習志野湾岸9条の会

STOP戦争への道 9条を変えるな

(集団的自衛権の行使容認) なかにし礼氏が詩 「若者よ、戦場へ行くな」

2014年07月20日 | 新聞記事
(7/10)東京新聞記事より
詩を書いてもらえませんか−−。集団的自衛権行使容認が閣議決定された1日、作家・作詩家のなかにし礼さん(75)に依頼した。
携帯電話の向こうから、力強い言葉が返ってきた。「書きます。何ならすぐにでも」。切迫した思いが伝わってきた。【小国綾子】
 数日後、なかにしさんから手渡された詩の題名は「平和の申し子たちへ! 泣きながら抵抗を始めよう」だった。
「僕自身も泣きながら、ですから。日本がこんな国になってしまって悲しくて仕方ない。特定秘密保護法を先につくって、次は集団的自衛権。
『戦争だから』と自由に発言できない時代はすぐそこです」という。
 終戦後、満州からの引き揚げ途中、何度も命の危険にさらされた。兄は特攻隊の生き残り。近著「天皇と日本国憲法 反戦と抵抗のための文化論
」には「日本国憲法は世界に誇る芸術作品」と書いた。
 詩は最初、題名も内容も違っていた。題名は「若き友たちへ!」。若者に自己変革を求める内容だった。「今回の閣議決定で一番影響を受けるの
は若者たち。だから彼らに向けて書きました。目覚めよ、生まれ変わり、抵抗を始めよう、と。ところが突然、別の言葉がひらめいたんです」。
それが「平和の申し子」だ。
 「終戦から69年。戦争を知らないどころか平和を満喫して生きてきた若い世代は、まさに平和の申し子です。草食系男子? 
国を滅ぼすマッチョな男よりずっといい。心優しき彼らこそ平和を守ることができる。そんな彼らがいてくれることを僕は心強く思います。
若者を『戦争を知らない』とか『無関心だ』とか批判するのは間違っている。僕たち戦争体験者は、若い世代とともに闘うための言葉を自ら探さなければいけません」
 だから「平和の申し子」という言葉が胸に浮かんだ日、詩から若者への説教めいたメッセージを削り、全面的に書き直した。一つの言葉を得て、
詩は生まれ変わったのだ。「戦争したくないと思う自分を後ろめたく感じる若者がいるそうです。違う。戦争なんて無理、と思う自分に胸張っていい。
弱くあることは勇気あることなんです」
 最後に聞いてみた。短い日数で書くことに不安はなかったのか。後で書き直したくなったりしないか。作家は破顔し、語気を強め言った。
「その時は続編を書けばいい」 書き続けるんだ、闘い続けるんだ、と聞こえた。


(以下詩)

平和の申し子たちへ! 泣きながら抵抗を始めよう

二〇一四年七月一日火曜日

集団的自衛権が閣議決定された この日 日本の誇るべき たった一つの宝物
平和憲法は粉砕された つまり君たち若者もまた 圧殺されたのである

こんな憲法違反にたいして最高裁はなんの文句も言わない

かくして君たちの日本はその長い歴史の中のどんな時代よりも禍々(まがまが)しい
暗黒時代へともどっていく

そしてまたあの醜悪と愚劣 残酷と恐怖の戦争が始まるだろう

ああ、若き友たちよ!

巨大な歯車がひとたびぐらっと回りはじめたら最後君もその中に巻き込まれる

いやがおうでも巻き込まれる

しかし君に戦う理由などあるのか 国のため? 大義のため?

そんなもののために 君は銃で人を狙えるのか 君は銃剣で人を刺せるのか

君は人々の上に爆弾を落とせるのか 若き友たちよ!

君は戦場に行ってはならない なぜなら君は戦争にむいてないからだ

世界史上類例のない 六十九年間も平和がつづいた 理想の国に生まれたんだもの 平和しか知らないんだ

平和の申し子なんだ 平和こそが君の故郷であり 生活であり存在理由なんだ

平和ぼけ? なんとでも言わしておけ 戦争なんか真っ平ごめんだ

人殺しどころか喧嘩(けんか)もしたくない

たとえ国家といえども 俺の人生にかまわないでくれ 俺は臆病なんだ

俺は弱虫なんだ 卑怯者(ひきょうもの)? そうかもしれない

しかし俺は平和が好きなんだ それのどこが悪い? 弱くあることも 勇気のいることなんだぜ

そう言って胸をはれば なにか清々(すがすが)しい風が吹くじゃないか

怖(おそ)れるものはなにもない 愛する平和の申し子たちよ

この世に生まれ出た時 君は命の歓喜の産声をあげた

君の命よりも大切なものはない 生き抜かなければならない

死んではならない が 殺してもいけない

だから今こそ! もっともか弱きものとして 産声をあげる赤児のように 泣きながら抵抗を始めよう

泣きながら抵抗をしつづけるのだ 泣くことを一生やめてはならない

平和のために!

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 ■人物略歴

 ◇なかにし・れい

 1938年中国・牡丹江市生まれ。「石狩挽歌」「北酒場」など数々のヒット曲を作詞。小説では98年「兄弟」、99年「長崎ぶらぶら節」(直木賞)、
2001年「赤い月」。=矢頭智剛撮影