わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

こころのしらべ

2010-07-06 15:56:56 | 癒し
一人一人の

心から流れてくる

しらべに

私は毎日

耳をかたむけている


泣き顔の人

黙り込む老人

からっぽになった私の心に

しらべが流れこみ

その人の心を抱く

光の私


かしわ手を打ち

口笛を吹いて

光明を送り込む

私がいる


こころが光でいっぱいになると

しらべは

おのずからやさしくなり

いつか光そのものとなって

神の世界のきざはしを

のぼりはじめる


人間の心に

眠っている

光をよびさます

私は神のしもべ

言葉を超えた心

2010-07-06 13:09:41 | 癒し
言葉で説明しつくせないことが、この世の中や、

人間には沢山あります。

よく、あの人は論客だという言葉を耳にします。

たしかに雄弁な人の言葉は、ちょっときくと

耳にさわやかなものです。

 しかし、どんな理論家でも、また、すぐれた

思想や哲学でも、たとえば、人間やいのちという

ものを突きつめてゆくと、どうしても答えが出て

こなくなってしまうのです。

 なぜかと申しますと、これは、私達のいのちや、

人間の存在というものを科学的に説明しようとする

からであって、究極まで参りますと、おのずから

言葉にならない世界に突きあたるのであります。

 
 そこで、ここからが宗教の領域ということになる

のでありますが、シュヴァイツァーが、生命への

畏敬といったあの言葉は、科学者として、また、

一人の人間として、実に真理の的を得た言葉だと

思うのであります。


 人が、科学の究極まで人間というもの、いのち

というものを、それぞれの分野で追いつめたその

時に、生れるものは、畏れをもった沈黙でありま

すが、生命の畏敬という彼の言葉は、この沈黙の

前に、人間が発した尊い言葉であると思うので

あります。


 ところで、ここまでのことではなくても、

人間には、いわくいいがたい思いというものが

ありまして、それは言葉では表わせないという

ことがいくらもあるのであります。

 目は口ほどにものをいうということは、我々が

日常に経験していることであります。こういう

ときには、我々は、言葉よりも、直接に、相手の

心にじかに、自分の心をぶつけてゆくことに

なるのです。

 無言であっても、その無言であることが、

百万言をついやすよりも、その人の心をあらわして

いるということです。


 私ども、宗教にたずさわります者は、こうした心、

言葉を超えた人間の心というものに敏感でなければ

なりません。

 心というものを言葉でおおうことは出来ません。

 言葉を心でおおうことを、むしろ、私達は心がける

べきであります。

 そして、自分の心と、人の心を大事にして、ともに

祈りの座につきながら、愛という、人間の言葉を超えた

神の心に、すなおに溶け込んで参りましょう。


                      五井 昌久