楽々雑記

「楽しむ」と書いて「らく」と読むように日々の雑事を記録します。

鵺とコルシカ。

2006-11-12 12:36:27 | Weblog
頂いてばかりですね。


三軒茶屋のシアタートラムに『鵺/NUE』を見に行く。遊園地再生事業団の公演とは異なる感じの内容、少々難しいか。能の『鵺』を下敷きにし、ある時代を生きた二人の演劇人が空港のトランジットルームという「どこでもない」空間で邂逅するという話。背景となった時代についての理解があればもう少しよくわかったかもしれない。けれども舞台そのものは面白く見ることができた。しかし、中途半端な時間に朝ごはんだけをとったためか見ている途中に腹が鳴る、それもかなりしっかりと鳴り続け困った。

見終えてから渋谷に戻り、突然の誘いにもかかわらずご一緒いただいたTMKさんとマークシティのつばめグリルでハンバーグを食べる。いつだってビールは美味しいけれど一日はまだまだ長いのだからライスは食べずに1杯だけビールを頂くことにする。やはり舞台は難解だったか会話は舞台の感想よりも近況について。雨も上がってきたようだ。渋谷駅で別れてから久しぶりに宇田川町を歩く。stylusが閉店していた、少し見ない間に随分と街は変わるけれども立ち寄るレコード屋が一軒減っただけのことでその他の店で変わらずに買い物を続けられてしまうというのは良いのかどうか。

代官山へ向かった。勧められていたBeams-Tでのダライ・ラマの写真展などを眺めて近所をフラフラしているとまた雨が降ってきた、そして大分寒い。恵比寿駅に向かう途中にある「コルシカ」というイタリア料理店に寄る。満席だけれどもとても美味しいという話ならば少しの時間と寒さは我慢しよう。メニューを眺めながら扉の外でしばし待つ、メニューの表記が面白い。

小さい店で沢山の店員が忙しそうにしているのは何とも好ましい、ということを以前にも書いたが、この法則はやはり正しいようだ。何ともうまい。トコブシの肝ソースかけも美味しければ、ホタテとアンチョビ、キャベツのソテーも、アサリとほうれん草のスパゲッティもキノコのリゾットも美味しい。勧められるままにいただいたカラメルのアイスクリームもクリームがたっぷり入ったコーヒーを飲んで満腹だ。何ともうまい。ビールを数本頂きながらもこうして思い出しながら食べたものがスラスラと思い出せるというのがその証拠だろう。気取らない店の雰囲気以上に店のおじさんの間が何とも良い。実に美味しそうにメニューを教えられては頼まなくてはならなくなってしまうし、頼めばまさしく至福が訪れることだってわかるのだからやはり頼んでしまうのだ。外は随分と寒いがお腹が幸せに満たされていれば少しの寒さなど気にならない。これから寒くなるならば、また来なければなるまいし、また色々と頼まねば...と思うとまた幸せな気分になり帰りの電車に乗った。

ラヴィ・コルトレーン。

2006-11-11 11:11:11 | Weblog
新しいCDは「築地の競りの音」です。


SYMから「ラヴィ・コルトレーンってどうなんですかね」と尋ねられた。知っていることといえば3年位前に来日してブルーノートで公演をやったこととその後に渋谷のRoomに行ってセッションをしたとかしないとかその程度。丸の内のCottonClubでのステージがあるのだという。2,3日前に優待の案内DMが来たらしい。「きっと人が集まらないんでしょうね」とSYM、近いので行ってみよう予約をお願いした。

金曜日の夜に会社を出て近所の中華屋で腹ごしらえをしてから早めに会場に着くと予想のとおり随分と空いている、金曜日の夜にこの人の入りで大丈夫なのかと他人事ながら不安に思う。入口で渡されたスケジュールを見るとそれぞれのプログラム毎に丁寧に記号が付されている。Soul、Jazzといったジャンルに加えて「カップル向き」「癒し系」「ゴージャス」といった具合だ。好きな音楽を聴きに来るというよりは雰囲気を味わうための箱のようだ。ちなみに今日のステージは「jazz」で「通好み」だ。金曜の夜に通好みのjazzを男三人が聴きに来るというのは決して華やかな状況ではない。周りを見回すとやはり華やかさには少々欠ける。プログラムに載っているウィスパーズのように我々にも華やかさが必要だ。

金曜の夜にしては少し寂しいまま始まったステージは1時間半、一昨日のジョアン・ジルベルトのときにも眠くなったということを書いたが、今日もまた眠くなってきた、一昨日とは違う眠気。終わってから後ろの席にいたSYMから「少し落ちていましたよね」と指摘された。そういう彼も「2曲目から寝てました」という。NGW氏も眠気と闘っていたようだ。予定調和な感じのアンコールで演奏した曲でようやく目が覚めた、あぁこういう曲をやってもらいたかったのだと思う、アグレッシブな感じのスピリチュアル・ジャズ。

それにしても不思議な場所だ。角の席でイチャついていたカップルを横目に帰途につく。

ジョアン・ジルベルト。

2006-11-09 23:01:26 | Weblog
レア盤にしか良い音楽がないわけではない。


Verveの『BossaNova PerfectCollection』という編集盤をその昔に池袋の八勝堂書店という古本屋兼中古レコード屋で購入した。きっと当時流行っていたブラジル音楽がちょっと気になってよくわからないままに知っている名前があったので買ってみたのだろう。レアでもなければ「使える」盤でもないボサの有名曲が沢山入っているレコード。今となってはそれが良い。変にレアなレコードのこととかを知ってしまった今ではきっと買うことはないだろう。

昨夜、東京国際フォーラムにジョアン・ジルベルトを聴きに行った。「最後の奇跡」というコンサートの副題はいかがなものかと思いながらも初めて入った国際フォーラムのホールは本当に大きい、37列目に座って待つ。しばらく待つとジョアン・ジルベルトが到着したというアナウンスがようやく入る、入ってそのまま演奏を開始するのか、確かに1人でギターを弾いて歌うだけだからリハーサルも不要というのならわかなくもない。暗くなってスポットライトがステージに照らされるとギターを抱えたジョアンがスタスタとやってきて一礼する。しばし考えている様子、そしてステージが始まる。

ホール中が緊張しているのがわかる、その緊張の中にするりと流れていくギターと声。聴きたいのに眠くなる。距離があるのでステージを見ようとするよりは音を聴こうと思って目を瞑る、眠い。退屈で眠いというのではなく気持ちよくて眠いのだ。流れに抗うことなく自然に身を任せる、やはり眠い。

一旦袖に引っ込んだと思ったら再度登場、一気に演奏する。力強く歌い上げるわけでもないし、派手なパフォーマンスが繰り広げられるわけでもない。スツールに腰掛けたおじいさんがギターを弾いて歌うだけ、けれども音にはおかしみと哀しみが混じっていて皆が共感させられている。全ての演奏が終わるといままで聞いたこともないような拍手が鳴り響いた。どうやって書いてもうまく表現できない、けれどキチンと記録しておきたいので書いてはみたがやはりこの程度にしか書けない。残念だけれども「きっと良かったんだろうなあ」と思ってもらえればありがたい。まさにそうだったのだ。

日本語ラップ。

2006-11-06 23:50:29 | Weblog
ロゴが良いので一枚撮ると家族が不思議な顔をした。


家に帰りパソコンのスイッチを入れるのと同じくらいのタイミングで音楽をかける。CDだったりレコードだったりラジオだったり入れるスイッチも流れる音楽も日によって全く異なるけれど、音楽が流れているということがとりあえずの心地良さを得るための方法になっている。何を聴きたいのかに頭を悩んでしまい音がないことが却って心地良くなるときもあるけれど、そういうときは無音という状態を知らぬうちに求めているのかもしれないと書くと思慮深い人のように見えるが実際は思考が不足しているだけである。

早く帰ってきたので何を聴こうかと考える。レコードを沢山買ってきた日があったとしても買ってきたレコードをすぐにでも聴きたいと思わない日があるように時間があるからといって色々聴きたいと思うわけでもない。その日ふとアタマの中で流れた音楽が少しだけ残っていると聴きたくなることは多い。今日も何も考えずにテープのストックから日本語ラップのテープを引っ張り出してきたということは今聴きたいのは日本語ラップということか、本当に聴きたいのか?よくわからないけれど久しぶりにテープを突っ込む。

93年くらいから盛り上がってきたのかその当時にはやたら盛り上がった。96年くらいまで大いに盛り上がって気付けば世の中に大きく認知されていた日本語HipHopだが、世の中で大いに盛り上がるのと反比例して日本語は勿論のことHipHopの多くから遠のいてしまったのはただ単に私の天邪鬼が理由ではないはずだ。沢山買った日本語ラップのレコードも実家に置いたままになっている。しかし今日はMixTapeを聴きながら気付けばノリノリでたまに歌詞を口ずさんだりしている。やはり今聴きたいのは日本語ラップだったということか、きっと傍から見たら30過ぎの大人がラップですかあ、ということになるだろう。

ここまで書いてようやく気付いた。聴きたかったのはGAGLEだ。どんな音楽か?以前紹介したFM横浜の『StolenMoments』にそのニュアンスがあるので平日の23時に何を聴こうか迷ったら是非ひとつ、と今その放送を聴きながら書いてます。

実家の本。

2006-11-05 11:07:12 | Weblog
木がずいぶんと減りました。


家に戻った。以前は毎日通っていた道のりだけれども随分と遠く感じる、体も感覚も随分と贅沢になったものだ。そもそも金曜日の夜に枝川で焼肉を食べ酒を飲んできたから道のりが必要以上に遠く感じられたのかもしれない。焼肉に行く機会があまりないので自信をもって評価することはできないが安くて旨かった。きっと帰りの電車で隣り合わせた人たちは迷惑していたかもしれないと気付いたのは深夜に帰宅して家族からニンニク臭いと言われてからだ。まったくしょうがない。

家に戻ると子ども部屋に残っている雑誌やらレコードやらを眺めることが多いが家の書棚を眺めることもまた多い。最近は本を買うことも増えたが昔はこの書棚から適当に引っ張り出しては読んでいたように思う。もっぱら読みやすいものばかりで上のほうに乗っている箱物の全集などには未だ手が伸びないのだけれど、この間は辻まこと全集を引っ張り出したからか、今回帰ると居間のサイドテーブルの上に辻まことが一冊のっていた。帰るたびに本を持ちかえっていては本が増えてしまうと思いながらも父親に「ヤナイハラ イサク」の本はあるかと尋ねると、ふと姿を消して一冊の本を抱えてきた矢内原伊作「リルケの墓」。私が持っていないはずがない、というような表情で渡される。

川越の町で買ったドナルド・バードとノーマン・コナーズと一緒に袋に入れて持ち帰ることにした。ぱらりと目を通してみるとある人の文章ととても文体が似通っていることに気づく。改めてゆっくり読むとしよう。