谷沢永一と渡部昇一対談「平成徒然談義」(PHP研究所・2009年)。
その「結びにかえて」で谷沢さんは、
中村幸彦の「徒然草受容史」から引用しながら
こう指摘しておりました。
「 『徒然草』の魅力は、新しい感受性を受け、
改めてこの時期に発見されたのである。
執筆されてからほぼ百年後という推定は動かし難い。
時代が『徒然草』を文化の正面に誘い出したと見做し得よう。
画期的な功労者は連歌師の正徹(しょうてつ)であり、
彼が永享3年に書写した本には、感ニ堪エズ、と記されている。
・・・
細川幽斎は一子に写させて、老の友としたと伝える。
これが享受の始源であり、期せずして評価の方向が定まった。」
この対談本を以前、読んでいたのですが、いまやっと、
この箇所の意味が了解できて、飲み込めた気がします。
ということで、もうすこし引用をつづけます。
「 近世の風潮を一語で要約するなら、
それは表現意欲の幅広い高まりである。
多くの人々が均し並みに自己表現へ赴いた。
けれども、その根強い志向は必ずしも
一筋道としては発現しない。思想性の重視という
時代の制約が依然として力を発揮している。
それが儒学および佛教という足枷となって機能した。
『徒然草』もまた従来の固定観念が形成する磁場に
引き寄せられて解釈される。
それを許す一面が備わっている事情が
『徒然草』ブームを誘発した基盤であろう。
『徒然草』が古典としての地位を得たのには、
過ぎ去り行く一時代前の常識をも許容する
側面があったことも否定できない。
しかし社会的制約は必ず移転していく。
思想性の固執を撥ね返す要素が
『徒然草』の内容にはしっかりと根を下ろしていた。
それがすなわち物語性である。『徒然草』には
骨格の強靭な短編小説が多く埋めこまれているではないか。
・・・・・・・
『徒然草』の本質は物語なのである。・・・
まだ小説とまでは評価できない段階にあるとはいえ、
物語の成立に最も近い散文表現が提示されている。
小説を小説たらしむる
虚構の組み立てが足場として実現した。
この点が『徒然草』の登場が問題となる要素であろう。」
この対談本で、いつか徒然草を通読したいと思いました。
その機会が、ようやくこうして、めぐってきております。
対談では、読むのにボタンの掛け違いを指摘する箇所があります。
うん。そこを引用してみます。
渡部】 ・・・・・我が身を振り返ると、端から見たら・・
いい歳をして、受験参考書によく出てくる
『徒然草』を種にしゃべっているのは浅ましいとか(笑)。
谷沢】 そうです。『あいつら、何がしたいのか』と端から
思われることは十分覚悟しないといけませんね。
いまは受験勉強が、学問することだという勘違いも多いですし、
『徒然草』を読んだのは受験のためという人が多いでしょうからね。
・・・ ( p73 )
谷沢】 ・・・・そもそも近代以前の日本において、
学問は人間の精神を養うためのものでした。
つまり、人間学、社会学のテキストとして
『論語』を筆頭に漢籍を読んだわけです。
一方、チャイナで四書五経を学ぶのは、
科挙に受かって高級官僚になるためでした。
学ぶ姿勢が違うと、当然ながら
同じ漢籍を読んでも、違う結論にいたります。
たとえば、江戸時代の儒学者・伊藤仁斎の
『童子問』は『譲りの精神』が説かれていますが、
チャイナで『譲りの精神』は出てきません。 ( p74 )
はい。わたしは、この対談をすっかり忘れておりました。
いつかは徒然草を、きちんと読んでみようと思ったのは、
この対談を読んでからです。それがやっとめぐってきた。
『未知との遭遇』じゃないけれども、
『老の友』『感に堪えず』との遭遇。