トライランダーの蔵出し写真館 第2号

http://blog.livedoor.jp/hjmcp604/?blog_id=1266593
本ブログ

貝塚線について考える

2010-01-18 22:27:00 | 私鉄
初めに、特に注記の無い限り、線名の表記は以後「貝塚線」で統一する。

西鉄貝塚線と、福岡市地下鉄箱崎線の相互乗り入れに関しては、昨日に持論を述べたが、貝塚線がこのように中途半端で、立地を生かせていないことには何らかの原因があると考えるのが必然的であろう。

そもそも貝塚線は、成立自体その意図が読み取れない存在である。大正13年に宇美-西戸崎間を運行していた博多湾鉄道汽船の別線として新博多-和白間の開業に始まったが、省線鹿児島線と完全に並行しており、箱崎宮や香椎宮の足としても中途半端と言わざるを得ない路線であった。

湾鉄最初の路線となる西戸崎-宇美間にしても、そもそも石炭の輸送を念頭に置いて敷設された路線であろうが、最大の炭鉱であった志免炭鉱への路線は後回しとなり西戸崎-須恵間が最初に開業するなどその成り立ちには聊か理解しがたい経緯がある。石炭の積み出しにしても、博多港や箱崎ではなく西戸崎という採炭地から離れた小さな港湾を選択した意図もよく分からない。ただ、福岡市のうち旧志賀町の区域のみ2000年ごろまで産炭2条に指定されていたため、こちら側でも石炭を交えた開発を意図していたのかもしれない。

貝塚線に本題を戻すが、箱崎宮は香椎から鹿児島線に乗り換えれば十分であるし、香椎宮に至っては現・香椎線の方が近い。こんな状況でも新線を建設した最大の理由は湾鉄自力で都心乗り入れを考えたのかもしれないが、わざわざ市街地に費用をかけて新線を建設するよりも、制約は多いながら省線乗り入れの方が経費もかからなかったでであろうし、ターミナルとして選んだ新博多は路面電車と接続こそあったものの、御笠川の対岸にある博多都心までは2キロ以上離れた寒村で、拠点性など皆無であった。


そしてこのターミナルの立地の悪さは、その後の発展に大きな足枷となる。


廃止直前の津屋崎駅に停車中の300形。末期において2両または3両編成で13分間隔は、明らかに輸送力過剰であった。