トライランダーの蔵出し写真館 第2号

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本ブログ

貝塚線について考える 4

2010-01-23 20:53:00 | 私鉄
さて、貝塚線は西鉄発足以来2度目の転機を迎えることとなる。
1954年3月に新博多(同時に千鳥橋に改称)-西鉄多々良(同時に競輪場前に改称・後に貝塚に改称)間を改軌するという思い切った政策で市内線乗り入れを果たした宮地岳線であったが、筆者はこの政策が果たして宮地岳線の積極的活用を目的とするものであったかどうかには、疑問を感じている

ここで接続駅が何故競輪場前駅となったのかを推測してみたい。
現代的な思考から考えると、改軌区間の終点に成り得る可能性がある拠点駅として、津屋崎・古賀・三苫・新宮・和白・香椎等が挙げられよう。特に香椎は副都心としての発展が目覚ましい地域である。

しかし改軌区間が千鳥橋-競輪場前間僅か3.3キロに留まった理由として、1954年3月の時点で糟屋郡で町制を施行していた自治体が、香椎町(1943年町制)のみに留まっていたことを考慮する必要があろう。この時点においては和白村、新宮村にはまだ本格的な市街地の形成が見られないものと推測される。

宗像郡にまで目をやれば福間、津屋崎はどちらも町制を施行していたが、福岡都心から距離的にかなり遠く、速度の遅い路面電車化による所要時間の増加がデメリットとなり、選択されなかったものと推測される。

となれば香椎までの乗り入れが考慮されたであろうが、競輪場前駅東側にコンクリート製の多々良川橋梁が存在したことが最大のネックとなったであろう。複線化用地は福間-宮地岳間まで既に確保されていたようであるが、橋梁が単線規格であり、資金的問題から複線化を断念したものと思われる。

また、宮地岳線の輸送人員は1945年度の年間8858千人に対し、改軌前年度は8049千人と頭打ちであったのに対し、福岡市内線は1945年度の68738千人から97822千人へと、大幅な伸びを示していた。更には車両数においてもこの10年間で30両程の増加をみていた。その為に宮地岳線側の事情というよりも、市内線の車庫用地の確保という側面があったのではないかとの結論に至ったのである

事実この1954年には西鉄軌道線黄金時代を彩る1000形が登場しており、13年後の1967年には車両数194両と、実に1954年に比較して48両の増加をみせるのである。

頭打ちであった宮地岳線の輸送人員も、1950年代後半に入ると、第1次ベビーブーム世代の通学需要や第1次産業から第3次産業へと産業構造の転換、さらには和白・新宮両村の町制施行と人口増による予想需要の高まりで、列車運行間隔も30分毎から13分毎と大幅に増加され、年間1千万人を超えるようになる。千万人台は1961年から68年まで維持され、貝塚線はここに第1次全盛期を迎えることとなる。




貝塚-名島間に存在する多々良川橋梁。当時宮地岳線積極的活用の方針があれば香椎乗り入れが望ましかったであろうが、ここの複線化はネックであったと思われる。

貝塚線について考える 3

2010-01-20 20:43:00 | 私鉄
このような状況で西日本鉄道の一員となった貝塚線であるが、1954年に大きな変革を迎えることとなる。起点であった新博多から3.3キロ先の競輪場前(現・貝塚)までを改軌、電圧降下、複線化し、市内線に取り込んだのである。高速鉄道から路面電車へという時代に逆行した政策であったように思えた。

ちなみに国鉄線とほぼ並行し、後背地の極めて狭い貝塚線と似たような性格を有した類似路線に、阪神本線、静岡鉄道静岡清水線、広島電鉄宮島線があった。これらの路線は並行する国鉄線に対し、速度は遅いながらも圧倒的な本数、短い駅間距離で中間利用客をうまく取り込み、優位に立っていた。阪神、静鉄においては軌道が発祥であり、順次専用軌道化、大型車両化で優位な立場を確固たるものとした。

これに対し軌間、電圧が市内線と同じであったにもかかわらず西広島駅で乗り換えを要していた広島電鉄宮島線は、貝塚線一部市内線化の後の1962年、市内線の低規格、小型車両により鉄軌道直通を果たしたのである。
そして1991年には鉄道線用大型車は全廃され、名実ともに市内線と一体のネットワークを築くこととなった。

規格が低下した反面、中心市街地へ乗換無しでの移動が確保され、その後も先進的な車両開発によるサービス改善に努め、利便性を維持したままJR発足後も一定の競争力を保っている。これは軌道から鉄道へと進化してきた都市鉄道の「進化論」の逆行が唯一成功した例と言ってよい。

この事実から、貝塚線一部軌道化は、広電に先駆けての先進的政策であった、と好意的に捉える事が出来るもしれないが、実は当時の状況を考えると貝塚線を生かすというよりも、市内線側に事情があったという側面が推察されるのである。


貝塚線と似た環境にあった広電宮島線。全線の軌道化という政策で直通を果たした。

貝塚線について考える 2

2010-01-19 21:56:00 | 私鉄
さて、そのような経緯で新博多までの乗り入れを果たした湾鉄であるが、和白以北についてもその存在価値、建設理由は不透明である。「宮地岳線」と名付けられたことから、宮地岳神社参拝客の輸送が主体と考えるべきであろうが、実際は博多-福間-飯塚間を結ぶ路線として、1922年に免許を取得している。

しかし飯塚へ到達することが出来ず、頼みの綱であった石炭輸送が出来ずに資金不足に陥った。その為延伸が実現できず、さらに資金不足に陥る、という悪循環の中で昭和恐慌へと突き進み、結果的に宮地岳という誠に中途半端な場所をせざるを得なくなったと推測するのが妥当であろうか。

宮地岳が終点となったのは、当時沿線において沿線は箱崎町、津屋崎町、福間町以外は全て村であり、人口の集積がある程度あった拠点として、選択したものではなかろうかと考えられる。ただ、宮地岳駅周辺は津屋崎町ではあったものの、津屋崎千軒として名を馳せた津屋崎の中心街へは乗り入れていなかった。これは、前述の通り飯塚へ向かうことを意図して建設された路線であり、津屋崎中心部へはかなりの迂回ルートを取らざるを得ない為、考慮されなかったものと考えられる。

そもそもこの時代の鉄道というものは貨物を運ぶために作られるのが常識であり、貨物輸送の見込めない路線は無価値といっても過言ではなかった。しかし、そんな中に苦境を打破するため、開業2ヶ月後に箱崎宮前仮停留場を設置、宮地岳駅近くに海水浴場を設置するなどの事業の多角化も進めていった。

そして1942年、5社合併により西日本鉄道が成立すると、投資の中心は①北九州線②大牟田線③福岡市内線(②③の順位については異論も多々あろうが)④その他、となり、以前にも増してお荷物的存在となっていく。

この5社合併に関しては、多くの識者が「博多湾鉄道、筑前参宮鉄道の救済合併」の側面を色濃くしたものであると考えられているようであるが、『西日本鉄道100年史』より、合併時の各社の財務内容を見ると、

・平均株価 九軌57.73円、九鉄67.49円、湾鉄69.11円、福博60.07円、参宮63.57円
・総資産利益率 九軌5%、九鉄6.1%、湾鉄7.9%、福博14.7%、参宮9.7%

と、さほど2社の財務内容が悪くないのがわかる(株価の時価総額は資料不足により、解明できなかった)

配当率に関しても、九州鉄道が1938~40年まで無配であったのにもかかわらず、湾鉄は40年下期において9%の配当を実現しているし、当期利益に関しても40年下期の実績においては、九鉄427千円、湾鉄487千円と、数字は遜色なかった。旅客輸送量は九州鉄道の6分の1の水準であったとはいえ、貨物輸送黄金期故に、維持することが出来ていたのである。その後、現・香椎線を分離した後の1949年においても、旅客輸送人員は鉄軌道全体の2.4%に過ぎなかったが、貨物輸送量は52%を占めていたのである。


かつて宮地岳線とともに博多湾鉄道汽船を構成したJR香椎線。和白駅は両線の合流駅であった。

貝塚線について考える

2010-01-18 22:27:00 | 私鉄
初めに、特に注記の無い限り、線名の表記は以後「貝塚線」で統一する。

西鉄貝塚線と、福岡市地下鉄箱崎線の相互乗り入れに関しては、昨日に持論を述べたが、貝塚線がこのように中途半端で、立地を生かせていないことには何らかの原因があると考えるのが必然的であろう。

そもそも貝塚線は、成立自体その意図が読み取れない存在である。大正13年に宇美-西戸崎間を運行していた博多湾鉄道汽船の別線として新博多-和白間の開業に始まったが、省線鹿児島線と完全に並行しており、箱崎宮や香椎宮の足としても中途半端と言わざるを得ない路線であった。

湾鉄最初の路線となる西戸崎-宇美間にしても、そもそも石炭の輸送を念頭に置いて敷設された路線であろうが、最大の炭鉱であった志免炭鉱への路線は後回しとなり西戸崎-須恵間が最初に開業するなどその成り立ちには聊か理解しがたい経緯がある。石炭の積み出しにしても、博多港や箱崎ではなく西戸崎という採炭地から離れた小さな港湾を選択した意図もよく分からない。ただ、福岡市のうち旧志賀町の区域のみ2000年ごろまで産炭2条に指定されていたため、こちら側でも石炭を交えた開発を意図していたのかもしれない。

貝塚線に本題を戻すが、箱崎宮は香椎から鹿児島線に乗り換えれば十分であるし、香椎宮に至っては現・香椎線の方が近い。こんな状況でも新線を建設した最大の理由は湾鉄自力で都心乗り入れを考えたのかもしれないが、わざわざ市街地に費用をかけて新線を建設するよりも、制約は多いながら省線乗り入れの方が経費もかからなかったでであろうし、ターミナルとして選んだ新博多は路面電車と接続こそあったものの、御笠川の対岸にある博多都心までは2キロ以上離れた寒村で、拠点性など皆無であった。


そしてこのターミナルの立地の悪さは、その後の発展に大きな足枷となる。


廃止直前の津屋崎駅に停車中の300形。末期において2両または3両編成で13分間隔は、明らかに輸送力過剰であった。

西鉄貝塚線・地下鉄箱崎線相互乗り入れ

2010-01-17 19:51:00 | 私鉄
16日の読売新聞に、福岡市が地下鉄と西鉄貝塚線の相互乗り入れについて2案を検討しているとの記事が掲載された。
地下鉄箱崎線と、西鉄貝塚線の直通は、1971年から構想があり、86年の地下鉄貝塚延長の後2003年に直通運転を合意するとか何とか(西鉄からの正式発表ではないようだが)、二転三転してきた経緯がある。

貝塚線は人口集積地帯を走る都市鉄道ではあるが、①並行路線の存在②ターミナルの立地の劣悪さにより開業以来苦杯を味わい続けていた。同じような条件を持つ地方路線としては、①静岡鉄道②定山渓鉄道、JR札沼線、名鉄瀬戸線、小牧線、国鉄勝田線等が存在した。

しかし静岡鉄道は都心部に直接乗り入れ、さらに運行頻度の高さ、駅間隔の短さで国鉄時代の東海道線に対し有利な立場に立ち、定山渓鉄道は地下鉄への転用という形で発展的解消、札沼線は札幌乗り入れと駅新設、複線化で驚くべき変身を遂げ、名鉄瀬戸線は自力での栄乗り入れ、小牧線は上飯田連絡線の建設といった手術を受けた。

それに対し何の戦略も打ち出すことのできなかった勝田線はあえなく廃止、貝塚線も乗客減により新宮以遠の廃止と凋落の一途をたどることになった。

貝塚線と地下鉄が直通運転したところで、運賃体系の問題や貝塚線の商圏(?)の狭さといった所の問題が大きすぎて、双方に(特に民間企業である西鉄)費用対効果を実現できるだけのメリットがあるとは到底思えない。

特に西鉄においては、自社のバス事業に打撃を与えることになるであろうし、貝塚以遠の運賃収入が入る訳でもなく、全く乗り気ではないことは市側も百も承知の筈である。

それよりも川島某氏のような絵空事の域を出ることはないと思われるが、JRと地下鉄の短絡線を作り、交直流ではあるが直通運転した方がよほどメリットがあると思われる。

私は都市工学の専門家ではないため、費用がいくらかかるかはわからないが、韓国では交直流直通の地下鉄が存在するし、日本においてもつくばエクスプレスは事実上の交直流地下鉄といっても過言ではないであろう。

これにより貝塚線との直通運転では恩恵の生まれない北九州・宗像・古賀という人口の集積地から天神へ直通することが出来、対費用効果も少なくとも貝塚線と直通運転を行った場合よりは好成績を収めることが出来るであろう。

鹿児島本線は完全な幹線鉄道、箱崎線は今でさえ過剰設備気味であり、双方のスケール・メリットが生きることとなる。

所要時間は快速で小倉-天神間75分程度であり、現行より10分程度の短縮、運賃はJR1250円、地下鉄250円の1500円であるが、割引切符を設定し1200円程度とすれば良いであろう。

しかし来年の九州新幹線・博多駅新駅ビル開業を控え、社運をかけて博多駅の拠点性強化を意気込んでいるJR九州が、天神に塩を送るような真似をするとは思えないので、実現は極めて困難であろうことは百も承知であるが。


宮地岳線時代の300形。冷房改造され最低限のアコモデーションは満たしていたものの、大手事業者が60年も前の車両を現役で使わざるを得ない状況は異常事態であった。90年代より野上電鉄、蒲原鉄道、新潟交通、西鉄北九州線といったあまりに時代遅れの車両を置き換える事のできなかった路線は悉く廃止に追い込まれている。その点、宮地岳線の部分廃止も必然的なものであったのかもしれない。