楽々雑記

「楽しむ」と書いて「らく」と読むように日々の雑事を記録します。

マフラーの在処。

2008-02-29 01:39:07 | 出来事。
朝、家を出ようとしてマフラーを探したが見当たらない。いつも手袋とイヤーマフと一緒に置いているかごの中に見当たらないので思い当たる場所を探すが、結局見つからずに時間に追われるまま、他のマフラーを巻いて出かけた。見つからなかったグレーのマフラーは、相方から先日貰った物なので、そう簡単に「無くした」という訳にはいかない。駅までの寒い朝の中を歩きながら一体どこに行ってしまったのかを思い出す。仕事場を出る時にバッグが嵩張ると思いながらマフラーを入れたから仕事場には無いはずだ。そして帰り道に途中下車した時にバッグを閉め直した時も、やはりマフラーがあったのは記憶にある。そうなると東急ハンズで荷物を整理しようと座ったベンチに置き忘れたような気がしてきた。しかし早朝では連絡の取りようも無いから夕方まで待つしかない。きっと見つかるだろうと言い聞かせながら実は気になってしょうがないから独りでグルグルと思い悩んで一日を過ごした。
会社帰りに東急ハンズがある複合ビルに急いだ。受付らしきものが見当たらないから誰に聞いたら良いのかわからないまま近くにいた駐車場の管理人に尋ねると遺失物の担当は防災センターだと言いながら連絡をしてくれた。ずっとマフラーが見つかることを真剣に願っていた。連絡してくれている間も長く感じられる。マフラーの忘れ物がそれほどたくさんあるのだろうか。連絡を待つ間、ふと「こんなに連絡が長いのは詳細を確かめているのではないか」と自分に都合の良い展開を思い始める。今まで何度と無く落し物をしているけれど多くの場合は手許に戻ってきているのだ。きっと今回もそうなるに違いないと勝手な想像をしていると防災センターに案内しますと管理人が言う。やはり見つかったのだ。防災センターに向かいながら不安や反省はすっかり消えていた。こんな調子だから忘れ物を繰り返すのだ、という声が聞こえたような気もしたが、とにかく無事にマフラーを持ち帰ることだけを考えて地下鉄の入り口へ急いだ。

茨城の鮟鱇鍋。

2008-02-25 00:17:59 | 散歩。
立原正秋の食べものエッセイに「鮟鱇にはモーツァルトが似合う」というようなことが書いてある。実家の本棚の一角を占めていた立原正秋の作品群に手を伸ばすことは殆ど無かったが、朝鮮白磁を眺めたりする内に少しずつ手に取るようになった。読むのは専らエッセイだからその魅力を本当に理解しているとは思えないけれど、またもや実家の本棚の世話になっているのは全く不思議だ。
少し前に神楽坂の蕎麦屋で大学時代の友人たちと飲んだ。鹿島鉄道に昨年一緒に乗りに行ったAIKと茨城交通の沿線で鮟鱇鍋が食べられるようだから出かけようという話をしていると同席していた友人たちも参加することになり、二月にしては暖かい土曜日の朝に上野駅に集合して勝田に向かうスーパーひたちに乗って出発した。北千住を過ぎる頃にはビールのプルトップを開け、下車駅の勝田に到着するまでの1時間弱の間にはカップ酒も空になった。茨城交通湊線に乗り換えて、終点の阿字ヶ浦から少し歩いた海岸は、冬とは思えない青い海が広がっていた。近くに原発があることなど全く気にならないほど海の青さが気持ちよい。余りに気持ち良過ぎて波に足を洗われた。サンダル履きだったのがせめてもの救いだが、濡れた靴下を持ちながら素足で歩いても楽しかったのは酒のせいか、それとも早春の陽気のせいだったのか。
再び列車で那珂湊駅まで戻る。関東の駅百選に選ばれたという駅は地方鉄道らしい雰囲気が漂っている。低めのホームに車庫、そして平屋の駅舎。近くを歩き回って数枚の写真を撮り、那珂湊の街をしばらく歩いて「住吉」という店で鮟鱇料理を食べた。家族連れが数組同じように鍋を囲んでいる。熱燗を追加するうちに鮟鱇鍋は空になった。雑炊まで平らげてすっかり満足して店を出ると春の陽気が一転して急に冷たい強風が吹き始めた。冷やされた頭に果たしてモーツァルトが似合うのかという言葉が浮かんできた。すっかり確かめるのを忘れていた。もう一度食べてみないとわからない、というようなことを立原正秋は間違いなく言うはずはない。

春先の便り。

2008-02-21 20:24:08 | 出来事。
昨年末にもらったタイの音楽が入った2枚のCDを相変わらず聴いている。何を聴こうか迷ったとき、そして聴きたいと思ったときには、すぐにCDプレイヤーに突っ込んでいる。英語曲のカヴァーがあっても結局はタイ語に聞こえるから、唄っている歌詞は全くわからないけれども、この曲の次にはあの曲がくるというように曲順はすっかり頭の中に入ってしまった。曲名も歌手名も全くわからないのが却って良いのかもしれない。そろそろ別の新しい曲を聴いてみたいなどというのは全く勝手極まりないが、また同じCDを聞きながらそんなことがあれば良いねえという話をすることが何度かあった。勿論、そんなに都合良く世の中が動いているなどと思ってはいない。
少し前に、帰宅した相方がバッグから紙袋を取り出した。見覚えのある蜂のマークのリップスティックを作っている会社の袋だ。以前、唇が乾燥しやすいのを見かねて相方から一本もらったことがあったが刺激が強すぎて、塗る度に唇がピリピリしていたのを思い出した。蜂のマークにはあまり良い思い出が無かったので、目の前の袋の中身はいったい何かと非常に警戒しながら袋を開けた。中から出てきたのはオレンジ色のCD-Rと伊丹十三記念館の絵葉書、CD-Rは昨年もらったものの色違い、伊丹十三は以前に見たことのある愛猫と一緒に寝そべっているものだ。葉書を裏返すとさらりとメッセージが記されている。正月にチェンマイに行った際に求めた音楽を集めて作ったCDらしい。「楽しんでいただけると嬉しい」との旨が書いてある。こちらこそ頂くだけでも嬉しい、というよりもむしろ恐縮至極である。都合良く世の中が動いているなどと思い上がることもできない。思いがけない春先の便りである。早速プレイヤーに入れるとまるでタイのCKBではないか、と思うような音楽が鳴り始めた。きっとこれからしばらくは三枚のCDが交互に部屋に流れることになりそうだ。

クロスのボールペン。

2008-02-16 00:52:20 | 買いもの。
キーボードで文章を書くことが多くなったが、字を書くのが苦手だ。手で文字を書く機会が減って自分の下手な字を見せる機会も少なくなり安心しているのだけれども、達筆が並ぶ芳名帖に自分の字が並んで良いものかどうかと悩んで筆を持った手を止めることも相変わらずだ。小学生の課題の硬筆に金紙が貼られたこともあったけれど、高学年で毛筆になってからは金紙どころか紙が貼られたことは一度もないし、字を誉められた記憶も無い。勿論、面と向かって「ヘタクソな字だ」と言われることは無いけれども、誉められたことも無いのだから、きっと上手でないというのは疑いようが無い事実だろう。
字は下手だけれども筆記具は好きだ。今年から手帳を変えて、それに合わせるようにロットリングのマルチペンを買った。1本に3色ボールペンとシャープペンシルがついた便利なものだ。そして一緒に持ち歩いているメモ用のモレスキンには万年筆を差している。どちらを開いても目に入るのはいつもの自分の下手だ。いつになっても綺麗にならない自分の文字を見ると、道具だけで字は上手にならないということが良く分かる。
自宅のペン立てに2本のクロスのボールペンがある。交換用のリフィルも2本。細いボールペンは仕事に就いたばかりの頃にプレゼントに頂いたもの、そしてもう一本は新しい生活を始めるお祝いに頂いたもの。交換用のリフィルは以前の職場で誤発注したのをもらったものだ。どれもクロス社の製品というのは偶然だとしても興味深い。筆記具好きとしてペンの贈り物はとても嬉しいのだけれど、ペンを持つ度に悪筆を嘆く自分のような者にとっては、同時にとても緊張する贈り物だ。いつになったら諸手をあげて喜ぶことができるのだろうかと思いながら、相変わらず手帳には汚い文字が並んでいる。果たして道具に負けない字が書けるようになるのだろうか、少なくとも当分は他人に見せるような字になりそうもない。

新しい靴。

2008-02-14 00:24:15 | 買いもの。
早起きをして家を出る生活にも少し慣れてきた。早起きをすることとは何の関係も無いけれども少し前に新しい靴を買った。バーガンディのオールデン。乾いた朝の寒さの中を気分良く歩くには少し贅沢をしても良いだろうというのは、いつもの買い物のための言い訳でしかない。

漸く靴が足に馴染み始めてきたような気がする。もう少ししたらいつもの調子で歩けるはず。足許を気にせずに歩けるようになれば雑事も記せるか。

また適当に眺めていただければ、と思ってます。近いうちに改めて。