原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

春の小川

2012年04月27日 07時59分21秒 | 自然/動植物

 小学唱歌として知られる春の小川。日本人なら誰でも知っている歌である。1912年に尋常小学校唱歌となった。すでに百年経過している。当初は作者の名前が公表されていなかった(理由は不明)。この歌の作詞は高野辰之、作曲が岡野貞一。このコンビはすごい。「故郷」「朧月夜」「春が来た」「紅葉」の名曲は、二人が生み出したものだ。国文学者であった高野博士は芸能の史的研究の先駆者でもあった。先人の偉大さをつくづくと感じる。一方、春の小川の歌詞が戦前戦後を通じて二度も変更されているのを聞いてびっくり。高野博士はいま、どう思っているのだろうか?

 

オリジナルの春の小川の歌詞は以下のようであった。

(一)春の小川はさらさら流る

   岸のすみれやれんげの花に

   にほひめでたく、色うつくしく

   咲けよ咲けよと、ささやく如く

(二)春の小川はさらさら流る

   蝦やめだかや小鮒の群れに

   今日も一日ひなたに出でて

   遊べ遊べと、ささやく如く

(三)春の小川はさらさら流る

   歌の上手よ、いとしき子ども

   聲をそろえて小川の歌を

   うたへうたへと、ささやく如く

 

これが1942年に次のように変わっている

(一)春の小川は、さらさら行くよ

   岸のすみれや、れんげの花に

   すがたやさしく、色うつくしく

   咲いてゐるねと、ささやきながら

(二)春の小川は、さらさら行くよ

   えびやめだかや 小ぶなのむれに

   今日も一日ひなたでおよぎ、

   遊べ遊べと、ささやきながら

 

「流る」が「行くよ」、となっていた。どうやら三番はこの時から消えたらしい。しかし、この歌詞も1947年に変更されていた。旧仮名文字の問題だったらしい。一番の「咲いてゐるねと」が「咲けよ咲けよと」となっている。私の記憶に残る詞は当然はこちらであった。時代とともに言葉は変わる。まして文語調から口語調に変化した時は多少の混乱があったと思う。変更時はすでに著作権は消滅していたとか。この変更はやむを得なかったとも言えるだろう。小学唱歌にも時代の変化を感じる。

 

ところがである。先日の北海道新聞の「卓上四季」に載った記事をみて、苦笑、いや蔑笑せざるを得なかった。誰が書いているのかは知らないが、道新という新聞社のレベルに疑問を感じざるを得ない。なにか先人を侮辱しているようにさえ感じた。記事ではこうあった。

「北国における春の小川は、さらさらとは流れない。雪解け水を含んで、どうどうと流れる」。さらにどこぞの学芸員の名前を出して、「冷水は氷に近いため、粘り気が強い。だから春の小川はねばねば行くよ、が正しい」と、のたまわっていた。噴飯ものの解釈である。

(道東の春は遅い。岸辺にはまだ野草はなく、雪が溶けたばかりの様子)

偉大なる先人の詞の意味がまったく分かっていない。さらさら流る(行くよ)は、最後のささやく如く(ささやきながら)にかかる言葉である。つまり水の音を「声」として表現した詞なのである。にもかかわらず、この記事は。「さらさら」を水質のさらさらと勘違いしている。血がさらさらすると同じとらえ方なのである。この人は春の小川を実際に見て音を聞いたことがあるのだろうか。山奥でなくても小川の音というのは心地よく響いてくる。耳をすますとその音は何かをしゃべっている囁き声に聞こえる。これは北国も南国も変わりはない。雪が消え、緑の野に変わり、花が咲き始める春の様子や心躍る情景を水の声にたとえて、「さらさら流る」と表現しているのである。こんな初歩的な間違いをするとは、読解力の問題なのか。小川をみて水の質をイメージする人などいない。この人はただ「さらさら」の言葉にとらわれだけの読みの浅い人となる。

反論する人は、こう言うだろう。さらさらが水の音かと。ザブーンが波の音で、コケコッコーが鶏の声だと分かるのは日本人だけ。外国人はまったく違う表現をする。つまり、聞く人の感性で表現する言葉や文字となることは自然で不思議でもなんでもない。実際に小川の音を聞いたことがある人なら十分納得できるはず。小川の音を聞いていると、人の話し声のように聞こえる。耳を澄ますと「さらさら」と聞こえる。これが事実なのである。

 

くだんの新聞記事をみて、「春の小川はさらさら流れない」などと馬鹿な講釈をする学校の先生が現れないことを、ただ祈る。もっとも、学校の先生もかなり劣化しているから、何とも言えないな。

「埴生の宿」や「土手のスカンポ、じゃわさらさ」の意味を正確に解説できる先生が、今どれくらいいるのだろうか。尤もこの私も同類で、かなり後になってその意味を知ったのだからあまり自慢できる話ではない。だが、意味不明なことに対する疑問は当初からあった。そんなことを知らなくても、生きていけると言う人もいるだろう。たしかにそうであるが、無知はさらなる無知な行動を生む。例えば、原発の風評被害がいい例ではないか。福島から来たと言うだけで放射能を疑う無知。内部被ばくの誇大情報に右往左往する、などなど。無知の連鎖が呼びこむ無駄は多い。同時に、メディア・レテラシーが叫ばれる理由も、もう少し考えなければいけない。新聞記事はすべて正しいわけではない。新聞が言っていたよ、という文言が、いまや一番危ない!


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6 コメント

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春のイメージ・・・ (numapy)
2012-04-27 11:25:05
記憶違いでなければ確か、小学校一年の教科書の第1ページは、春の小川だったと思います。東京の下町でもそうだった、と友人は言いました。
で、その後、酔席で「春のイメージごっこ」をやったところ、80%以上が『牧場の中をネ、小川がサラサラ(チョロチョロ、もあった)流れていて、菜の花が咲いて、柵の向こうで牛がモォ~と啼いてる、そんなイメージ』でした。
これは教科書の絵がそうだったからだと思います。その意味で教科書の持つ力はすごい!小川はネバネバなんかしておらんのです。ご意見一々ごもっとも!
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教科書の1ページ目ですか。 (原野人)
2012-04-27 13:42:45
さすがに遠い昔なので、記憶が。
でも、「咲いた、咲いた、桜が咲いた」ではなかったかな?
しかし、あまりにも遠いのでわかりません。どちらにしても春の詩でしょう。
今はどんな教科書なのでしょうか?
案外、教科書を見るだけでも戦後の教育界の移り変わりが見えてくるかもしれませんね。
日本はよくなっているのか、悪くなっているのか、変わらないのか。小沢問題を見ていると確実に悪くなっているように思うのです、政治の世界は。
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4年先輩は・・ (numapy)
2012-04-27 16:05:12
その酔席で、4年先輩(疎開体験がある)は、1年生の教科書が「サイタ サイタ サクラガ サイタ」だったと言ってました。カタカナだったとも・・。
このころ、当用漢字などの調整も行われましたね。宗教教育が禁止されたりもしましたね。このあたりをしっかり検証しなかったから、日本がおかしくなったのは間違いありませんね。
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たしかに。 (原野人)
2012-04-27 17:08:39
先輩の教科書はカタカナであったことを記憶してますが、我々はひらがなであったような。ま、昔のことで。ただその前はたしか「ハトハト、マメマメ」であったような記憶があります。しかし、これは戦前かな。我々の時は、いろいろな混乱が教科書にあったようです。数年先輩の教科書はまだ新しいものではなく、べたべた黒塗りして文字がつぶされていた古い教科書を使っていた、という記憶もあります。なにかと混乱していたようです。今度一度調べてみます。
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分かりました (原野人)
2012-04-28 10:21:45
ハタタコ読本というのが最初で1917年まで使われていたようです。その後、ハトハト読本(1918年~1932年)、サクラ読本(1933年~1940年)、アサヒ読本(1941~1945年)となって、いいこ読本というのが戦後の1949年から使われているようです。どうやら、サイタサイタはかなり前のこと、ハトハトマメはさらに前のようです。我々のは「いいこ読本」のようで、「はなこさん、たろうさん、みんないいこ」、これだったようですね。残念ながら記憶にありません。
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さすが! (numapy)
2012-05-01 07:44:03
勉強になりました。
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