わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

愛のはたらき

2012-03-30 23:03:18 | 癒し
 私はマイクの前に立って、こうやって皆さんの
顔を見ながら、何を話そうかとか、今日は
これについて話そうかとか、そういうことは一切
考えていないのであります。
 だから、質問をどうぞというのは、質問を
きっかけにして、私は、神様のこと、神様がどんなに
人間を愛しているかということ。
 で実は、神様の愛の働きによって人間が生かされて
いるということを伝える。
 そういう場所に私がなるということなんであります。

 だからいつか申しました様に、釈迦が来ることも
あるし、キリストが来ることもあるし、老子が
来ることもあるし、色々な人が私の体に降りて来て、
そうして、その方面のことをしゃべってそして又
出てゆく。だから、私の体というのは
カラッポなんだとね。私は、生命はもう神様の中へ
帰しました。
 帰した時に、とに角まあキリスト教で言えば、
“御心のままになさしめたまえ“というあの主の
祈りの中の、ああいう気持ちになって。
 自分がなったんじゃない、何か奥の方がなって、
そうして、そういう活動をなにかしらさせて
いただける様になって、今日になって、今こうして
喋べっている訳ですけれども。私というものは
一切無いんですね。何があるかというと、神様の愛が
ある。それだけなんです。その愛というものは、
私の為だけにあるんじゃなくて、これは実は、我々
人間全体の為にある。
 この地球世界の自然とか、色んなものが色んな形で
生きていますけれども、それこそ、生きとし生ける
ものの有りのままの姿をそのまま生かして、
さながらに生かして、その生命が完うする様に
というので、その愛が注がれている。その愛の姿
というものを、皆が、ああそうだなと思って納得して
感動して、そうして、それぞれが静かな想いに
なって、神様というものにね、その想いをはせた時に、
皆が神の子なんだということになっていきますでしよ。

 そして次には、他愛ですね。他を愛すること。他を
愛することというのは、自分のまわりを確認できる
ことなんですね。
 自分のまわり、自分の生命が何によって支え
られて、まわりの人の色んな親切だとか、色んな
想いだとか思いやりだとか、そういうもの
によって生きてる。生かされているということを
確認する。この現実の世の中でね。そして、自愛
というのは、そういう感謝のおもいを今度自分が
確認して、そうして、じゃあ何をすればいいか
ということになると、自分を本当の意味で労わってね、
そして生きてゆく。その自分を本当に労わるという
ことの中には、人間の心には、色んな姿があります。
 見たくない、こんな自分は確認したくない。こんな
自分は見つめたくないという想いがありますよね。
 ですけれども、それをずっと見て、ああこういう
やり切れないものを人間は持ってるんだな。そこが
自分の中で確認できれば、人間というものは
高められてゆく訳。

 人間というものは弱いですから、何かあれば、
神様仏様とすがるけれども、何もなかったらやっぱり、
そっちの方へ想いが行かない。だから、色んな
祈り言葉があるというのは、その祈り言葉を階段に
してね、そうして、自分の本当いえば姿、自分は
何なんだということを突き詰めて考え、
そうして又知らされる。その為に祈りがある。
 そうすると、我々を生かしめているものは神の愛
でありますから、その神の愛というものを、神様の
というものをとってしまっても、神様の愛が
人間の中に働いて、そして、我々が生きていると
すれば、この愛の働きというものはどういうものか
ということになると、これは森羅万象すべてに
わたっているということになってしまうと、説明の
しようもないものでありますけれども。

 とに角、愛というものは何かというと、
まず一つには、自愛ですね。自分を愛することですね。
 想いを確認して、それを抱きしめるんじゃなくって、
それをパーッと祈りの中へ放すわけです。祈りの中へ
入れちゃうと、それはどんなに業に満ちたものでも、
あるいは闇というものがあっても、それは光に
なりますから、祈りの中へ投げ入れちゃってね、
あるいは、神様、五井先生といって投げ入れて
しまったらですね、それは業は業でなくなるんですね。
 そこで消えてゆく訳ですね。
 そういう意味で、自分を愛する、自分を確認する、
自分を労わる、ということは、自分の中にある人間の
色々な心の姿を一つ一つ取り出して、そして浄めて、
浄める為に祈りをして、そのおもいをまわりに、
その祈りをまわりに巡らしてゆくと。そういうことが
ある訳です。それが一つの愛というものの実相な
わけですね。

 愛というものは限りがありません。ここまでが愛で
こっからが愛じゃないとか、ここまでは愛情
だけれどもこっから一歩は愛じゃないとか、そんな
ことはありません。限りがなくって尽きるところが
なくって、その尽きるところがないものに支えられて
いるということがわかりますと、人間はどうなって
ゆくかというと、もうとに角、自分の生命という
ものは窮まりがないんだということに、だんだん
気がついてゆく訳です。
 なぜかというと、人間を支えているものが神様の
愛で、しかも私共がいつも申し上げておりますように、
人間の生命というものは肉体だけのものでは
ありません。貫いてずっとむこうの世界まで行っても
まだまだ続いてゆくのが生命ですから、つまり永遠の
生命ですから。
 その生命を貫いている愛というものが尽きる
ということがなくって、生命というものも尽きる
ということがないとすれば、じゃあ人間の働き
というものは、そこに気がついてみると、そこに
気がついてゆくと、本当に充実しきった想いに
なってゆく訳ですね。何があっても壊れることは
ない。絶やされることはない種、生命の種という
ものを自分の中に持ってる。ね、持たされている。
 あるいはいただいてるということに気が
つくとですね、こんな喜びはない訳ですね。
 そうすると、自然に自分の気持ちが
落ち着いてきて、今色んなことがあるにしても、
自分は尽きることのないものを貰ってるんだ、
神様から貰ってるんだ。神様の愛というのは
無限なんだということになってきますと、だんだん、
荒い肉体を囲んでた業の波動というものが、祈り
によって浄められてきまして、気がついてゆくに
従って、荒いはずの波動が細かになっています。
 そして、細かになってきて、だんだん色んな人の
色んな想い、やりきれない想いだけじゃなくって、
心を求めている、人を求めている、淋しがってる、
そういう人の想いに人間というものは気がつくように
なってまいります。
 そうして気がついて、それに感応して関わりを
もって接していきますと、そこに何が生まれるか
というと、そこに愛念というものが生まれて
まいりますね。そうして、それがどんなに細やかな
ものであっても、その間に働くものというのは、
深いものがございますから、そこで生まれて
くるものは本当に光明に満ちたもの、光に満ちたもの、
愛に満ちたものになってゆく訳です。そんな風にして
実は、人間というものは気がつかない内に、
この世の中で、一歩でも二歩でも進歩をしよう
進化をしようといって、歩みを止めては本当はいない
ものなのですね。

 色々な所で紛争がある。色々なところで戦争が
絶えない。現象だけをみてると、こんなんで世界は
平和になるんだろうか、どうなんだろうかと思う。
 思うけれども、それは自分の気持ちの感情の部分が
思うんであって、自分の本体そのものは、皆さんの
本体そのものは、世界が完全に平和になるという
ことを知って生まれてきている生命なんですね。
 そうして、白光真宏会にきて私に会って、魂
そのものはそれを覚知してる本体なんです。ですから、
そこのところは全然動かされていないから、
何があろうと、この世界というものは平和になって
ゆくし、愛に満ちて調和になってゆくということは
わかってますんでね。そこに向かって我々自身が
生きているということを確認しますとね、随分我々
というものは落ち着くものなんですね。そうして
その働きというものも、だんだんだんだん自分の為の
働きというよりもですね、他者の為の、他者の為から
自分のまわりの世界、まわりの世界というとだんだん
広がって行って、世界人類になり、世界人類から
いうと今度宇宙人類になり、という風に広がって
ゆく訳です。

 我々の住んでる場所だとか、選んだところは
狭くるしくって、色んな制約がありますけれども、
我々の本体そのものは神様と直結しておりまして、
その神様の愛というものは無限であるということに
なってきますと、我々が器として要求されて、
あるいは動かしていただくその場所も無限である。
 ね、霊界神界とつながっていて、天の私と地の私が
それこそつらなっていて、一体となっていて、そこで
働いている。そういう生命なんだ。そういう働きを
我々はこれからしてゆくんであるし、又今して
いるんだということ。そしてそういうところに、
少なくとも想いをはせて祈りをしてゆくときに、
色々な人の想いが思いやりというものがこちらへ
伝わってきて、そうして自分の中の色んな想念の
想いの掃除というものができる。

 色んなことを申しましたけれども、自分をまず
高めてゆく。高めるというのも、ただ単に知識を
高めるとか智恵を磨くとかということだけでなくて、
自分の中の本心、霊性というものを磨いてゆく、
肉体だけではない、自分の生命というものに目を
そそいで生きてゆく。そうしてゆく内に、だんだん
だんだん愛というものが深まっていって、そして、
愛だけじゃなくって、愛につれて働いてゆく生命
そのものも、今度は愛を呼んでくれる様に
なるんですね。

 それは何かと言うと、例えば、この世の中で働く
ということは、生きる為にはお金を得るという
ことです。そのお金にも愛憎がこもってくる
訳ですね。つまり、苦しいばっかりだと苦しい想いが
お金の中にこもっちゃう訳です。苦しいが来るんです。
 そうすると、お金が入って来ても苦しい、入って
来なくっても苦しいという状態がくるんですね。
 あるいは不安とか不平とか不満とかね。そういう
想いが積もり積もった上で、例えばお金を受けとると、
そのお金はちっとも嬉しくないでしょ。つまり、
お金が入って来ても自分の心が自由じゃないね。
 想いが自由じゃない。何か解き放たれない。
 そういう中でお金を受け取ってもね、そのお金は
死んでるんですね。お金ってものは、この世の中を
生きてゆく一つの手段であって絶対的なもんじゃ
ありません。肉体を養う為のものですけれども、
それでもこの現象世界の中の一つ一つのものを
尋ねてゆけば、全部それは生命体です。本来の
生命に帰ってゆくもんですから、やはり物質世界の
ものであっても、そこへ向ける愛念というものが
浅ければ、つらい想いの方が強ければ、それは
それだけ現象なんだけれども、その現象を通して
自分の中の本心開発が鈍ることになる訳ですね。 

 だから、受けとるもの、暮してゆく為に
受け取るお金にしろ人にしろ、関わってゆく
関わり方にしろ、ここでどういう働きをしなきゃ
いけないか、つまり自分がどう接してゆかなきゃ
ならないかということは、祈りをずうっと深くして
ゆくと、自然自然にその自分の中の想いがですね、
掃除をされていって、そうしていつの間にかしら、
人に対してもやさしい気持ちになって和らいだ
気持ちになって、一つ二つは還せるようになってく。
 最初から何も完全にこうしなきゃなんない
ということはないんです。そんなことは考える必要
ないんですよ。ちっとも考える必要なくってね。
 私はもうこんな風に又言い返しをしてしまった。
 こんな風に又主人に口答えをしてしまった。ね、
奥さんに又こんな風に思いやりの無いことを
言っちゃった。そりゃあ夫婦だったら夫婦喧嘩も
するでしょう。親子喧嘩もあるでしょう。ね、
それから同僚だって、本当に虫が好かない奴も
いればね。会の中だって、いつもいつもニコニコ顔
という訳じゃないだろうしね。人間の集団なんだから。
 それでもそれを浄めてね、そうして生きていく術
ということになれば何かと言えば、それは祈り
なんですね。祈りの中に光があるし、祈りの中に愛が
あるし、そうして祈り一念になって、自分の中にある
光明というものを、確認をその祈りの中で奥の体が
していって、いつのまにかしら、やってゆくと、
そういう大きな深い愛の生命の中へ自分がさーっと
入ってゆける様になるんです。

 自分の力がないから非力だから、自分はこんな
大きな役目は出来ないとかね、何とか思って自分を
閉じてる間はこれは我なんですね。そんなものは、
人間に力がないということは、むこうが百も承知です。
 肉体人間そのままの、我の人間そのままの
生命だったら、神様は使やあしません。そんなものは。
 そうじゃなくって、肉体人間の奥の生かしてる
ものは何かといったら、神様の愛なんだから、
その神様の愛、自分のね、生命を分けた光を分けた
光の一筋の光線の一筋一筋のいとしい生命を神様が
抱きとって、そうして働きをさせようというんだから。
 その時にあなた方がどんな風に自分たちが非力
だと考えようと何しようと、そりゃあむこうの知った
こっちゃないんですね。その時にはまかせなきゃ
いけない。任せきった時には、自分で思いもかけない
働きというものが出てくる訳なんです。それは
任せ切った時に出てくる訳なんです。任せ切るって
いうのも、自分で任せよう任せようとかね。任せ
なきゃとかね、そんなこと考える必要ないんです。
皆向こう側が下さる働きなんだから。自分がゼロ
なんですね。あるいはゼロ以下なんですよ。

 肉体人間としてみればね、何も出来るもんじゃ
ない。凡夫なんだね。親鸞が言ったように
凡夫なんです。凡夫なんだけども任せきってね、
南無阿弥陀仏なら南無阿弥陀仏、世界人類が平和で
ありますようになら平和でありますようにの祈りの
中に自分というのを入れてしまうと、そこで、
自分の中へ普段は奥の方へ入らされている光明
というものが燦然と輝き出してきて、祈りになって、
一体になって、そしていつの間にか神様と一緒に
なって働ける。そういう生命というものを我々は
種として、生命の種として自分の中に持ってるんだ
ということね。それを忘れてしまったら、これは
卑下高慢になるんですね。

 生きてゆくってことは苦しいことです。生活
というのは大事なんです。だけれども、その生活
とか生命とかそういうものを支えてるものは何か
といったら、神様の愛だから、その神様の愛に入る
ということは、現実をバカにすることでもなきゃ
何でもないんです。その本来の生命にかえって、
神様に任せきった時に、神様がさーっと救いあげるし、
神様が働かせるし、その時に自分だけの働きじゃない、
まわりの人だけの働きじゃない、もっと深い
もっと大きな働きというものを、愛というものは
なさしめるんです。なぜならば、それは神様から
出ているもんであるから。そして、我々も神様の生命
一筋であるから、それが出来なきゃうそなんです。

            昭和63年5月5日
               五井昌久