沈丁花が咲いている。スーパーマーケットに寄って帰る途中に足を止めた。昼よりも夜にその匂いを感じるのは気のせいだろうか。どうしても自分の身近な場所に置きたくなって、まだ開花していない蕾のついた小さな枝をこっそり折って持ち帰って、焼締めの小さな壺に放り込んだ。
それから今日も家に帰るとうっすらと沈丁花の匂いがする。蕾も日が経つにつれて開いてきた。家に帰るとうっすらと花が匂うのは悪くない。もう一週間以上になるだろうか。今では枝を折ったときの罪悪感もなくなりつつある。むしろ、もしもこの枝が枯れてしまったなら、もう一度同じように小さな枝をサッと折ってしまうに違いない。
毎朝通勤のために駅まで歩く道に小さな遊歩道がある。いくつかの植物に表示板がくくりつけてある。百日紅にクスノキ、浜木綿にハナミズキまではすぐに覚えたものの、ギンヨウアカシアという名前がどうにも頭に入らない。駅まで急ぐ道すがらにその樹を見るたびに名前を思い出すのだけれど、なかなか正解が浮かばない。なぜか「ギンヨウセキレイ」と鳥の名前が混じってしまう。そしてセキレイを見せられてもおそらく「鶺鴒」と書くことも、その鳥を認識することもできないだろう。しかし、何度覚えようとしても「ギンヨウセキレイ」という単語が頭の中に浮かんでしまう。これも老化のひとつだろうか。
最近になってようやく「ギンヨウアカシア」という単語が自然に出てくるようになった。眺め始めて1年が過ぎようとしている。覚え始めた頃に咲いていた小さな花が今年もまた咲いた。その黄色い小さな花が自分の大好きなミモザと同じであることに気付いたのは、名前が頭に入ったからか、それとも花を眺める余裕ができたからだろうかは分からない。だた分かっているのは、その小さな黄色い花がついた枝を自宅にどうやって持ち帰ろうかと思案している自分がいるということだ。かつて実家の父親が枝を折る時に許しを乞うていた「花のかみさま」に自分も許しを乞おうと考えている。果たして許してもらえるだろうか。
※写真は沈丁花でもギンヨウアカシアでもありません。念のため。
それから今日も家に帰るとうっすらと沈丁花の匂いがする。蕾も日が経つにつれて開いてきた。家に帰るとうっすらと花が匂うのは悪くない。もう一週間以上になるだろうか。今では枝を折ったときの罪悪感もなくなりつつある。むしろ、もしもこの枝が枯れてしまったなら、もう一度同じように小さな枝をサッと折ってしまうに違いない。
毎朝通勤のために駅まで歩く道に小さな遊歩道がある。いくつかの植物に表示板がくくりつけてある。百日紅にクスノキ、浜木綿にハナミズキまではすぐに覚えたものの、ギンヨウアカシアという名前がどうにも頭に入らない。駅まで急ぐ道すがらにその樹を見るたびに名前を思い出すのだけれど、なかなか正解が浮かばない。なぜか「ギンヨウセキレイ」と鳥の名前が混じってしまう。そしてセキレイを見せられてもおそらく「鶺鴒」と書くことも、その鳥を認識することもできないだろう。しかし、何度覚えようとしても「ギンヨウセキレイ」という単語が頭の中に浮かんでしまう。これも老化のひとつだろうか。
最近になってようやく「ギンヨウアカシア」という単語が自然に出てくるようになった。眺め始めて1年が過ぎようとしている。覚え始めた頃に咲いていた小さな花が今年もまた咲いた。その黄色い小さな花が自分の大好きなミモザと同じであることに気付いたのは、名前が頭に入ったからか、それとも花を眺める余裕ができたからだろうかは分からない。だた分かっているのは、その小さな黄色い花がついた枝を自宅にどうやって持ち帰ろうかと思案している自分がいるということだ。かつて実家の父親が枝を折る時に許しを乞うていた「花のかみさま」に自分も許しを乞おうと考えている。果たして許してもらえるだろうか。
※写真は沈丁花でもギンヨウアカシアでもありません。念のため。