ミャンマー・日本語学校ブログ

ミャンマーでの生活、教育、ビジネスなど
ヤンゴン在住12年の作者がお届けします。

デジタルカメラ

2007年03月31日 | ミャンマーでの生活
2003年8月に買った日本製のデジタルカメラ(某キャノン製IXY30)。
ミャンマーの厳しい気象条件についていけないらしく2回も故障してしまった。光学ユニットのセンサー部分がやられるのである。保管には十分注意しキャノンの代理店から言われた、
1.湿気が集まるところには置かない 2.電磁波の強いところには置かない
3.直射日光に当てない 4.車内など高温になるところに置かない
5.洋服ダンスの中に置かない(どうして?) 6.砂埃が立つところで使用しない
7.ぬれた手で触らない
を実践しショーケースの中に保管していたのだが、それでも2回目の故障中である。
使用頻度は1ヶ月に1度くらい、年間のプリント数は100枚程度なのに。。。。
故障までは許せるとして、修理センターの対応は本当にひどい。1月15日に修理に出したのだが、2ヶ月半過ぎた今日どうなっているか確認に行ったところ、「まだ、部品が日本から来ません。」である。じゃ、いつ部品が来るの?と聞くと「知りません」。
光学ユニットがやられるのは、自分のカメラだけではない。他の顧客のカメラもかなりの頻度でやられていることはわかっているのに、なんで予備部品を置いておかないのだろう。その点を追及すると、「社長の方針だから部品は置きません」とのこと。じゃ、何のための代理店なの?こんな代理店、資格を剥奪してほしい。(キャノン本社の人、聞いていますか?)
本当に今日はブチキレしてしまった。修理センターの担当者が最後に言った言葉
「私たちはいつもお客様に申し訳ないと思っています。」
じゃ、何とかしてよ!

カンニング

2007年03月30日 | 日本語学校
今日は漢字2級クラスの最終試験を行なった。3ヶ月で漢字750個を教えるハードなクラスである。
試験風景も日本とはかなり違っている。まず、座っている姿勢の悪さだ。まっすぐ座ることができなくて、机に対して斜めになっている生徒が多い。中には90度紙を傾けて半身の姿勢で書いている子もいる。これは小中学校などで4人掛けのいすに6人がぎゅうぎゅうづめになって座り、ひじを横に張ることができないため、半身になって字を書いていた癖が残っているためである。
「まっすぐ座りなさい」と注意するが、すぐに元の姿勢に戻ってしまう。
斜めになるので、後ろに座っている生徒からみると前の人の解答用紙が丸見えになっている。だから、あちこちで堂々とカンニングしている。カンニングは意外にも女子生徒のほうが多い。
注意すると、しばらくは従うのだが、10分もするとまたカンニングしている。中には答えを教えあっている子もいる。どうやらカンニングに関しては罪の意識がないようだ。仏教では公正とか正義とかの観念を教えないのだろうか。

ネピドー?

2007年03月29日 | ミャンマーでの生活
27日の国軍記念日の式典は新首都、「ネーピードー」で行われた。この日初めて外国メディアの撮影が許可されたとのことで、NHKの朝のニュースでも映像入りで詳しく紹介された。ところが、NHKアナウンサーの発音も字幕も「ネピドー」となっていた。
ミャンマー語の発音から正しく表記すれば「ネーピードー」でなくてはならない。他の新聞社なども「ネピドー」に統一されつつあるようだ。「ネピドー」と言うとかなりおかしな感じがする。「東京」を「ときょ」と発音しているようなものだ。どなたが「ネピドー」と決めたのか知らないが、早く直してほしいと思う。

寝違える

2007年03月28日 | ミャンマーでの生活
今日は国軍記念日。どこも行かないでゆっくり過ごした。どうやら昨日の晩、寝違えたらしく、首を少し動かしただけでずきっと痛い。階段を降りようにも、下を見ることができない。とても危険なのでどこも行かないほうがいい。
寝違える=「無理な方向にからだを向けたまま寝ていた(眠っている間に不自然にからだを動かした)ため、首や腕の筋を痛める。」と辞書にあった。寝相はいいほうなので、寝違えたのは大学生時代以来、本当に久しぶりのことだ。
ミャンマー語では「オウン(枕)ルエーデー(違える)」と言う。「寝違える」ではなく「枕を違える」となる。面白いと思った。妻に話すと、枕で思いっきり首筋をひっぱたくと直るという。でも、怖かったので自然に治るまで待つことにした。

懐かしい味

2007年03月27日 | レストラン・食べ物情報
今日は一人で昔懐かしいNレストランへ行った。このレストランは市内の大通り、パンソーダン通りにある。開業が1968年という中華レストランの老舗だ。私がミャンマー(当時のビルマ)を最初に訪れたのは1983年3月だった。その頃のヤンゴン(当時のラングーン)は市内もとても静かで、車も少なくタクシーはほとんどなかった。その頃のレストランと言えば、このNレストランとスーレーパゴダ前のMレストランくらいだった。その頃毎日のようにお世話になっていたのがNレストランである。一人で行ったのには訳がある。一人でゆっくりと当時を思い出したかったこと、そして味のまずさである。とても人を誘えるような味ではない。でも、当時はまずいと思いながらも、おいしく感じたものだ。なぜなら、他に食べるところがなかったからだ。メニューの中から海老の甘酢炒めを注文した。異常に甘く、新鮮でない海老と腐りかけたトマトとのコンビネーション。実に当時の味そのものである。本当に懐かしい!何十年もの間、ずっとこの味を継承しているのだろう。犬の餌を入れるような器からご飯を盛ってくれた。これも当時と全く同じだ。ご飯も臭くて、とても食べられたものではない。これも当時を思い出させてくれる演出だろうか。でも、そろそろ味を改善しないと店の経営が危なくなるだろう。広い店内に、お客さんは私一人だけだった。最近は清潔でおいしいレストランがたくさん開店してきているのだから。。。。でも、四半世紀前のレトロな味をあじわいたい方はどうぞ。

オーバーステイ?

2007年03月26日 | ミャンマーでの生活
学生には日本へ行ってもオーバーステイするなよといつも言っているのだが、自分の下の娘をミャンマーでオーバーステイ(?)させてしまった。
下の娘はヤンゴンで10月1日に生まれた。4月に日本へ連れて行くので、2月に日本のパスポートを取った。そして、滞在許可をもらうために3月20日に申請した。その間の48日がオーバーステイになるそうで、一日3ドル、合計で144ドルのオーバーステイ代を払うはめになった。
上の娘はいつも無料で滞在許可を更新できているので、下の娘も無料でできるだろうとのんびりしていたのが失敗だった。ヤンゴンで子どもが生まれた場合は、パスポートを取ったその日から入国したことになるので、注意が必要だ。といっても、他の日本人たちはヤンゴンで出産する人は少ないだろうけど。パスポートを取らなければ、滞在許可も必要はないそうで、5歳になる娘さんを持つある日本人はまだパスポートを取っていないとのこと。

どうして手書き?

2007年03月25日 | 日本語学校
学生さんから、大学の証明書や成績表の日本語翻訳を頼まれることがよくある。今日はコンピューター大学の卒業生から大学卒業証と成績表の翻訳を依頼された。
卒業証書も成績表も手書きである。コンピューター大学なのに、どうしてコンピューターを活用しないのだろうか。ミャンマーでは成績表を発行してもらうのに1週間とか、かなりの時間がかかる。ファイルの山から担当者が探し出して、いちいち手書きで書くので時間がかかるのであろう。データベースソフトを使えば簡単にできるのになあ。
私は文系の出身でコンピューターとは無縁であるが、データベースソフトを使って日本語学校の事務を全てコンピューター化した。
学生の登録(名前、誕生日、身分証明番号、学歴、住所などの個人データ)、出席、試験の点数、授業料などを全て一つのデータベースとして蓄えておく。
そうすれば、出席証明書、履修証明書、成績表、修了証など必要なときに3分以内に発行することができる。会計とも連動させ、授業料の納入状況まですぐにチェックできる。本当に便利である。
コンピューター教育を売りとする私立の幼稚園も有名英語学校も生徒の情報管理は手書きのノートである。ヤンゴンで一番有名な航空券販売代理店や写真屋さんでさえ、ノートに記入して管理している。こういう光景を見ていると、無料でシステムを作ってあげたくなってうずうずしてくる。
ミャンマーではコンピューターはあちこちに普及しているのだが、活用というまでには至っていないようだ。



ブログ1ヶ月経過

2007年03月24日 | ミャンマーでの生活
このブログを始めて気づかないうちに1ヶ月がすぎた。今のところ皆勤賞である。昨日とおとといの記事がヒットしたらしく、一日の閲覧数が150を超えた。毎日閲覧していただいている方もいる。
ブログは毎日更新することに意義がある。頑張って続けていきたいと思う。
ところで、昨日とおとといの記事、安倍首相にも伝わってほしい。安倍首相のご夫人(昭恵さん)は隠れミャンマーファンと聞いている。何度もミャンマーに来たことがあるそうだ。ヤンゴン市内の某Nホテルに宿泊したらしい。昭恵夫人のブログにもミャンマーとの関わりについての記事があった。
ご夫人の影響で日本首相のミャンマー公式訪問が何十年ぶりに実現となればよいが。。。
資料によると
昭和49年 田中角栄首相
昭和52年 福田赳夫首相
昭和58年 安倍晋太郎外務大臣
最近では
平成14年 川口順子外務大臣(ASEAN会議の後、来緬)
がミャンマーを訪問している。安倍外務大臣は現在の首相のお父さんである。でも、首相が来ても何も成果がなければ意味はないが。。。。。

日本の入管に物申す(2)

2007年03月23日 | 日本語学校
怒りが爆発しているときに、また今日も学生が相談に来た。なんと昨日書いた不交付理由と全く同じ理由(「前回の不交付理由の説明がない」)で不交付にされたと言って、もう半泣きの状態だった。これで3回目の不交付だと言う。彼女はヤンゴン外国語大学で日本語を3年間勉強し、日本語能力試験2級に合格、日本留学試験(EJU)で200点以上のスコアを得るなど優秀な学生である。アメリカに経費支弁者がおりヤンゴンの実家も大きな邸宅と自動車修理工場を経営する裕福な家庭で、留学生として何も問題はない。
高校を卒業した頃からずっと日本にあこがれを持ち、日本に留学することを夢見て、こつこつと努力してきた彼女のような学生をなぜ日本入管は排除するのだろう。本当に残念でたまらない。
最近の傾向を見ていると、日本の入管は優秀な学生を排除し、そうでない学生にビザを与えているように感じる。先週挨拶に来た生徒は、初級クラスの半分も終わっていない男子生徒でほとんで何も話せない。「えっ!なんでこんな子にビザが出るの?」と驚いてしまった。彼の経費支弁者は日本人だという。最近は日本人の経費支弁者なら、ほとんどビザが交付されているようである。これもおかしい!
私がミャンマーに来た1997年頃は1.「日本人の保証人が必要で日本人経費支弁者でなければビザが出ない時代」だった。その後、方針が変わって、2.「日本人の保証人は必要なくなり、経費支弁者は両親など限られた近親者である」となり、そして現在は
3.「ミャンマー経費支弁者は信用できない。日本人経費支弁ならよい」とまた変化している。このように方針がコロコロ変わるので、この被害に遭っている生徒も少なくない。
2.の時代に日本人保証人を立てて不交付になり、再挑戦として今度は3.の時代にミャンマー経費支弁を立てた生徒は3度不交付になっている。彼女もヤンゴンでガイドとして活躍している優秀な学生だ。まさに不交付というより「不幸付」である。
このように優秀な学生を排除している例は数え切れないほどある。日本は10年後に労働人口が300万人足りなくなるという。ミャンマーの青年は勤勉で働き者だ。ミャンマーの青年は日本の労働力不足を補完してくれる有望な人材であることは間違いない。もっと留学ビザの審査にあたっては、制度や方法を見直して改善してほしいと思う。

日本の入管に物申す(1)

2007年03月22日 | 日本語学校
最近、留学ビザを申請したのに日本の入管で不交付になったと相談にやってくる学生がやたらに多くなった。日本入管は要注意国として中国、ミャンマー、バングラデシュ、モンゴルを指定し、その国籍者が留学ビザ・就学ビザを申請する場合、厳格審査と称して以下の書類を提出させている。
1.在留資格認定証申請書 2.写真 3枚  3.履歴書(ミャンマーの教育制度の通り5-4-2となっていること。小学校入学が5歳であること。学歴にブランクがないこと。ブランクがある場合はその説明および証明書をつけること。)
4.最終学歴を示す証明書(身分証明カードと証明書の生年月日が異なる場合は、その事情説明および宣誓書が必要)とそれぞれの日本語訳。
5.日本語能力を示す証明書(4級以上)6.経費支弁者の預金残高証明書(ミャンマー語で書かれている場合はその日本語訳)
7.経費支弁者の預金通帳の写し(過去3年分)(一度に大量入金がある場合はその事情説明。参考資料として資産の売買契約書および領収書など。全て日本語翻訳必要)
8.経費支弁者の収入証明書(過去3年分)(政府など公的機関が発行したもの。)
公的な証明ができない場合は、資産形成過程を説明した説明書とその日本語訳。
陳述書に添付する売買契約書、不動産権利書などとその日本語訳。
9.経費支弁者の納税証明書(過去3年分)(政府など公的機関が発行したもの。)
 納税領収書の控えとその日本語訳。
10.経費支弁者の在職証明または事業許可証と日本語訳。(許可証は有効期間が残っていること)
11.本人と経費支弁者の関係を証明する書類(住民票または身分証明で関係を立証できない場合は、関係を証明する宣誓書とその日本語訳。)
12.住所を証明する書類(住民票)と日本語訳。
13.本人を証明する書類(身分証明カード)と日本語訳。
14.学歴を証明する書類(卒業証書など)の真偽確認。日本の学校がミャンマーの学校に 電話をかけて、卒業証書が本物かどうかを確認する。
学生によっては一人で100ページ以上にもなる膨大な書類の束を提出させ、それを入管が3ヶ月も時間をかけて審査するのである。これだけの膨大な書類を申請者が費用と手間をかけて完璧に揃えたとしても、ミャンマー国籍の場合は不交付になることが多いのである。以下はその不交付の理由のサンプルである。
1.大学在学証明書に修正液で直したあとがある。→不交付
2.身分証明カードと高校卒業証書の誕生日が異なる。→不交付
3.ミャンマーの教育制度では小学校が5年、中学校が4年、高校が2年であるはずなの に、履歴書にそうなっていない。→不交付
4.高校卒業証書の卒業した年と発行日が著しく異なる。→不交付
5.銀行残高が少ない。(支弁能力がないとみなされる)→不交付
6.収入証明書では収入がたくさんあるのに、税金は少ししか納めていない。収入証明書 は信用できない。→不交付
7.UFL(ヤンゴン外国語大学)の卒業証書に写真がない。
 (他の大学では写真がある)→不交付 (次回からは交付されるようになった)
8.ミャンマーでは満5歳で小学校に入学するのに4歳で入学している。経歴に疑義あり →不交付
9.大学で英語を専攻したのに、なぜ日本へ行きたいのかわからない。留学目的に疑義あ り→不交付
10.UFLを日本語専攻で卒業したのに、なぜ日本語学校でもう一度日本語を勉強するのか わからない。→不交付
11.事業許可証の有効期限が切れている。→不交付
12.収入証明を親が自分で作成しているので、信用できない。公的機関が作成すること   →不交付
13.高校卒業証書の日付の字がかすんでしまい、見えない。→不交付
14.銀行通帳のコピーがうすくて見えない。→不交付
15.銀行通帳のコピーに字を改ざんした跡がある。→不交付
16.日本語学校で勉強したい理由が不明確。→不交付
17.経費支弁者が不適当(経費支弁者が友人であったり、親族関係でも血縁が薄い人で はだめ)→不交付
18.送金方法が不明確(ミャンマーの銀行から送金すると書いている。実際は不可能)
  →不交付
19.住民表には民族が「中国人」と書いてあるのに、他の書類には「ビルマ人」となっ  ている。→不交付
20.履歴書にはMODERN TECHNOLOGYを勉強したいと書いているのに、就学理由ではデザイ ンを勉強したいと書いている。矛盾している。     →不交付
21.銀行通帳に一度に大量に入金している。事情説明なし。 →不交付
22.日本語能力4級の証明書がない。→不交付
23.日本語を何時間勉強したかの証明書がない。(規則では150時間必要です)→不交付
24.高校を卒業したあと、大学に入学するまでに2年ある。この期間に何をしたかの説明 がない。→不交付
25.大学を卒業してからもう5年以上経過している。なぜ今、日本へ行きたいのか理解で きない。→不交付
26.なぜ日本に留学したいのか、理由がはっきりしていない。→不交付
27.名前が高校卒業証書ではMAUNG なっているのに、住民票ではU となっている。名前が違う。(どちらも男性を表す敬称です。)→不交付 
28.申請書類の住所と住民票の住所が異なる。→不交付
29.大学在学証明書や成績証明書の発行日付が古い(3ヶ月以内でなければならないとい う規則がある)→不交付
30.高校卒業証書の写真と申請書の写真が同じである。高校は10年前に卒業したのだか ら、この写真は古いはずである。写真も3ヶ月以内のものでなければならない)
 →不交付
31.履歴書に書いてある家族の人数と住民票の人数が異なる。→不交付
32.経費支弁書の筆跡と学生の筆跡が同じである。学生自身が書いたものではないか。経 費支弁書は支弁者自身が記入しなければならない。→不交付
33.経費支弁書の支弁金額が少ない。例えば1ヶ月3万円の生活費では少ない。→不交付
34.高校卒業証書に疑義がある。→不交付 35.大学卒業証書に疑義がある。→不交付
36.銀行残高証明に疑義がある。→不交付37.銀行通帳の写しに疑義がある。→不交付
38.送金方法の記述に疑義がある。→不交付
39.高校卒業から大学入学まで8ヶ月のブランクがあり、その間の経歴が書いていない。  (履歴に疑義あり)→不交付
40.収入を証明する書類に信憑性がない。→不交付
41.以前提出した日本語証明書と今回のものと署名の筆跡が異なる。
  (その二つの署名は私の署名だったが実際は同じ。)→不交付
42.高等学校卒業証書の写真がはがれている。偽造の疑いあり。
(実際は自然にはがれてしまったもの)→不交付

こんな「間違い探し」「あら探し」する時間があるなら、もっと効率的な審査方法を考えるのが先決ではないか。要するに「経費支弁能力がないのでしょう?」と疑っているのである。それなら、2年分の学費、生活費を学校または資金管理団体に一括納入させ、毎月学生に振り込むとか方法があるのではないか。

前回、日本語学校で不交付だった学生が勉強を頑張って日本の大学に申請した。大学には合格だったが入管でまた不交付となった。その不交付理由は「前回の不交付理由の説明がない」というものだった。自分たちが勝手に不交付しておきながら、なんで学生が不交付理由を説明しなければならないの?
(つづく)






停電

2007年03月21日 | ミャンマーでの生活
いよいよ本格的に始まったという感じ。昨日は午前4時前から午前11時半まで停電。そして今日は昨晩の11時半に停電して今朝6時までずっと電気がなかった。夜中に電気がないと本当に困る。何も見えない、クーラーも扇風機も回せないので子どもたちが大汗をかく、暑くて寝られない、などなど。それに、夜中に停電した場合はろうそくを使うので、火事の危険がある。日中の停電なら平気なのだが、夜中の停電は勘弁してほしい。でも、ミャンマーの人ってすごい。真っ暗なのに、ろうそくがどこにあるか探すことができる。これは環境に適応して人間の目が進化したということ?

ミャンマー人のビザ申請

2007年03月20日 | ミャンマーでの生活
私たち日本人は世界中のほとんどの国へビザ免除で行くことができるが、ミャンマー人はそうはいかない。例外なくどの国へ行くにもビザが必要である。
今日は妻とその実弟の日本入国のために日本大使館でビザを申請した。
自分の妻を日本へ連れて行くだけでも大変だ。
1.ビザ申請書 2.写真1枚(45mm X 45mm) 3.身分証明カードとその写し、日本語翻訳
4.住民票とその写し、日本語翻訳 5.日本の戸籍謄本 6.往復航空券を予約した証明
7.収入証明または銀行残高証明 8.招聘理由書 9.身元保証書 10.滞在予定表
こんなにも書類が必要になる。でも、これはまだ楽なほうらしい。
妻のいとこは台湾の人と結婚しているが、生まれた子どものDNA鑑定が必要だと言われて、そのためにわざわざバンコクへ行かなければならないという。そのいとこは台湾に入るためのビザを申請してもう1年以上たっている。
アメリカへの観光ビザはほとんどが不交付だという。(観光ビザで行ってそのまま住んでしまう人が多いため) アメリカは毎年、抽選で移住権(グリーンカード)をミャンマー人に多く与えているが、観光ビザや留学ビザは大変難しいという話だ。アメリカに家族がいても、親族訪問という目的も認めていない。
現在はタイに入国するためにもビザが必要で、タイの大使館で長時間待たなければならないそうである。

レストラン不知火(旧串かつ亭)

2007年03月19日 | レストラン・食べ物情報
レストラン不知火(旧串かつ亭)に家族で食事に行った。ここは自宅から歩いて行ける距離にあるので、月に2,3回お世話になっている。
私の妻とレストラン経営者の奥さんが旧知の友だちであり親しくさせてもらっている。
今日は串焼き13本、餃子2皿、肉うどん、高菜の焼き飯、エビフライ定食、生ビールにおつまみ。。。とよくもまあこんなに食べたものだ。こんなに食べて13500チャット(1300円くらい)なのだから、ここは本当に安くておいしい。中華やタイ料理のレストランに行ってこれくらいのボリュームを食べると軽く2万チャットは超えてしまう。
おすすめは自家製カレーライス、串揚げ(特にタレで豚肉を串焼きしたものがおいしい)
SHIRANUI(KUSHIKATSUTEI)
No.277, Ground Floor, Bogyoke Aung San Road, Corner of Seik Kan Thar Street
Tel:391369

再会

2007年03月18日 | 日本語学校
今日、嬉しい再会があった。2003年4月から東京の日本語学校に留学した女子学生が4年ぶりにミャンマーに一時帰国し、私に会いに来てくれたのだ。
なんと、日本の会社に就職が決まったという。それを知らせるためにわざわざ会いに来てくれたのだ。会社は横浜みなとみらい21にあって電気回路(屋内配線、屋外配線)などの設計をするという。東京の専門学校で勉強し在学中に電気工事士2種を取得したというから二度驚いた。この資格は日本人でも合格は難しい。 専門学校の先生たちも驚いていたそうだ。この専門学校で電気工事士2種の資格を得た女子学生は彼女が初めてだそうだ。
彼女はミャンマーでは優秀な学生ではなかった。私の教え子の一人であるが、中級クラスで落第したこともある。彼女の話によると、日本での生活は初めはとても困ったという。言葉がわからない。だれも頼る人がいない。友達もいない。日本人の知り合いもいない。授業料が払えない。何度もあきらめて国へ帰ろうかと悩んだこともあるという。しかし最後まであきらめず、自分の道を切り開いた彼女には本当に頭が下がる。今年30歳になる彼女、日本でおおいに成功してほしいと願っている。そして、将来は習得した技術をミャンマーで生かしてほしいと思う。
今年はよいニュースが続きそうである。

謝恩会

2007年03月17日 | ミャンマーでの生活
ヤンゴン日本人学校、2006年度の学期が終わり今日は日ごろお世話になっている先生方に感謝する謝恩会があったので出席した。
場所はサクラタワー最上階(20階)のティリピサヤスカイラウンジ。ここからのヤンゴンの夜景は本当にすばらしい。会は立食形式で行われた。
ミャンマーではコンサート、結婚式などは予定より1時間遅れで始まるのが通例であるが、ここは日本人のパーティー。やっぱり時間通り6時ぴったりに始まった。
妻は幼稚部の先生に花束を贈呈するという大役を与えられた。役員の人から7時20分になるというメモもいただいた。まあ、なんという綿密さであろうか。パーティーの内容も盛りだくさんで、途中で映画上映もあった。映画の内容は生徒たちへのインタビューやこの1年間の活動の歩みなどであった。このように会は分刻みのスケジュールで進められ、予定通りの時間にお開きとなった。
日本人はミャンマーへ来てもやっぱり日本人。時間の正確さと規則正しさは世界でもまれに見る民族なのだなあと改めて感心してしまった。でも、妻は盛りだくさんの内容にちょっと圧倒されていた感じ。