楽々雑記

「楽しむ」と書いて「らく」と読むように日々の雑事を記録します。

梅雨の梅。

2008-06-23 21:50:20 | 食べもの。
すっかり梅雨だとは思っても、梅雨が「梅の雨」と書くことに気づくことはそう多くない。勿論、梅雨と書いてあれば「つゆ」と読むし、逆の場合もキチンと答えることもできるけれど、梅雨という言葉から梅を意識したことなど記憶には全く残っていない。
まさに梅雨、といった土曜日に早起きをして東京駅に向った。群馬県の安中榛名にある農家の梅の収穫の手伝いを体験するという企画に参加した。いつもだったら必ず乗車前に買うはずのビールも控えて、簡単な朝食を車内で摂る。東京駅を出た直後には小康状態だった空が俄かに曇り始めた。遠くに見える薄曇りの方角に一縷の望みを託しているうちに列車の速度はどんどん上がり、窓の外がどんよりと暗くなってきた。窓についた水滴が流されていく。やはり梅雨なのだろうか。雨が降っては止むのを繰り返しながら、小一時間で安中榛名の駅に到着した。
駅から迎えの車に乗って10分も行かない場所にある「ゆあさ農園」に着いて早速レクチャーを受ける。「梅の収穫時期になると憂鬱になる」という話に始まり、梅の収穫が決して楽しいものではないということを繰り返された。袖から水が入って脇の下まで滴るという話を聞き、雨具らしいものを全く持たずに来たことを少し悔やみながら、随分と弱くなった雨の下で梅の収穫を始めた。とりあえず午前中に20kgのコンテナで10ケース、200kgを収穫するのが目標。葉や枝の雨の滴がどんどん落ちてくる。あっという間にパーカーが濡れていくが、それ以上に梅の実を黙々と摘んでいくのが楽しい。手の届く場所にあった梅の実はすぐに取りつくされ、コンテナに、そして脚立に乗って摘んでいく。小一時間ほどで目標の量を収穫して昼食にありついた。きっと本当の収穫作業ならばもっとハードなのかもしれないが、滴が腕を伝っていく感覚が味わえた程度で十分満足だ。持参した昼食の他に、農園で作った梅干しを頂く。塩にこだわっているらしく少々しょっぱいが、働いた後にはちょうどよい。
午後は収穫した梅を選果し、袋詰めを行う。普段、店頭に並んでいる梅を見て、こうした作業を想像することなどないけれども、やはり自分の手を経て袋に詰まった梅を見ると嬉しい。お土産に1袋頂けるという。青い梅の実を見ながら、梅酒を飲めるのはいつになるかと想像してみた。どうやら相方は梅ジュースのことを考えているようだが、こちらの頭の中では梅酒を漬ける酒について考えを巡らし始めていくことなど気付くはずもないだろう。

九州の特急。

2008-06-14 19:00:27 | Weblog
大分に来たはいいけれど、大分空港からの最終便に間に合わないようなので、特急にて福岡空港に向かう。ソニックという青い特急はデザインが評判の電車のようだが、目下の関心は目の前の芋焼酎にある。少しまどろんできた。

イームズの言葉と映像。

2008-06-09 20:46:22 | 散歩。
新聞とNHKがあれば事足りるという人も少なくなったかもしれないが、案外、今の自分にとって新聞は主な情報源であるように思う。もちろん雑誌も見れば、インターネットも見るのだけれど、意外な方向からの情報をフラットな形で届けてくれるのは、新聞なのかもしれない。六本木のアクシスギャラリーでやっていた「CHARLES EAMES 100images×100words」もいくつかの雑誌で見たときに行こうとは思っていたけれども、新聞の紹介記事が一番印象に残っているのは、記事が優れていたというよりは、新聞という今となっては特殊とも思われる媒体のせいのような気がする。勿論、いつものようにこっそり切り取ってポケットに忍ばせた。
平日の閉館間際だったからか会場は人も少なく落ち着いていた。展示自体が素晴らしいので自分のような者がどうこうと言えるものではない。イームズによる100枚の写真と100枚の言葉が整然と並べられている。デジタルカメラもなければ、インターネットもなかっただろうけれども、たとえそれらがあったとしても、きっと同じ言葉と膨大な映像を残しただろう。会場のチラシで知った目黒美術館での16mmフィルムの上映会の映像を見た後も同じようなことを思った。直感的なひらめきであっと驚かせるということよりも、小さな事実の積み重ねていった結果として大きな確かな驚きが生まれている。勿論、天才的なアイデアがそこにあることは事実なのだけれども、特別な事象がそこにあるわけではない。当たり前のバランスのとれた生活があって、そこに案外幸せやユーモアが転がっていることをものの見事に見せてくれる。身近ではあるけれど、小さな幸せを大事に温めましょう、というのではないところがとても良いのだ、と勝手に思い込み、満足して会場を出た。
権之助坂を上っていると小さな男の子が脇を走り抜けた。ふと止まったかと思うと引き返して飲み屋の縄暖簾の前で立ち止まった。暖簾の一本を掴んで軽く振ってから拍手を叩いて飲み屋の扉に向って深々と頭を下げた。母親らしき人が「神様ではないでしょ」と諌めているのを見ているうちに、無性に自分も縄暖簾をくぐりたくなってきた。

佐野繁次郎の本。

2008-06-05 23:59:59 | 散歩。
毎朝、二本の柳の木が植えてある鮨屋の脇を通りながら会社に向う。全く唐突といって良いくらいに生えている柳は青々と茂り、建物も周囲からは少々浮いた印象だ。店の看板の文字に見覚えがあると思いながら、気にすることもなく毎日通り過ぎていた。その「しまだ鮨」と書かれた看板だけでなく、建物や内装、箸袋に至るまで佐野繁次郎によるものだということを知ったのは、ユトレヒトが出していた小冊子を少し前に偶然手に入れてからである。
会社で夕刊を見ていると一つの記事に目が留まった。仕事に関係ない記事ばかりに目が行ってしまうと思いながら手早く切り抜いた。御茶ノ水の古書会館で行われる佐野繁次郎の装丁展に先立って千代田区立図書館でその一部が展示されるという記事。その写真には古い銀座百点が並んでいる。どうしても行かなければと思い込んで、その週末、図書館へ出かけた。きれいな庁舎の9階にある皇居を臨む図書館は静かでとても良い。雨の週末を図書館で過ごすというのも悪くない。貸し出しカウンターで展示の場所を尋ねると「誰ですか」といった表情で総合受付に行くように言われる。その総合受付の前に小さな展示を見つけた。決して大きな展示ではないけれども、図書館の雰囲気に合っていたからか、満足しながら会場をあとにした。
翌日は自転車で古書会館に向った。トークショウがあるというので間に合うように向ったが、ギリギリで滑り込んだからか、晴れた昼下がりだったからかわからないけれど、ウトウトと眠気に襲われる。佐野繁次郎の書体に浄瑠璃本の影響が見られるという話を面白いと思いながら気付けば眠っていた。目が覚めると図録を販売中しているという声が聞こえた。それも売り切れ御免ということらしい。周りを見回せば、皆オレンジ色の冊子を手にしている。どうしても欲しくなった。中身を見ずに購入すると財布が淋しくなっていることに気付いた。展示にはたくさんの佐野の装丁本が並んでいる。図書館で見たときの方が数は少なかったものの良かった気がしたのは展示方法なのか、それとも会場のせいか。とにかくゆっくりと眺めてから地下の古書販売会場に行く。安岡章太郎の「ああいえばこういう」に目が行く、これは全く佐野繁次郎とは関係ない。小銭で買える値段だけれど、財布の中身が淋しいので棚に一旦戻した隙に他の人に奪われた。こうなると図録を買ったことを後悔してしまう。家に帰ってから図録を見るが、買えなかった本のことばかり考えてしまう。焦って買えば高い物を掴み、安値を狙えば買い損ねる。買い物上手になるにはまだまだ先だ。