ミャンマー・日本語学校ブログ

ミャンマーでの生活、教育、ビジネスなど
ヤンゴン在住12年の作者がお届けします。

サイクロン被災地の現状

2008年06月28日 | サイクロン関係
サイクロンからもうすぐ2ヶ月になろうとしている。

外国からのNGOからの救援活動も続いているが、活動内容は救援活動から復興への支援活動へと重点が変わってきている。

実は今日、日本のあるNGOの人と話ができた。
このNGOはサイクロンよりずっと以前から(たぶん何十年も前から)ミャンマーに協力センターや事務所を置き、農業関係の支援をやっている。

被災地の中でこのNGOが担当している地域はディダエー市で、米、食用油、塩、飲料水などの支援を行なっており、支援実績は金額にして200万円以上、受益者は14,000人というから立派な活動をしている。
しかも、すべて自分の手で被災者に届けている。

それから、復興のためにどんなニーズがあるのか、何が困っているのか、農民たちに直接ヒアリングしたそうだ。

その結果、今一番の課題は種籾がないこと。それから農作業用の水牛がいないことの2点だそうだ。

種籾については、政府(農業省傘下のミャンマー農産物サービス公社)が頑張って全国から種籾を集めて、現地に配給しているのだが、種籾にも何百と品種があり、現地の土壌や気候にマッチしていない例があるとのこと。

水牛はすぐには手当てできないので、政府が代わりに耕運機などの農業機械を配給しているそうだ。
しかし、農民たちにとっては農業機械を使うのは初めてなので戸惑いもあることだろう。

国営新聞などで、「支援活動はどんな人でも、どこの地域でも直接行くことができます。何も制限がありません。」とキャンペーンしているが、今の状況は外国人の場合、「移動許可証(Travel Permision)」がないと被災地に入れないことになっている。

実際、この方は昨日トゥンテー運河を渡るラインターヤー大橋前の検問で引っかかって、移動許可証がないために引き返したそうだ。

この移動許可証は社会福祉省の災害対策本部が発行しており、発行までに1週間くらいかかっているとのこと。

ミャンマーに拠点を持たないNGOはかなり苦労しているという話だった。

日本医療チーム、ミャンマー入り

2008年06月04日 | サイクロン関係
昨日発行されたジャーナル誌(NEWS WATCH)の第一面は日本の医療支援チームがミャンマーに到着したという記事だった。
それもこんなにデカデカと写真入りで報じている。
いかにミャンマーの人たちが日本の医療チームに期待しているかがわかる。

以下、抜粋
日本政府が派遣した医療支援チームは5月29日午後5時30分ににヤンゴン国際空港に到着した。
医療支援チームは外務省の担当者1名を含む総勢23名で、医師が4名、看護婦7名、薬剤師が1名、補助看護士が5名、コーディネーターが5名である。
この医療チームはヤンゴンに到着後すぐに被災地のラプッタ地域に向かった。
その他にも、日本政府からは総額6,989,305ドルの援助が国連の機関を通して行われ、被災民の食料や女性、子供たちの健康のために使用される。(抜粋終わり)

このような表舞台の医療援助とは対照的に、サイクロン以前のずっと前からミャンマーに根を張り地道な医療活動をしている日本人を忘れてはならない。

http://www.japan-heart.com/
http://japanheart.exblog.jp/

この人の活動こそ、真の国際協力、国際貢献といえるのではないか。

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サイクロンから1ヶ月経過

2008年06月03日 | サイクロン関係
大型サイクロン「ナルギス」がヤンゴン市を襲ったのは5月2日深夜から5月3日の午前にかけてだった。
今でもあのときの恐怖が思い出され夢の中にも現れてくる。
日本でたくさんの台風を経験したことがあるので、サイクロンが初めての妻には「台風は2,3時間で終わるから、その間だけ我慢していればいい。」とのん気に構えていたが、このサイクロンは全然違った。
どんなに待っても、いくら待っても暴風が止まない。結局、暴風は9時間続いた後、一旦静かになってこれで終わったかと思いきや、今度は猛烈な雨とさらに強力な暴風となった。
雨の塊がどさっと落ちて来て、それを左方向からの猛烈な風が地面に平行に吹き飛ばしトタン屋根をこれでもかという勢いで攻撃している、この世のものとは思えない状況になった。
マンションの下の様子を見るためにロビー階に降りたとたん、猛烈な風が吹き付けて体ごと飛ばされそうになり、それ以上先に進めなかった。
このときの恐怖は今でもはっきりと覚えている。
ビデオでサイクロンの様子を3分ほど録画したのだが、ビデオカメラを持つ手がブルブル震えているのが後に再生してみてわかった。

イラワジデルタ地域では大規模な高潮と高波のために10万人以上の人が亡くなったり、行方不明になっている。
被災地ではまだ不便な避難生活が続いている人が大勢いる。
亡くなった方の冥福を祈るとともに、一刻も早い復興を心から願っている。

間の抜けた宣言文

2008年05月30日 | サイクロン関係
28日の国営紙の第1面の見出し。

「サイクロンの被害を最も受けている被災者や地域に直接行って救援、寄付することはより効果的である。」(27日付け、自然災害対策本部発の宣言文)

もちろんそんなことは言われなくてもわかっている。

肝心なことは、今どの地域、どの町、どの村にどんな物資が足りないのかということである。
国営新聞にはそのような実際に役に立つ情報はまったく出て来ない。
あるのは、「○○会社の○○社長が○○町へ行って、○○を寄付しました。」ということだけ。

「自然災害対策本部」が被災地域の状況を逐一把握している(はずな)のだから、そこから提供される情報をもっと詳しく報道するべきだと思う。

被災地はあまりにも広範囲に及んでいるので、情報の共有化と即時性が必要とされる。

(今の状況は支援物資が届いて余るほどの所と全然届かない所が極端に違っている。)

このようなときはインターネットの掲示板を利用して幅広く情報を交換することが大切なのであるが、そのような掲示板があるとは聞いていない。

ミャンマーではインターネットのホームページは1週間に1度だけ更新が許可されているが、そんなスローペースではインターネットの持つ即時性、情報の共有性という利点がまったく生かされない。

ミャンマーコンピューター協会なるミャンマーを代表するコンピューターのエリートたちが集まる団体も、「被災地マップ」「被災地情報」など支援に役に立つサイトを立ち上げようという人は残念ながら出ていない。

今も頼れるものは喫茶店で交わされる口コミ情報だけなのだ。

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復興への賭け

2008年05月29日 | サイクロン関係
5月27日付けの国営新聞の片隅に小さな扱いで以下 のような記事があった。

「ヤカイン州からサイクロンの被害のあった地域へ塩害に耐えられる種類の種籾を12,000ディン(1ディンは約20kg)、農作業用の牛60頭が救援物資として送られた。
救援物資はトラックまたは船便でヤカイン州を出発した。」とあった。

ミャンマーでは乾季に作付けする稲(ヌエーザバー)と雨季に作付けする稲(モーザバー)の二期作が行なわれているが、もうモーザバーの田植えの時期を迎えている。

被害が大きかったイラワジデルタの海に近い地域は、ベンガル湾から逆流してきた海水によって田んぼが完全に潮に浸かってしまった。

潮は引いているものの、土壌にはかなりの塩分がしみ込んでいると想像できる。
このような状態で田植えができるのか疑問であったが、この新聞記事を見て納得した。

塩分に耐えられる種類の種籾があるとは初耳だったが、ヤカイン州とは気候も土壌も違う環境で稲が順調に育つのかどうか.......
これは一種の賭けに違いない。

先日のブログで避難民は1週間以内に元の町や村に戻るように政府から命令があったと伝えたが、政府は本気で今年のモーザバーの作付けに間に合わせようとしているようだ。

この政策が成功すれば避難民たちの収入につながり、復興への足がかりになるだろう。
大英断だったということになる。


しかし、もし失敗した場合は......

と考えると不安になってきた。

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留学生たちの募金活動

2008年05月28日 | サイクロン関係
今日のネット版読売新聞の記事より。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/aichi/news/20080527-OYT8T00852.htm

サイクロンで大きな被害を受けた故国の窮状を救おうと、南山大学瀬戸キャンパス(瀬戸市せいれい町)で学ぶミャンマーの留学生が、きょう28日から被害者への募金活動を始める。

 留学生は、3年のノーティリメイエーさん(26)と4年のエーミーチョーさん(25)、2年のキンマースさん(22)ら5人。同大の日本人学生らからも支援の声が上がり、ノーティリメイエーさんが代表となって「ミャンマー緊急援助の会」を設立した。

 募金は郵便振り込みで、6月9日まで受け付ける。郵便口座番号は、00840―2―187741「ミャンマー緊急援助の会」。また、31日は名古屋駅前、6月3日は名古屋・栄、7日は尾張瀬戸駅前で募金を呼びかける。支援金は、日本赤十字社を通じてミャンマーに贈る。

(2008年5月28日 読売新聞)

写真で紹介されている留学生は全員、私の教え子である。

まったくのゼロである初級から始まって大学レベルの1級に合格し、南山大学に合格するまで育てあげた生徒たちなのだ。


教え子たちも頑張っているから、自分も頑張らなければ.....
とやる気と勇気をもらった。

彼女たちに協力できる方は是非よろしくお願いします!

サイクロン後の生活の変化

2008年05月27日 | サイクロン関係
今はデルタ地帯の被害の報道がメインになっているが、ヤンゴン市もサイクロンの被害は甚大なものがあった。
市内はトタン屋根が飛んだり、電柱や大木が根こそぎ倒れる被害だけで済んだが、ヤンゴン郊外は家屋全壊の家も多く、家を失った人が大勢いる。

私の日本語学校も郊外から通っている生徒が多かったので、その影響は少なからずある。

サイクロン後に開始した授業もなかなか生徒が集まらない。
中には定員30人のクラスに8人しか集まらないクラスもある。
こんなに生徒数が落ち込んだのは開校11年で初めてのことだ。

当然、自分の収入も落ち込んでいる。

にもかかわらず、物価は上がる一方だし、家族4人に加えてさらに居候が4人もいて、みんなを養っていかなければならないのだ。

コメント欄に「先生は贅沢な生活をしている」なんて書かれたこともあったが、それに反論するわけではないが、今の生活状況は......

1.移動はタクシーを使わず全てバス。
2.サイカー(人力車)を使わず徒歩。
3.ビール、お酒などアルコール類は一切禁止。
4.旅行、ピクニックなど娯楽は一切禁止。
5.朝食はミャンマー製のラーメンだけ。
6.肉は1週間に1回。
7.卵は3日に1個。
8.レストランなど外食は一切禁止。
9.ゴルフは一切しない。(これはサイクロン前も同じです)
10.エアコンは極力使わない。バスタブは使わない。シャワーだけ使用。
などなど.....

これだけ質素な生活をして頑張っているつもりではあるが、被災地の住民に比べればまだまだ贅沢だと言われるかもしれない。

早く、みんな(私も含めて)がサイクロン前の生活状態に戻れるように祈るばかりである。

避難民の不安

2008年05月26日 | サイクロン関係
パテインにある複数の教会にはラプッタ方面からの避難民が4,000人住んでいるという。
しかし、政府から命令が出たようで、あと1週間以内に元の町や村へ帰れという。

村人たちは家、財産、お金、全てを失っているのである。
そういう人たちが今、町や村へ帰ったとして、どうするのだろう。
あまりに早すぎる帰郷命令に戸惑いを感じざるを得ない。

この1週間の間に、政府は避難民たちのために仮住まいが作れるという自信があるのだろうか。
仮住まいができたとしても、それからどんな生活を送れというのだろうか。
食料は?仕事は?

全ての人たちのために、生活基盤を保障できる自信があるのだろうか。

中越地震で山古志村の地震の被災者たちが最後に仮設住宅から立ち退いたのは3年後だったのとあまりに違いすぎるのでびっくりしている。

避難民の仮収容所

2008年05月23日 | サイクロン関係
ヤンゴンのアローン地区にあるカレン族の村の中にキリスト教の学校(写真)があるが、そこが今、サイクロン避難民の仮収容所になっている。

主にラプッタ方面からの避難民で今、500人収容しているそうだ。
全員がキリスト教徒でカレン族の人が多いという。

若者たちはサイクロンで倒れた木から薪割りをして燃料になるものを作っていた。
子供たちもたくさん見かけた。

この教会も資金的に、それほど余裕があるわけではない。
500人分の食事を確保するだけでも毎日、大変な負担になっている。

米は1日に50キロ入り米袋で5袋も消費してしまう。
1袋が2万チャット(2千円)としても、1日の食費(米代だけ)が1万円、1ヶ月に30万円という負担になる。
それに加えて、おかずも提供するということになるとその3倍はかかるだろう。

この仮収容所で生活できるのは1ヶ月だけという限定で、その後のことは何も決まっていない。
1ヶ月後には元の町や村に帰るか、ヤンゴンで新しい住まいを見つけるか、親戚などがいる人はそこに居候することになる。

いずれにしても、厳しい現実が待っている。

被災地の現状

2008年05月22日 | サイクロン関係
5月19日から21日まで、最大被災地の一つであるラプッタに支援物資を届けて帰ってきた学生に現地の様子を聞いてみた。

以下はそのレポートである。

●バゴー、タウングー、ヤンゴンに住んでいる友達17人が集まって、ラプッタに支援物資を届けて来た。物資は2トントラック3台、タウンエース1台で運んだ。
ヤンゴンを夜の8時に出発して現地に着いたのが翌日の午後4時だった。途中、トラックが2回故障して4時間ロスした。

●物資の内容は50キロ入り米80袋、草履1500足、古着1万着だった。

●ラプッタに着くと、支援物資を僧院5箇所、(避難所になっている)競技場1箇所、空き地1箇所に届けた。1箇所の僧院には避難住民が1500人くらい生活している。

●競技場の避難所には日本のJICAから寄贈されたテントが20テントあった。

●ラプッタで会った避難民の多くはラプッタ周辺で被災して移ってきた人が多く、元々のラプッタの住人の多くは47マイル離れたミャウンミャという町に移動し、そこで避難生活をおくっている。
ラプッタ周辺の町、小村の被害は甚大で、ピンサルーという町は壊滅状態になっている。

●ミャウンミャ町は避難民の数が3万人に達している。

●ラプッタではWFP(世界食糧計画)の現地スタッフが食糧保管のための倉庫を建設中だった。「国境なき医師団」のグループが医院を開設していた。
WHO(世界保健機構)が飲料水用の浄水装置を設置した。

●避難住民には衣類はほとんど行き渡っていた。しかし、食料が足りない。
特に小さな子供の栄養が不足しているため、子供の栄養のための食料が欲しい。

●今回のサイクロンのために多くの孤児が発生している。
マンダレーの僧院から孤児を引き取りに来ている僧侶もいた。

●避難所の衛生環境が大変悪い。雨が降ると雨漏りがひどい。
狭い場所にたくさんの人が密着して住んでいるので、もし感染症が起きると感染がすぐに広まってしまう。

●若い女性たちは生理用品がなくて困っている。

●支援物資を渡すときは、奪い合いなどの混乱はほとんどなかった。

●避難住民の様子は表情があまり明るくなく、病気ではないが精神的に落ち込んでいるようだった。

食料の補給、衛生環境の改善、疫病の予防、復興、再建.....まだまだ長期的な支援が必要であると感じた。

支援活動の様子

2008年05月21日 | サイクロン関係
今日はヤンゴン市内アローン地区のカレン人がたくさん住んでいる地区に行った。
ここはまさに「カレン族の村」と言ってもよい。
カレン族独特の木造の高床式家屋が並んでいる。
カレン族は主にポーカレン(平地カレン)とザゴーカレン(山岳カレン)と二つに分けられる。
それぞれの言語があって、お互い意思を通じることができないほど異なる。
教会もポーカレン族の教会、ザゴーカレン族の教会というふうに別々になっている。

妻はポーカレン族なのだが、今日訪問したのはザゴーカレン族がやっているサイクロン被災者の支援活動の現場だった。

被災地はカレン族が多い地域なので、同胞たちを救済するための活動が活発に行われている。

被災者救援センターにはたくさんの若者のボランティアが働いていた。
そして、全国から集まってきた大量の支援物資、救援物資で一杯だった。
今日見た支援物資はほとんどが古着類だった。他に蚊取り線香、洗剤、ろうそくなどがあった。

これらの支援物資は毎日、チャーターした船で被災地であるピャーポンとボーガレーに運ばれているそうである。
被災者の合計がエヤーワディー管区だけでも200万人とも言われている。
毎日、船で送ってもまだまだ足りない状況なのだ。

支援物資、救援物資は被災地の村へ政府の手を通さずに直接届けられている。
そして教会のスタッフたちから直接、被災者に手渡されるのである。
昨今言われている横流しなどは絶対にない。

また、受け取る人もカレン族やキリスト教徒に限らず、全ての被災者を対象としているそうだ。

このような民間の援助団体が次々と生まれていることは心強い。
政府だけに任せておけないのだ。

私も少しばかりではあるが、義捐金を寄付させてもらった。

以前は、援助物資は政府の機関(地区委員会またはUSDA国民団結協会など)を通してしか送れなかったが、今は民間の手で直接、援助物資を届けてよいことになっている。

あまりにも被災者が多く、政府だけの手では追いつかないことがわかったのだろう。

しかし、被災地に外国人が入ることは厳しく規制されている。また、被災者と話すことも禁じられているようだ。

↓支援物資を袋詰めしている様子。みんなボランティアでやっている。


ヤンゴン川を渡るだけで一苦労(つづき)

2008年05月20日 | サイクロン関係
フェリーが動き出し、ほっと一安心してパンを食べていると、もう対岸のダラ港が間近に迫っている。

ダラ港はサイクロンの被害を受けて桟橋が破損し使えない状態になっている。
そのため、桟橋ではなく岸壁に直接、接岸するのだ。

岸壁の高さとフェリーの出口の高さが全然合っていないため、またまたデッキの手すりに上がって、岸壁との狭い隙間から今度は這いずり上がるようにして出なければならないのだ。(写真の通り)

ミャンマーの人たちはこんな困難はなんのその。

こんなの朝飯前と言わんばかりに、次から次へと続いている。

女の子たちも何も躊躇することなく平気でやってのけているのを呆然としながら見てしまった。

這いずり出る方法が苦手な人は、船の屋根から飛び降りるというコースもあるが、これも一歩間違えると大怪我することになる。

結局、先に降りていた人たちの手を借りて、何とか這いずり出て降りることができた。

これがミャンマーだよな~。
何をするにも順調に行くなんてことはありません。

ヤンゴン川を渡るだけで一苦労

2008年05月19日 | サイクロン関係
(↑は向こうから接近して来るフェリー。)

支援物資を送るルートとして、ダウンタウンのパンソーダン渡し場からフェリーで対岸のダラという町に行く方法がある。もう一つは最近完成したトゥンテー運河を渡る大橋(郊外のラインターヤーから入る)から行くというルートもある。
支援物資は今はほとんどトラックでこの大橋を通って各被災地に届けられている。
私たちの支援グループはあえて交通費が安くつく、フェリーで渡るルートを選んだ。
(フェリーは片道10チャット(1円)なのだ。)

朝7時に集合し、フェリーを待つこと30分。やっと対岸のダラからフェリーが到着した。
フェリーに乗り込んで、すぐに出航するかと思ったが、20分経っても、30分経っても出発しない。おかしいなと思っていると、次のフェリーが対岸から近づいてくる。
これで出発するのだろうと思って安心したが、そうではなかった。

みるみる向こうのフェリーがこっちに接近して来て、今乗っているフェリーの真横に接岸(?)してしまった。
すると向こうのフェリーの乗客がデッキの手すりを乗り越えて、こっちに飛び移ってくる。
そして、桟橋へ降りていくのだ。
あっけにとられて見ているうちに、今度はこっちの乗客たちが手すりを乗り越えて、向こうのフェリーに飛び移っていくではないか。
しかもロンジー姿の若い女の子たちもそうやっている。

何もそんなに慌てて飛び移らなくても....と余裕で構えていたら、グループの人から「すぐに飛び移ってください」と言われる。
もうすぐ向こうのフェリーが出発するからだそうだ。

デッキの手すりの上に登ってみたが、向こうの手すりまでは1メートルくらいの隙間があって、下を見ると濁った川の水が見える。高さも3階の高さくらいある。
もし、すべって落ちたら大変だ。

ロンジーの女の子たちもやっているんだから.....と勇気を出して、はっしとばかりに向こうの手すりに捕まって、これで何とか第一関門を乗り越えた。
つづく。
(このとき、フェリーを降りるときに第二関門があるとは夢にも思っていなかった。)

↓はパンソーダン渡し場の様子。フェリーの到着を待っている人々。対岸のダラの町が見える。


ジープに20人?

2008年05月18日 | サイクロン関係
トゥンテーという町で支援物資の米を買って、さあ、現地へ。。。。。
同行している人の話によると、人はジープに乗り、荷物はトラジーという農作業でよく使われている3輪トラックに積むはずだったのだが、人も荷物もこのジープ1台で済ますというからびっくり!

このジープにまず支援物資の米を積み込み、後で人が次から次へと乗り込むのだ。
そしてジープの屋根の上には若い男の子たちが乗り、さらにボンネットの上に道案内役が2人乗るというまるでサーカスのような状態で1時間ほどでこぼこ道を走り現地に到着した。
地元の道案内役の人がいなければ絶対に行けない村がまだまだたくさんあるのだ。

結局、このジープ1台に支援物資と人間が20人乗り込んだ。
ミャンマー人って本当にすごい。脱帽しました。



↓現地への道。竹やカヤが倒れ掛かっていて、ジープの上の人たちは降りて歩くことに。



支援物資を届けてきた

2008年05月17日 | サイクロン関係
今日(5月17日)、授業を全部中止にして、あるグループと一緒に被災地に支援物資を届けてきた。
場所はトゥンテーというヤンゴン郊外の町からさらに1時間ほど離れた小村。
(120世帯だけの小さな村)

朝6時半に自宅を出発し、フェリーでヤンゴン対岸のダラという町に渡り、それから
トラックバスに乗ってトゥンテーへ。
そこで、米を買い、ジープをチャーターして目的地の村に着いたのが12時半だった。

今日は時間がないので詳しく書けないが、自分の手で被災者に直接、支援物資を届けることができてほっと一安心している。
しかも、120世帯全員に配ることができたことは本当に良かったと思う。
しかし、これで支援が終わったわけではない。まだまだ、困っている人が何万人といるのだ。
ミャンマーに住んでいる者として、これからも支援を続けていくつもりだ。

途中の道中でいろいろなハプニングがあったが、それはまた追って紹介したいと思う。

今日は帰ってゆっくり休みたい。

(この原稿は日本からアップしています。またネットの調子が悪いみたいです。)