福永光司の「『荘子』の世界」は、12㌻ほどの短文に、
さまざまな言葉の紹介があって便利。
はじまりは
「荘子といいますのは、西暦前四世紀、ギリシャのアリストテレスと
ほぼ同じ時期の古代中国社会を生きた哲学者荘周のことです。
荘が苗字で、周が名前です。
この周という名前を日本人で自分の名前にしたのが、
・・西周(にしあまね)という明治の哲学者です。
この方が『あまね』と読ませている周という字は、
これは荘周の周という字を採ったものです。 」
「なかなか紛らわしいのですが、
人間である哲学者自身を呼ぶ時は『荘子(そうし)』と澄んで読む・・
荘周の言行を記録した書物の方は『荘子(そうじ)』と濁って読む
のがずっと古い時代からの習慣なのです。・・・・」
明治の人の名前が、取り上げられて興味深い。
〇 幸徳秋水の秋水は、『荘子』の秋水篇から採った名前です。
〇 坪内逍遥・・逍遥というのは『荘子』の中の逍遥遊篇から採っった名前。
〇 高山樗牛や相馬御風、この樗牛や御風も『荘子』の中の言葉です。
うん。初心者の私に、興味深い短文なので、ここは反芻しておきます。
「 荘周の著とされる『荘子』の内容は、大きく分けて
二本の柱から成り立っています。
そのひとつは『道』という言葉です。
それが道教になっていきます。
『道』、いまの北京語ではこれを『ダオ』と発音しますが、
ヨーロッパではこれを濁らずに『TAO(タオ)』と読んで、
タオイズムと呼ばれています。
このタオという言葉と思想、これが『荘子』の第一の柱です。
それからもうひとつの柱が『遊』、遊びということです。
つまり
『荘子』は『道と遊びの哲学』であると理解したらいいと思います。」
うん。ちょこちょこと引用してゆくと、どんどんと長くなるので、
あとひとつだけ、『庖丁(ほうちょう)』が出てくる箇所を引用します。
「庖というのは料理をするという意味、
あるいは料理人ということを意味します。
古代の中国では職業名を名前の上に置きますから、
庖丁というのは『料理人の丁さん』という意味になります。
この庖丁さんの登場するのは・・『道』と『技』の問題を論じています。
儒教の場合は、
技術というのはあまり重視されずに、精神の方に重点を置きます。
けれど道教の場合は肉体的な要素を非常に重視します。
この世の生活は身体が一番根本になり、その身体に心(精神)が宿る
という考え方をします。
そして外篇の天地篇では、この『道』と『技』をさらに展開し、
『機械』と『機心』という言い方で論じています。
機械を使う時は用心しなければならない。
機械に慣れてしまうと心まで機械のようになってしまうからだ、
と言っているのです。
このように、機械という言葉はすでに『荘子』に出てきています。
この機械とは、からくりを使った仕掛け道具といった意味です。
天地篇のこの原文は
『機械あるものは必ず機事あり、機事あるものは必ず機心あり』
となっています。
機械が作られると人は必ず物事を機械的に処理してしまうようになる。
そうすると、心まで機械のように冷酷な温かみのないものになってしまう
危険性がある。だから、機械を使う者は用心しなさいと言っているのです。
この『荘子』が書かれたのは中国の戦国時代です。
戦いが続き、どんどん戦うための機械が作り出され、
効果的な武器が出てきて戦死傷者の数がますます増えてしまうため、
荘子が警告の意味でこうした言葉を書いたのです。・・・ 」
うん。ここから「無心」へとつながる箇所なのですが、
途中ですが、ここまでにしときます。
福永光司著「『馬』の文化と『船』の文化 古代日本と中国文化」
(人文書院・1996年)に「『荘子』の世界」は入っておりました。
ちなみに、この本の「あとがき」のはじまりは
「私たちが日常生活の中で意識しないでやっていることの中には、
道教をはじめとする中国古代宗教の思想信仰やしきたりが
習俗となって染みついています。それは想像以上といっていいでしょう。」
この本は、各雑誌などに掲載・発表されたものがまとめられた一冊。
どれどれと、「『荘子』の世界」の初出一覧を見ると、
「『花も嵐も』1994年2月号(NHK ラジオ深夜便「こころの時代」より)」
とありました。