二人の借りてゐる二階の硝子窓の外はこの家の物干場になつてゐる。その日もやがて正午ちかくであらう。どこからともなく鰯を焼く匂がして物干の上にはさつきから同じ二階の表座敷を借りている女が寝衣の裾をかゝげて頻に物を干してゐる影が磨硝子の面に動いてゐる。
「ちよいと、今日は晦日だつたわね。後であんた郵便局まで行つてきてくれない。」とまだ夜具の中で新聞を見てゐる男の方を見返つたのは年のころ三十も大分越したと見える女で、細帯もしめず洗ひざらしの浴衣の前も引きはだけたまゝ、鏡臺の前に立膝して寝亂れた髪を束ねてゐる。
「永井荷風 ひかげの花」永井壯吉著 中央公論社 昭和二十一年
富翁
「ちよいと、今日は晦日だつたわね。後であんた郵便局まで行つてきてくれない。」とまだ夜具の中で新聞を見てゐる男の方を見返つたのは年のころ三十も大分越したと見える女で、細帯もしめず洗ひざらしの浴衣の前も引きはだけたまゝ、鏡臺の前に立膝して寝亂れた髪を束ねてゐる。
「永井荷風 ひかげの花」永井壯吉著 中央公論社 昭和二十一年
富翁