原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

空を舞うタンチョウ。

2013年01月25日 08時13分55秒 | 自然/動植物

 

日本の各地には、そこだけでしか見ることができない風景というものがある。それがひとつのお国自慢となる。わが町(道東・標茶町)の自慢のひとつがタンチョウ。自然のままのタンチョウを心行くまで見ることができる。町の上空を悠々と飛翔する姿を毎日のように見ることができるなんて、道東広しといえどもそうはない。町自慢を兼ねて言う、これがわが町の日常であり、普通の風景なのです。だが、意外に町民はそのありがたみを忘れているかも。あまりにも日常的過ぎて。

 

われら町民にとって、タンチョウはもはや特別の存在ではない。空気みたいに、あるのが普通という感覚になっている。タンチョウが一時、絶滅の可能性があったことを考えれば、世の中はずいぶんと変わったと言えるだろう。しかし、そんな見慣れたタンチョウの飛翔する姿を写真にしようと思うと、これがなかなかうまくいかない。いざカメラをもって構えると、目の前に空を飛ぶタンチョウはやってこない。30分も1時間も待ちぼうけを食うこともある。思うようにいかないのが、自然相手なのだ。こんな時に気づかされる。ふだん見慣れている風景が、いかに貴重なものかを。

 

悠然と飛ぶタンチョウを見ながら、今月急逝した名横綱大鵬(本名納谷幸喜)の姿を思い出した。鵬(おおとり)をイメージしたその名前がタンチョウの姿とダブったのだろうか。昭和という時代の記憶がまた一つ消えていくような寂しさを感じる。大鵬関は弟子屈町川湯が出身となっているが、生まれは樺太(いまのロシア領サハリン)。敗戦という波の中で北海道に引き上げてきた家族の一人であった。道東にはこうした歴史を待った人は数多くいる。国後島や択捉島出身者も高齢となったがまだたくさんいる。戦後68年目を迎えるというのに、北方領土の返還は未処置のままである。

 

北アフリカのアルジェリアではイスラム教徒によるテロ事件で日本人を含め多くの犠牲者がでた。国の安全保障とか危機管理とか、外国にいる日本人の保護体制がどうのこうのと、まるでとってつけたような論議が湧き上がっている。だが、北アフリカや中東では、この種のテロ行為は何十年も前から頻発している。彼らは、日本はなにを今さら騒いでいるのかと思うだろう。彼らにとって日常の出来事が起きたにすぎない。

 

戦争は遠い彼方の話ではない。隣国にはミサイルをちらつかせたり、日本の領土を俺のものだと勝手に言いだす国もある。領海侵犯などいつのまにか日常化している。北アフリカにおける危機管理も大切だが、身近な危機管理は大丈夫なのかと思わざるを得ない。

 

空を舞うようにゆくタンチョウの姿は実に平和に見える。心が休まるような風景である。現実がおぞましいだけに、その姿がより美しく見える。タンチョウは平和や幸福の概念とよく似ている。手からこぼれ落ちた時にその価値に気付いても、二度と手に戻らない。

 

今日、アルジェリアで犠牲となった方々が無言の帰国をした。合掌。


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