自宅は福島市東部の阿武隈川に近い所。広い河原状の地形は野菜作りに向いていて、かつては市内の野菜供給地として畑が広がっていた。阿武隈川に堤防ができるまでは大雨が降るたびに水害に悩まされていた地。江戸時代の中期以降に米沢藩の許可を得て開発に入ったのが我が家の御祖先様と聞いている。それ以前の記録は無いので不明なり。
何気にネットにてルーツを調べて見ると、関東のある地域が由来とする説や、京都近くの古城から読みをとって当て字にしたとか諸説。中でも愛知県知立市重原説が読みも書きも同じで、知立市が我が一族の始まりかなと思い始めた。重原鴫原二つの姓に分かれたのは、織田方の家臣が今川への防備を固める為に荘屋を平城にして備えたが、今川勢に敗れて廃城になった頃。分かれた片方が郡山方面に来たと、ザックリな話です。地元に残った一族は真宗大谷派高福寺を興したとされる。更に古い記録とかもありそうで興味もありますが、この辺りが区切りかも。計算上では祖先を七百年辿ると日本人は皆親戚になってしまうとも言われますし。
かの地にはこれより福嶋領と記された石柱があるとか。福嶋違いじゃないのと思ったが、そこにも福島と知立市の不思議な因縁のような物があった。以下は転載です。↓
この地は元々刈谷藩領であったが、寛政2年(1790年)に苅谷藩内で起こった「寛政の一揆」により、その“杜撰な領内管理”に対する処分として幕府に福島藩領との領地替えが命ぜられた。
一方で、現在の福島県福島市を拠点としていた福島藩板倉氏の側は、天明の飢饉(1783年)などによる財政の圧迫により幕府に領地替えを嘆願しつづけ、刈谷藩の失態を契機にちょうど幕府と福島藩両者の思惑が一致し、刈谷藩領一万三千石と福島藩領一万石そして天領三千石が替え地となった。
この飛領地を管理するために福島藩によって重原陣屋が設けられた。
伊達藩とか岡山と福岡の件とか歴史は調べると面白い。
母親の実家は福島県古殿町で、阿武隈山系南部の静かな山里です。その実家も古い家系で源平合戦の頃に逃れてきてこの地に住み着いたと、口伝ですが。一族の本家であり、今は無い旧家には古い書物や武具などが有りましたが、お宝などの価値のある物は既に無いとか。叔母が若い頃、価値のありそうな日本刀を屋根裏に隠していたらいつの間にか無くなっていたとか、今も残っていればと、残念がっています。調べるとどちらの家系も結構古い事が細やかな驚き。菩提寺に古い資料が残っていればもう少し辿れそうな気もするのですが、さて