されたときは突っ走ってください」と支援してくれる。とは言え、ブレーキとアクセルの使い分けという行動良識は弁えているつもりだ。クラブチーム座談会、湘南との対戦、四国遠征、ミニ合宿、群馬遠征など、副部長のアイデアも採り入れてYBC2年目に挑んでいる。練習試合も、クラブチームの中ではかなり多いだろうと自負している。
 さて、南関東大会への進出を決めたのだから、肝心の成果と反省を報告することにしよう。

群馬遠征(その2)

2007-05-08 | YBC前進
 グランドに到着すると、既にオール高崎対新潟コンマーシャルの試合が行われていた。
 センター後方の山並みは北関東の平野を支えているように目に映った。三木氏がやや沈んだ声で言う「谷沢さん、あの方向が御巣鷹山ですよ。私の高校時代でした。このグランドにヘリの基地もできましてね。遺体の運搬もこの目で見ました」すごい惨状だったそうだ。22年前のJAL123便の墜落事故である。犠牲者520人のうち、五体揃っていた遺体は約200人にすぎなかったというのだから・・・私は自然と手を合わせずにはおれなかった。(YBCにもJALの関係者は複数いる)
 オール高崎野球倶楽部の前身は企業チーム(高崎鉄道管理局)で、当時はグランドも完備されていたそうだ。しかし、今はそれにはほど遠いという。それでも、廃校になった藤岡高校(三木副部長の母校)の教室棟は寂静としていたが、グランドにはチームの熱い思いが随所に込められていた。やはりホームグランドである。
 例えば、ネット裏には葦簀(よしず)屋根で日除けをした観客席や(試合途中に突風で葦簀がめくり上がったりしたが)藤岡寮と呼べそうな合宿可能な施設も活用されていた。グランド施設が県から市へ移管された時に、オール高崎チームの優先使用が認められ、管理も任されているようだ。(行政当局の理解度と実行力の高さが羨ましい)
 宿泊は三木氏が車で先導してくれて、30分程行った「甘楽町ふるさと館」の国民宿舎(東京都北区との提携施設)。森の中にテニスコートやゴルフ場や軟式野球場が広がり、ツツジの花壇や新緑が疲れを癒してくれた。フロントの方々にも懇切に対応していただいた(私は3日の試合後に藤岡から東京お台場に行き、TVの仕事を終えて、深夜2時に再び宿舎に戻ったのだが、特別のご好意で鍵を開けていただいたのである)。
 試合は1勝1敗だった。まだまだ未熟さが露呈されているが、昨年以上に多く実施してきた遠征や試合によって、今月18日から始まる公式戦へ向けて、選手たちに一体感と団結力が培われてきたのが感じられた。

群馬遠征(その1)

2007-05-08 | YBC前進
 ゴールデンウイークの5月3日と4日、群馬藤岡に遠征した。
 4月上旬にオール高崎の三木(みつぎ)副部長に打診したところ、2試合を組んでいただけた。わざわざ新潟コンマーシャルを招いてくださったのは嬉しかった。
 遠征の細かい作業は、上村コーチ兼主務に任せた。そのつど報告があったが、三木氏との計画立案はスムーズに行われた。最大の難問は約30名のスタッフ・選手の交通手段である。なにしろ連休中なので、バスによる移動は大渋滞に巻き込まれないかという懸念があった。
 この杞憂はすぐに解決した。それは私が遠征を思いついた時に、すぐに加藤副部長がカミ村(YBCには「上村」がウエ村とカミ村がいる。で、このブログでは申し訳ないがコーチは上村、選手はカミ村と書き分けている)選手に連絡して、「2日間、YBCのために奉仕できないか」と依頼していた。
 カミ村君はYBC創設パーティの際、「背番号決定戦」で53番をGETできなかった。赤星選手のファンだったが、川崎選手(ソフトバンク)の52番でガマンすることになった経緯もある。俊足の選手である。彼は、長距離トラックのドライバーで、10年以上の運転歴を誇っている。全国を駆け巡る長時間勤務の合間を縫って、走力を維持している。
 そのカミ村君が大活躍してくれた。試合に代走で出場しただけでなく、小型バスと荷物車を格安で確保してくれた。勿論、往復の運転も務めてくれた。柏駅前をスタートして、高速道路を避け、いわゆる下道(したみち=一般道)だけを走破して、悠々と予定時間よりも早く群馬県藤岡市に到着してしまった。これには、ハンドル捌(さば)きに自信のあるマイカー族の選手の面々も驚嘆の声をあげていた。

四国遠征と石毛氏辞任(その3)

2007-03-16 | YBC前進
 夜9時半にミーティングの予定だったので、鍵山・西田氏らとは夜明けまで飲み明かしたかったが、鳴門へ急いだ。宿舎へ着くと上村コーチが玄関口で待っていた。川島理事兼コーチ(できたてのユニフォームは89番)もいて「選手だけで先にミーティングを開いている」と言う。選手たちは胸にどんなショックを抱えているだろうか?
 ミーティングの最初に、私は「何がわかっていなかったのか」を強い口調で述べた。ゲームを初回から辿りながら、先発した木藤君の配球の悪さを指摘した。捕手・川村君の状況を把握できていないプレー、内外野中継プレーのミス、渡辺君のゲーム感の欠如と失策後の萎縮、投手陣の練習不足と過信などなど、反省点は多過ぎた。投手陣の建て直しが最大の急務である。
 明け方まで雨が降っていたが、翌朝は晴れ間ものぞいてきて「徳島インディゴソックス」戦は実施できた。しかし、淡路島の方から吹き上げてくる風はやけに冷たかった。徳島ISの監督は、地元鳴門工出身で元広島投手の白石静生氏である。赤ヘル絶頂期(1975年頃)に貴重な左腕リリーバーとして活躍した。その白石氏が今年から徳島の采配を執る。
 白石先輩に挨拶に伺うと真っ黒に日焼けした血色のよい顔で微笑みながら迎えてくれた。少年野球も指導しているらしく、子供たちの成績が気になる話をなさっているところであった。
 白石監督「私なんかを引っ張り出してねー。営業からなんでもさせるんだから(微笑)。それをしないと成り立たんでね。徳島の選手たちは特定の練習場もなくて、四国のチームの中でも一番苦労していたかな。今年になってやっと目途が立ったよ」。
 この試合も大敗であったが、香川の選手と同様に徳島の選手たちのハングリーな面(一途に打ち込んでいて遊び半分でない面)が伝わってきて、私は逆に嬉しかった。なぜなら、それがYBCの選手に何かを伝えると思うからである。
 つくづく思う、四国ILとクラブチームは抱える問題点に共通するところが多々あり、無責任に面白がったり説教をたれる野次馬たちに耳を貸さずに、協力・協働する人たちとともに一歩一歩実践し、夢を自らの手で実現するしかないのだ、と。