和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

でも、まあとにかく。

2024-06-03 | 安房
昭和46年発行の「館山市史」に、「関東大震災と館山」という
10ページほどの箇所があります。記録箇所は「安房震災誌」から
とられており、「大正大震災の回顧と其の復興」からの引用もあります。

そんな中に、ほかでは読めない箇所もありました。
ここには、嶋田石蔵氏の回想談「富崎の津波」を引用してみます。
これは、なかなかに聞けない談話なので、全文を引用することに。

「私は大震災の時は千葉師範の生徒であった。
 9月1日大地震になったので、すぐ様帰郷を許されて、
 仲間数人と線路づたいに房州へ向かった。

 途中曲りくねった線路の上を、余震におびえながらとぼとぼと歩いた。
 五井駅付近に来た時、道往く人に、大島が海の中に沈んで、
 房州も陥没して海びたりになってしまったと聞かされた。

 でも、まあとに角 家に帰ろうと勇気をふるい起こして歩きつづけた。
 上総湊付近まで来た時、房州は大地震だったが、
 海には沈んでいない事が分かった。途端に腹がへってきて、
 物売りの婆さんから卵を買って食べた。
 それが大変うまかったので、いくつも食べた。
 さて、かんじょうになったら一個30銭と言われびっくりした。
 他に大人もいたので婆さんに『暴利も甚だしい』と、かけ合って、
 たしか10銭にしてもらったことをおぼえている。
 ( 幾日か後、暴利取締令が出された )

 上総と房州の境の鋸山トンネルを通り抜ける時は、
 膽を冷やした。入口で売っている、ろうそくともして
 長い長いトンネルを歩いていくと、中程に大きな石塊が
 ごろごろしていて、気味が悪かった。
 どうやら30分位かかって通り抜けることができた。

 ようやく房州に入って、疲れた身体を富崎の自宅まで運んだ。
 千葉を出てから丁度3日間かかった。でも家に着いて見ると
 家族全員無事で主家も流されていなかった。

 しかし津波の被害は惨たんたるものであった。
 ( 津波流失家屋70戸 )
 納戸の窓に船の『みおせ』がのぞいているし、
 石垣下の物置は跡かたなく波にもっていかれて、
 大切な家財は一物も残っていない。
 陸地のそちこちには、船がおき忘れられてあるし、
 家屋のがらくたが、そこの丘、こちらの山蔭に散らばっている。
 平砂浦の浜辺には、家屋のこわされた姿が惨めな形で打ち上げられている。
 津波の如何に大きかったかということを物語っていた。

 後で家人に聞いた処によると

『 大地震のあと、沖へ沖へと海がひいて、
  野島という陸地から300メートルもある島も陸つづきとなるし、
  海岸一帯は2メートルも隆起する。人々は『津波がくるぞ』と
  相浜の人々は大鑑院へ、布良の人々は布良崎神社の方へと逃げた。
  やがて洲崎方面から大きなうねりがやってきて、
  見る見る平砂浦の砂浜を洗い、相浜に向かっておしよせてきた。
  そのうねりは相浜部落をひとのみにしてしまった。
  一瞬多くの家屋や船も沖へさらっていってしまった。
  海の上には、草屋根だけがぷかりぷかりと浮いていた。 』

 と語ってくれた。
 しかし津波にさらわれた人は一人もいなく、
 地震も潰れた家は全潰15戸で、半潰が20戸前後であった。
 死んだ人も極くわずかでたった1人であった。
 津波で家を失った人たちは、学校や寺院に収容し、救護の手を待った。」

     ( p573~574 「館山市史」館山市史編纂委員会・昭和46年 )

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