楽々雑記

「楽しむ」と書いて「らく」と読むように日々の雑事を記録します。

日没後の外出。

2008-08-24 21:55:08 | 散歩。
金曜日、仕事場から戻って部屋で横になっていると携帯電話のメール着信音が鳴ったのに気付く。ひと休みのつもりが、そのまま眠っていたようだ。支度を整え待ち合わせの有楽町へと向かった。帰宅する人の波に向かって歩く。朝まで遊んだ帰りに通勤する人の波に逆らって歩いていた時には疲れと後ろめたさばかりだったが、日が暮れてから外出するのはどうして楽しいのだろうと思いつつ駅に向かって架かる長い橋を渡った。
簡単な夕食をとろうと思って丸の内をウロウロする。軽い夕食を取れる店が少ないのは勤めていた頃にも感じていたけれど、金曜日の夜だからか開いている店は満席。夜の外出は決していいこと尽くめでは無いようだ。漸く入った店も閉店間近であることを告げられて慌ててメニューを選ぶ。この数年で街は大きく変化したけれども、そのココロまでは簡単に変わらない。
東京駅の前を通ると、運行の終わったバスの停留スペースに大きな荷物を抱えた若者たちが列を成している。夜行バスを利用する人の列だとすぐに分かった。東京中央郵便局の灯が消えた薄暗い庁舎の前に折りたたみ机を広げてチケットを売る夜行バス業者。改修中の東京駅の駅舎を背にズラリと並ぶ格安バス会社の車体が並んでいるのを見た時、東南アジアの長距離バスターミナルを思い出した。街の威風というのは高いビルを建てることにあったのだろうかと少し悲しくなる。
そんなことを考えながら新丸の内ビルの7階に向かった。トーキョー・ジャズ・クロスオーヴァー・フェスティバルのプレパーティーに顔を出す。自分が働いていた頃に見知った顔がないのは寂しいけれど、良い音楽と酒の入った会話は素直に楽しい。音楽と酒を楽しむ人たちも、夜行バスに揺られる人たちもともに楽しい週末を過ごしているなら、あれこれと街について思いを巡らすのは杞憂なのかもしれない。パーティーが終わって、お疲れの様子のAONさんを見送り、家路についた。さて、週末はこれからだ。

出光のルオー。

2008-08-13 00:47:46 | 散歩。
出光美術館へ「ルオー大回顧展」を見に出かけた。きっと今までにも教科書で見たり、どこかの美術館で見ているはずだ。帝劇ビルの地下の入口近くに貼ってあったポスターを見て足が止まったことは以前にも書いたかもしれない。そのポスターを見た時の印象は、乾山や琳派の展示のポスターを見た時と同じだろう。ルオーだから見たいのではない。ポスターに写った作品の色の面白さ、線の太さや強さがまるで民画のようだと思ったのだ。正直なところ、こんなに有名な作家を今まで知らなかったことが恥ずかしい。名前だけを覚えて全てを知った気になっていたのだ。改めて名前を意識する時が自分の興味の対象が変わった時なら、もっとその変化に敏感でいたいと思う。
土曜日の昼下がりにもかかわらず、会場はそれほど混雑していなかった。ゆっくり見られるという安堵と、どうして沢山の人が見ないのかという疑問で複雑な気分になる。最後期の造形の様な厚塗りの絵の迫力に驚くが、自分の興味は印刷の挿絵だと気付く。太い線と簡略化された構図を見ていると不思議な安心を覚える。会場に出光佐三とルオーの出会いが紹介されていた。ほぼ視力を失いかけていた出光氏が絵に顔をギリギリまで近付け、ルオーの太い線とその色使いに日本画を感じ、また同時に仙涯の絵に似た印象を受けたというエピソードを読んで「やはり」と嬉しくなった。
数多い展示を見終えると閉館の時間が近づいていた。図録を買おうと思ってページを捲るが実物の印象が強くて買えないままショップを出た。窓際に腰を下ろし皇居を見渡す。ルオーの絵とは全く異なる整然とした眺め。出光佐三はきっと好むだろうなと思いながら、ルオーはこの眺めを絵にするだろうかと想像して熱いほうじ茶を啜った。

ビューティフル・ルーザーズ。

2008-08-04 22:26:11 | 散歩。
『ビューティフル・ルーザーズ』という題名の映画の公開に合わせた展示を見に暑い中をラフォーレに出かけた。映画のチラシをに並んだ名前を見ただけで参ってしまう。マイク・ミルズにスティーブン・パワーズ、詳しく語れはしないけれど、熱っぽく語る必要もない種類のクリエイティブだと自分は思っている。そんな感じだからこそ好きなのかもしれない。次の日に職場で「休日は展覧会を見に行った」と話すと、「フェルメールか何かかな?」と尋ねられたが、自分にとってこの展示は語るために見るというよりは、共感するために見るのかもしれないと気付いた。
ちょうどジョー・ジャクソンのワークショップが終わる頃に会場に着いた。紙粘土で様々な国の政治家の顔を作ってペイントするというもの。正解があるわけでもないし、上手だからどうということもない。どの参加者も楽しそうに筆を動かすのを横目に展示を眺めた。お金の匂いのしない展示というのは見る方もとても気が楽だ。映画もきっと面白いだろうから改めて見に行こうと思う。
ワークショップを終わりまで眺め、フラフラと散歩をしながら買い物をした。色々な店に寄りながらスパイラルの地下のパーティーで一杯飲んで、帰り道にタイ料理を食べた。ジェフ・マクフェトリッジを見て、韓国風海苔巻きを食べて、マリメッコとその隣のラルフローレンになぜホームコレクションがないのかと落胆してから、コルソ・コモを見て、音楽旅行をしてからシンハーを飲む。こうやって書いていると、どこにいるのか分からなくなってしまう気もするけれど、東京は随分と楽しい場所だということを改めて感じる。けれど何でも手に入ることが分かれば分かるほど、全く違う場所へ旅をしたくなってしまうのは単なる天邪鬼なのだろうか。

宮脇俊三と鉄道紀行展

2008-07-20 15:16:40 | 散歩。
マニア、というほどではないけれども、鉄道好きの時期があった。成長するにつれて、他の物に興味が移って、今ではそんな時期があったことを口にするのも恥ずかしいと思うようになってしまったけれど、インターネットで経路検索をする人を横目に、時刻表も読めないようではねえ、と思ったりするのだから、今は微塵も興味がない、と言ったら嘘になる。世田谷文学館で「宮脇俊三と鉄道紀行展」が開かれていると知り、酒井順子氏と原武史氏のトークショウの観覧を申し込み、暑い中を相方とともに芦花公園へと向かった。
少し遅刻してトークショウの会場に入り、周りを見回した。やはりマニアなのだろうか、ある程度の年齢層の男性が多い。たまに見かける女性も、普段はあまり馴染みのないタイプが多い。遅刻したために離れ離れに座った相方はこの空気に耐えられるのかと少々不安になった。
トークショウの後で展示を眺める。展示の中心である膨大な取材メモや自作の地図には沢山の人が集まっている。人が多いのを意外に思いながら、展示の端に取材先から自宅に宛てた絵葉書があることに気付く。少し前に伊丹十三が息子に宛てた絵葉書のことについて触れたけれども、宮脇俊三の絵葉書に書かれていた短い文章もやはり思わず笑みが漏れてしまう。絵葉書の小さな余白に時計の絵を描き「ペリーヌを見ている時間かな」とあるのだから、こちらまで何だか嬉しくなる。
膨大な取材内容を元に、極力筆を抑え、簡潔で明快に文章を記していたことなど、かつて鉄道好きで読んだ小学生の頃には、全く理解できていなかった。会場を出て駅に向かう途中、実家の書棚を久しぶりに探してみようと思い付いたが、やはり鉄道マニアなのだと思われたくないという気持ちもやはりどこかにある。鉄道紀行文というのは、案外自分にとっては厄介な存在かもしれない。

※9月15日まで、世田谷文学館でやっているようです。鉄道好きでなくても是非。

イームズの言葉と映像。

2008-06-09 20:46:22 | 散歩。
新聞とNHKがあれば事足りるという人も少なくなったかもしれないが、案外、今の自分にとって新聞は主な情報源であるように思う。もちろん雑誌も見れば、インターネットも見るのだけれど、意外な方向からの情報をフラットな形で届けてくれるのは、新聞なのかもしれない。六本木のアクシスギャラリーでやっていた「CHARLES EAMES 100images×100words」もいくつかの雑誌で見たときに行こうとは思っていたけれども、新聞の紹介記事が一番印象に残っているのは、記事が優れていたというよりは、新聞という今となっては特殊とも思われる媒体のせいのような気がする。勿論、いつものようにこっそり切り取ってポケットに忍ばせた。
平日の閉館間際だったからか会場は人も少なく落ち着いていた。展示自体が素晴らしいので自分のような者がどうこうと言えるものではない。イームズによる100枚の写真と100枚の言葉が整然と並べられている。デジタルカメラもなければ、インターネットもなかっただろうけれども、たとえそれらがあったとしても、きっと同じ言葉と膨大な映像を残しただろう。会場のチラシで知った目黒美術館での16mmフィルムの上映会の映像を見た後も同じようなことを思った。直感的なひらめきであっと驚かせるということよりも、小さな事実の積み重ねていった結果として大きな確かな驚きが生まれている。勿論、天才的なアイデアがそこにあることは事実なのだけれども、特別な事象がそこにあるわけではない。当たり前のバランスのとれた生活があって、そこに案外幸せやユーモアが転がっていることをものの見事に見せてくれる。身近ではあるけれど、小さな幸せを大事に温めましょう、というのではないところがとても良いのだ、と勝手に思い込み、満足して会場を出た。
権之助坂を上っていると小さな男の子が脇を走り抜けた。ふと止まったかと思うと引き返して飲み屋の縄暖簾の前で立ち止まった。暖簾の一本を掴んで軽く振ってから拍手を叩いて飲み屋の扉に向って深々と頭を下げた。母親らしき人が「神様ではないでしょ」と諌めているのを見ているうちに、無性に自分も縄暖簾をくぐりたくなってきた。