わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

合気道について

2012-03-31 22:25:56 | 癒し
 合気道の植芝先生というのは、私の体の中に
くい込んで、今も一緒に働いておられるんで、私も
生前から非常に親しくさせていただいているんで、
植芝先生の身も心もというか霊もというか、
そういうの全部わかっているつもりで
おりますけれど。先生が、その合気道というものを
通して、つまり武道というものを通して、神様は愛
だという風に、ああいう真理を悟られたことに
ついては、先生の、この世だけじゃない色んな
修行の結果がある訳ですが…。

 まあそれはさておいても、じゃあ合気道というのは
何なのかということになりますと、私は祈りの方の
立場の人間でありますので、祈りの方に即して
言いますと、語呂合わせではありませんけれども、
合気道のアイキというのは、気の流れというものに
対して、色々な不調和なものを調和させて、
合わせて、そうして一致させて、そして人間が
生きていく為の道しるべをそこでつくる。その為の
道が合気道なんだということなんであります。
もう少し砕いていいますと、合気のアイというのは、
これはもちろん愛するということにつながって
ゆくんでありますけれども、ただ私共が愛する
ということになると、せいぜい人間同志が仲良くする
とか何とかという風な時限に下ってしまいます。
ところが、この合気道のアイキというこの合わせる
という字と気という字を、ここから拡がってゆく実は
霊的な世界というものは、人間だけとかそういう
ものではなくってですね、生命全体、地球にある、
宇宙にある、その生きとし生けるもの全部、もう
バクテリアから何から全部ですよ、そういうもの
合わせた生命の調和ですね。生命が調和
されるように、実は気の流れを、気の流れというのは
霊界神界からくる気の流れですけれど、それを我々
受け器である人間が心のアンテナ本心のアンテナで
その流れを受けとめて、そうしてそれを流してゆく。
ね、気の流れを受けとって地上に流してゆく。
そういうことが一番大事なことなんだ、それを
やるのが合気道なんだ、そういう意味なんです。

 そこで、そんなことを言いましても、精神だけの
ことでして、それが根本精神として、合気道の中に
流れてるということだけですと、「そんな高邁な、
先生、そんなすごいことは私共には出来ません。
 だったら合気道やめさせていただきます。」なんて
いう人が出てくるかもしれませんから、少し合気道
そのものの、いわゆる道そのものについて
言いますと、いつかも私は質問に答えて言ったと
思いますが、ただ立つということが即ち真理に
つながる。合気道の場合はですね。立つというのは
何になるか。立つというのは天地を貫いて
立っている自分と合体するということです。あるいは、
いつも植芝先生が言われた“あ”という言葉、
そこへ入る。回帰する。ということなんです。元の
元の根本の太源の生命に帰って、そこで構えて愛を
呼び寄せる。そういうことなんですね。だから気を
集めるんじゃない。気を合わせる。気を
集めるんだったら、これはただ単に人気取りですね。
それだったら人間世界だけのことになるけれども、
そうではない。色んな霊妙な気を集めて、そこに
立って、そこで構えて、受けた気を合せて、そうして
無心になって打ち込んでゆく。

 合気道で構えて打ち込む時というのは、もうすでに
それは、こういうことを知ってる人も知らない人も
ですけれども、合気道でやる場合には、その人の
肉体人間の気持ちはどうあれ、本体そのものは
そういうことを知っておりますから、本当に祈りの
器としてそこで立って、そこで構えて、構えるって
ことは、その気の流れを受けて、それを流す。
その為の構えです。言わば、印でずっと皆さんの
想いを受けて手を上げますよね、あの上げて光を
集める状態と構える状態は一緒なんですね。立って
構える、そうして打ち込む。打ち込むというのは何を
打ち込むのか。本当言えば、霊界には打ち込む
ものはないんですね。愛と愛がぶつかるだけです。
 けれども人間世界の中では、打ち込むもの
打ち込まれるもの、色んなものがあります。色んな
感情があります。余計なものがあります。それを
打ち込んでゆく。でそれを、業なら業というものが
来たら、それに対してそれを打ち負かすものは愛
ですね。あるいは大きな気の流れですよね。神様の
愛という気の流れですよね。それを今度返してゆく。
 だから、構えて打ち込まれる方は、その気の
流れを存分に受けて、そうして自分自身が光の
住者になって、そして、打ち込まれた分それを光に
して帰してゆく。そういうことを知って動いている訳
ですから、そこで自分の生命が充実して
ゆくんだなっていうのは、動きの中で、これは言葉
じゃないですよ、想いでもない、行為の中で本体が
知ってゆく訳なんですね。

 だから、空気が瞬動しますよね。武道ですからね。
 武道ですけれども、植芝先生が悟ったあの神様は
愛だというあの武道ですから、神の愛の気が満ちて
いるはずなんです。あるいは、そうなってゆくべき
なんですね。だから、祈りの本心開発といいますか、
祈りをやってゆく人たち、うちで祈りをやってゆく
人たちというのは、特に合気道というものを通して、
そして肉体の行為化というものを通して肉体を
光明化してゆく。その為に合気道をやるということは、
本当に大いにいいことでして、どこに行くんでも、
どこでやるんでも、その木太刀にも自分の心にも、
世界平和の祈りというものが込められている位に
思ってね。そして、打ち込む時にも、打ち込まれる
時にも、自分の心をカラッポにしてやってゆく。
 自分が打つんじゃない。気の流れが来て、
その気の流れに従って、自分の木太刀が動いて
ゆくんだ、自分の体が動いてゆくんだ、それによって
自分の霊性が開発されてゆくんだと思うと、自然に
動くんですよね。体がね。光になって動くんです。

 植芝先生のフィルムが残っていますよね。
 何べんも何べんも言ったことですけれども、
あれは、植芝先生は光になっている訳ね。あれは
神様の体になっていますよね。神様の化身だから
神様の光になって出てきてるけれども。といって、
植芝先生をまつり上げる訳ではないですよ。
 皆さんがそういう光の体になって、皆がその光の
体を持ってる訳ね。それを、植芝先生は合気道
という一つの武道の中に体現した、現わした。
 そういう人なんですね。だから皆さんが祈り心で
もって、木太刀をもって、合気道という武道をやる時
には、やはり同じような気の流れが、世界平和の
祈りを通じて、私を通じて、私の中にも植芝先生が
いらっしゃるから、その愛の気の流れが流れてゆく
筈です。そうして、その武道をやってゆくうちに、
自分の中の霊性開発もでき、それから自分の
肉体もすこやかになり、まわりにも気がまわるように
なってゆく筈です。だから、そういう合気道と
いうのは、ただ単なる武道じゃなしに、本心開発の
先端を行ったといいますかね、先達を努めたと
いいますかね、そういう武道なんだということ。
 それを忘れちゃいけない。

 武道の武というのは、それこそ戈をおさめる。昔の
話じゃないですが、すべての武道はそこへ行くわけ
ですね。武は愛なりなんですね。その、武は
愛なりを悟った人、悟って私にバトンタッチをして
下すった先生、それが植芝先生なわけね。だから、
植芝先生が拓いた合気道、先生個人のものでは
ないけれども、神様の流れというものが植芝先生の
肉体の奥に感応して、そして開かれた気の流れと
いうものは、この合気道の中に流れている訳です。
 その流れを少しでも祈り心でね、打ち込んで
ゆく人、打ち込まれてゆく人、やってゆく人は、
それを自分のものにして、天に宝を積むように、
自分の魂に宝を積むということが出来る。そういう
人になってゆく訳ですね。

 合気道だけじゃない、色んな物事、色んな行為、
武道だけじゃなくて、日々の営みそのものがやはり
気の流れを受けて、その神の愛の気の流れを
流してゆく。皆流してゆく。皆平等に、子供から老人
に至るまで、私達はそれぞれの立場立場、持ち場
持ち場で、その役目を持っている。そう考えませんと、
これはおかしなことになってゆく訳ですね。合気道
だけがすごいんじゃない。偉いんじゃない。そこへ
立つ、そこで祈る。祈りの座へ、本心の座へもって
ゆく、もってゆかれやすい。その先達の役目を
務めたのが合気道なんだということ。だから
合気道をすることによって、皆さんが自分の祈りの
生活を深めて、日常を少しでも過ごしやすくして、
体も心もすこやかにしてゆくということが、
現実生活を豊かにしてゆくということがですよ、
精神的に豊かにしてゆくということが、本当に
人間の気持ちをひろやかにしてゆくということに
なる訳ですね。それが同時に、世界人類が平和で
ありますようにというこの祈り心ね、祈りそのものの
光を拡めてゆくことにもなる訳なんです。

              昭和63年5月5日
                 五井昌久


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