和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「長生きせよ」という思想。

2022-07-11 | 本棚並べ
七十代で太田垣蓮月は、年下へ手紙を書くのでした。

① ひとりは、齋治(幼名・二郎)40歳(?)への手紙
② そうして、富岡鉄斎・32歳への手紙

杉本秀太郎著「太田垣蓮月」(小沢書店)から引用。

① 「 二郎様、御事、毎日ご様子は承り居り候・・・
    私もよそながらうれしく悦び居り候ことに御座候。
     ・・・・

    とかく人は長生きをせねば、
    どふも思ふことなり申さず。

    また三十にて運の開けるもあり、
    六十七十にて開く人も御座候ゆへ、

    御機嫌よく長壽され候ことのみ、
    願ひ上げまゐらせ候。        」( p105 )


この手紙を引用したあとに、杉本秀太郎氏はこう書いておりました。


「ここに齋治に対する願いとして書きつらねられている
『長生きせよ』という考え方も、これを一つの思想と受け取るべきである。
 長生きしなければ取りにがす思想がある ・・・・   」


② 蓮月は78歳、鉄斎が32歳。
  鉄斎の父、富岡維敍の十三回忌法要のときに書かれた手紙。

「富岡鉄斎である。われわれは『全集』「消息篇」に収められた
 鉄斎あての一群の手紙に、齋治に向けられた同じ『長生き』の
 切なるすすめが、それも再三くり返されるのを読むことが出来る。」

「 ・・何事も御自愛あそばし、
  御機嫌よく御長壽あそばし、
  
  世のため人のためになることを、
  なるべきやうにして、心しづかに、
  心長く御いであそばし候やう
  ねがひ上参らせ候        」( p106 ) 


このあとは、こんな指摘も杉本氏はしておりました。

「蓮月が埴細工に手を染めてようやく四年ばかりの歳月がすぎた頃、
 天保七年(1836)が鉄斎の生年になる。それは大飢餓の年であり・・・」
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手作りのきびしょ。

2022-07-11 | 本棚並べ
杉本秀太郎著「太田垣蓮月」(小沢書店・昭和57年)をひらく。

最後に「淡交社版あとがき」がありました。そこに
『蓮月が非常に好きだったので、私はこの本を書いた』(p242)
とある。

本の最初には

「 蓮月は、求められるままに手作りのきびしょ、すなわち
  煎茶用の急須、徳利、盃、鉢、皿、茶碗、水指などに
  自詠の歌を彫りつけ、また乞われるままにおびただしい
  短冊を書いた・・・  」( p10 )


うん。『きびしょ』って何だが、気になる。
それを説明した箇所もありました。

「・・・粟田焼に煎茶趣味が行きわたっていた実況を伝える。
  蒹葭堂好みのこんろとは、煎茶でいう凉爐である。

 また、きうす(急須)は蒹葭堂(けんかどう)ごのみの 
 言い方ではきびしょということになる。

 『蒹葭堂雑録』巻一に記すところでは、
 きびしょというのは儒家、篆刻家、古器鑑定家、
 また書家として知られた高芙蓉(こうふよう)が、
 
 煎茶愛好家としてその形態を考案し、
 親友の池大雅にはからったときに急須に附した別字の異称で、
 
 煎茶の普及につれて、この呼び名は京、大阪から出て
 北越、九州にもひろまった。語音のめずらしさが
 文人趣味によく似あったこともあるだろう。・・・・」(~p108)

中根香亭(1839~1913年)の文も引用されておりました。

「文久年間に、私は京都に半年ほど居たことがある。
 ある日、清水坂の陶器家に立ち寄って、急須を買った。

 大きさは、にぎりこぶしほど。和歌が一種、
 彫りつけてあり、蓮月という署名がある。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ついに岡崎に隠れ暮した。埴(はに)をこねて茶器を作り、
 これで生計を立てた。晩年にはいよいよ世塵をいとい、
 さらに遠くの西賀茂に隠れ住んだ。
 明治8年12月3日終焉。行年八十五歳。・・  」( p82~83 )


どうして蓮月が「埴をこねて茶器を」つくるようになったのかも
興味深く、その箇所も引用してみることに

「岡崎村に移った蓮月が埴細工に手を染めたのは、
 太田垣家の家督を継ぎ、同時に知恩院の譜代職も
 継いでいる養子古敦にもたれかからないためであった。

 蓮月は譜代というものが知恩院から給される微禄では、
 いかに暮らしにゆとりがないかをよく承知していた。
 古敦はすでに妻帯しているが子はなかった。・・・

 ・・・・・
 きっかけは、粟田口に住んでいる一老婦から、
 きびしょ作りをすすめられたことだった。
 
 蓮月という一人の性格の力で、
 当時の時代趣味であった煎茶というものを媒体として、
 遭遇したものがあった。土と和歌と書という三つのものである。

 ・・・・土と歌と書は、もはや偶然に集合したわけでなくて、
 これは蓮月の創意工夫によることであった。

 自詠の和歌をしなやかな、細くしかも強靭な書体によって、
 自作の茶器、花瓶、酒器あるいは土瓶、片口、皿のごとき
 日用雑器に釘彫りにする蓮月の手仕事が、
 京焼の世界に波紋を投ずることになった。   」( p98~99 )

うん。最後に、蓮月の花瓶の特色を語られている箇所も引用。

「用いられている土は、京都の東山一帯、岩倉から深草にかけて、
 また西山にも産するごくありふれた埴土である。・・・・・・

 蓮月はいつも借り窯であった。それも清水の登り窯の
 最上端の片隅をちょっと使わせてもらって焼いたのだろう。

 そして花瓶の活け口をとおして外から見透かせる
 内がわだけにかけられた薄い青磁釉が、わずかにつやを放っている。
 目のこまかく、ねばりもある埴土なので、さほどざらついた感じはないが、

 それでもこれはすべすべした釉がけとは趣を異にした花瓶である。
 このわびたるところは、色絵付の御室焼、粟田焼、清水焼によって
 実現された、いわゆる『きれいさび』とは相容れないものである。」
                       ( p102 )

ちなみに、この本の最初には、短冊などの写真があり、
写真の一枚に、『蓮月焼 へちま花瓶』がありました。
  
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