山の花に会いに行く

山で出会った花々をアルバム風にまとめていきます

新潟焼山への思い

2017-03-02 | 2006年山行
◎ 山の特徴
  1974(昭和49)年に噴火した妙高連峰の焼山(2400m)。その後、火山活動が落ち着いていたが再び活発化。
  2006年に焼山の近くにある金山(かなやま 2245m)に初めて登り、10年後の2016年に再訪(ブログ参照)。
  今回は、山の花ではなく、焼山で遭難した後輩の慰霊が目的。その状況は、当時、ある会誌に投稿した記事を載せます。
◎ 山行日  2006年8月11日
  小谷(おたり)温泉から先の林道が土砂崩れで通行止め。登山口まで林道を2時間歩く。夜明けから天気がいい一日でした。
  ブナタテ尾根に取り付いてしばらくすると、西の空に北アルプスの山が浮かんだ。8月中旬でも花が多くて良かった。
  そして終始、緑に覆われた焼山が望め、下の景色も見渡せた。きっと彼らも、前日までこの景色を楽しんだことでしょう。
  






 「天狗原山に続く道」





 「白馬連峰を望む」





 「キヌガサソウ」






 「キヌガサソウ」






 「天狗原山手前の小さな石仏」
  10年後の2016年7月に再訪した時は、小さな石仏がお花畑に囲まれていた(2016年ブログ)。






 「石仏アップ」






 「チングルマ」






 「笹ヶ峰の乙見湖を望む」
  当時、遭難者を下ろした沢(真川)や検死した周辺が見渡せた。あの時見上げた稜線に立っている。
 





 「シナノキンバイ」






 「ハクサンコザクラ」
  金山の手前には、遅くまで雪渓が残る湿原「神の田圃」がある。ちょうどハクサンコザクラの花盛りでした。





 「ハクサンコザクラ」





 「金山(左)と焼山(右)」
  天狗原山からの眺めです。左の金山手前の雪渓があるところが「神の田圃」。焼山の右は火打山に続く稜線。

  ===================================================
32年間思い続けた金山(かなやま)に登る(2006年投稿文の抜粋)

 長年、気になる山があった。いつかは登りたいと思いつつ、30余年が経ってしまった。
 そこは長野と新潟の県境にある金山(かなやま 2245m)。妙高山、火打山、焼山の西方、雨飾山との間に位置する山です。
 1974年(昭和49年)7月28日未明に焼山(2400m)が突然、噴火した。前日に山頂付近でテントを張った千葉大生3名が巻き添えとなる。このうちの一人とは何回か山に行った。
 噴火当初は遭難者がいないとされたが、その後に3名の悲報を知る。

 焼山からはもくもくと噴煙があがり、周りの樹林は火山灰で白くなっていた。ヘリが近づけないため、人力で遺体を下ろすことになった。私は途中から加わった。毛布に包まれた遺体を手作りの担架に載せて、沢沿いに下る。登山道の幅が狭いのでとても難儀したのを覚えている。それに、死後1週間が経ち、死臭が鼻をつき、体に染みついた。昼食も喉を通らない。
 ふと見上げると、きれいな緑の稜線が目に焼きついた。地図で確認すると、天狗原山から金山の稜線あたりか。焼山とは対照的に穏やかな山稜が印象に残った。

 笹ヶ峰に近づき、林道下の川原で検死が始まる。3名を囲んで輪になる。毛布を取ると想像を絶する姿にショックを覚えた。心臓や目から湧き出るウジが憎かった。そんな変わり果てた息子を抱く母親の姿に胸が詰まった。真夏の悪夢のような出来事だった。
 事故以来、焼山は入山禁止が続いている。その後、周辺の火打山や昼闇山(ひるくらやま)に登った際に焼山を見ると、相変わらず煙があがり、積雪期でも地肌が露出して黒々としていた。対照的に、金山あたりは真っ白な稜線で、ますます魅力的な存在となった。

 いよいよ今年(2006年)の夏に金山登山を計画。当初は花の最盛期の7月を予定したが、昨冬の豪雪から残雪が多いことを想定して1か月遅らせた。コースは、小谷(おたり)温泉経由で林道途中の登山口で車中泊。翌日、ブナタテ尾根から天狗原山、金山の往復。
 ところが、小谷温泉のすぐ先で土砂崩れのため林道が通行止め。仕方なく、温泉下の川原で車中泊。翌朝3時から歩き出す。幸い、満月の月明かりでライトを点けずにアスファルト林道を歩き、2時間弱で登山口へ。だいぶロスしてしまった。ここからブナの中の単調な登り。天気は快晴に近く、後方に後立山連峰が見える。槍ヶ岳も確認できた。

 樹林帯を抜け天狗原山に近づくと、シナノキンバイやミヤマキンポウゲの咲く明るい草原に変わる。金山との中間に位置する、「神の田圃(たんぼ)」と言われる湿原には残雪があり、雪解けのところからハクサンコザクラの群落が花盛り。
 彼らのメモによると、亡くなる前日に金山に登っている。植物好きの彼らのこと、きっと同じ場所で花に感動したと想像する。

 間近に焼山が見える。黒々とした印象と異なり、山肌が緑で覆われているではないか。それに噴煙が少ない。なんと穏やかな山になったものか。
 担架で下ろした沢と、その先の乙見湖手前の検死場所まで見渡せた。

 あの時見上げた稜線に、32年経って来ることができた。

 悪夢のような夏の終わりに、大学近くにある彼の下宿アパートの引っ越しをお手伝いした。四畳半の部屋はよく整理されて、彼の人柄がうかがえた。明るく気丈に振る舞う彼の母親に、何と話していいのやら、言葉を選んでいるうちに、あまり会話ができなかった。

 お母さんはご健在だろうか。
 遭難から数年後に、火打山や昼闇山から撮った焼山の写真をご実家に送り、丁重なお礼の手紙をいただいた。
 この山行で撮った山や花の写真を30年ぶりに送ろうかと思案している。
  ===================================================


 「焼山」
  山の右奥にわずかに噴煙が見える。しばらく噴火活動が落ち着いていたが、最近再び、活発化して入山規制となった。

コメント (6)    この記事についてブログを書く
« 房総半島一望の高宕山 | トップ | 利根川水源 丹後山・大水上山... »

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして (niceshotpete)
2017-03-17 12:56:11
読者登録させていただきました。
焼山が紹介されるとき、必ず3名の遭難について語られますが、詳細をご存知の方の文章を拝見するのは初めてです。大変な体験をされたのですね。
一度は登ってみたいと思っていますが、入山規制が解除される日はなかなか来ないでしょうね。
金山には近いうちに行こうと思ってます。

新潟の山に多く登っていらしゃいますね。
今後とも宜しくお願い致します。
返信する
niceshotpeteさん (山花旅)
2017-03-18 16:53:46
コメントありがとうございます。
景色がいい、花が咲いている所では、故人らの写真を取り出して、一緒に眺めています。私にとって、安全登山のお守り写真です。
新潟の山は個性豊かで奥深さがあり、とても好きです。niceshotpeteさんのブログには新潟の情報が詰まっているので、山登りの参考にさせていただきます。
返信する
はじめまして (RUMMY)
2020-08-15 16:37:53
新潟焼山の噴火で亡くなった3名のうちの1名が、当方の叔父にあたります。
当時、当方は生まれたばかりだったため、のちに話で聞いただけでした。
いつか、叔父の亡くなった場所をこの目で見てみたいと思いつつも、時間ばかり経ってしまいました。

検索しても新聞記事がほとんどでしたが、今回こちらのブログで初めて、当時の様子が文字で綴られているのを読ませていただきました。
当時の様子やその場の雰囲気が目に浮かぶ思いです。

投稿から3年以上経っており、ご迷惑かと思いましたが、コメントさせていただきました。
貴重な体験談、ありがとうございました。
返信する
RUMMYさん (山花旅)
2020-08-15 21:40:25
 コメントありがとうございます。
 もう46年も経ってしまいました。
 当時の3名が所属したクラス追悼文集(ガリ版づり)を引っぱり出して再読しました。みな、自然志向でやさしい人柄が思い浮かびます。たぶん、遭難報告書とともにご実家にあると思います。
 時を思い浮かべると、腐った体の息子を抱き上げようとする母親の姿です。親子の絆の強さを感じました。
 今は細々と山歩きをしていますが、大きなケガや事故がないことは、彼らが見守ってくれていることと思います。
 
返信する
星野道夫氏のエッセイから (ツバメ号のロジャ)
2021-05-28 19:43:38
故星野道夫氏のエッセイ「一万本の煙の谷」で、この事故のお話がでています。遭難された方のひとりが 星野氏の中学からの御親友だったそうです。

腐敗が始まった息子の遺体を抱きしめる母親のところで私も涙があふれ出てしまいました。もし、事故に遭わなければ、今頃は孫も居る年代だったでしょうに。

山と花の美しい写真の掲載、ありがとうございました。
返信する
ツバメ号のロジャさん (山花旅)
2021-05-29 18:15:41
 星野道夫さんとこんな関係があったこと、初めて知りました。早速、エッセイ本を図書館で予約しました。情報ありがとうございます。
 若かった当時はショックが大きかったですが、今は母親の愛情が身にしみて分かります。 
返信する

コメントを投稿