わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

柏手と印

2010-07-28 11:12:51 | 癒し
 私は柏手と口笛と印でずっと浄めてきました。口笛

というものは、これは特殊なんでね。なかなか皆に

こうなんですって言ってあげられない。

 ただ、柏手とか印とかというのは、これは時に応じて

必要に応じて、皆それぞれに出るように、器としては

今なってます。


 せっかくの機会ですから、実習を兼ねてやろうと思い

ますが。

 人によってね、柏手も印もこれはどういう違いがあるのか

という、まずそういう初歩的な質問があると思うけれども。

 どっちも違いはありません。

 柏手とか印とかそういうものを使って大事なことは、

神界からのね、高いところからの神様の愛というか祈りというか、

非常に深い流れをあなた方の柏手や印を通して流す。

 あるいは、私の柏手や印を通して流す。とそれだけですね。

 だから、中継地点になる訳です。


 皆がこう組む如来印があるでしょ。如来というのは、要するに、

仏様の中に私は一体になって仏様の慈悲を現わしますという、

そういう存在でしょう。

 その如来印を組むことによって我々は、神様の光と一体になって

あなたのお役に立ちますということですよね。印形を組むという

ことは、そういうことです。


 印というのは色んな形がある。皆泊り込んで色んなことを

やらされたから覚えているでしょうけれども。

 本当に色んな形があって、どれとどれを組み合わせてどうの

こうのと皆やるけれどもね。確かにそれは必要に応じて出て

きますけどね。

 本当はそういうものじゃなく、柏手にしろ印にしろ、そこで

無になって打ち、無になって切ればね、神様という方がそこで

立ち現われて、目には見えなくても、浄めて下さるわけ。


 その上にね、統一というものがある。柏手と印を使って、

あるいは口笛を使って、私が何で統一のテープうんぬんとか、


統一会をやったかというとね、ああいうものというのは人間の

意識を呼びさまされやすいんですよ。


 例えば、ふっと眠くなる。パァーンと叩く。眠ったままでも

いいんです。そのままでふっと叩くということはですね、

自分の中の肉体の奥の奥の体が目覚まされて、つまり、霊性と

いうものが目覚まされて、そうして、それによって、あなた方の

行くべき世界というか、帰って行くべき世界というか、そういう

世界が色々あるけれども、その中でも、一段二段三段無になって

それをきけばきく程、ずっと高いところへふっとつれていって

下さる。守護の神霊が。あなた方が意識するしないに関わりません。

 そうして、色んな想いの掃除をして下さる訳です。で、きれいに

なって、地上で又たたかえる様に還ってくる。その時

空になれる訳です。


 空というのもね、これも本当に面倒な言葉でね。空というのが

悟りの最後の境地とか何とかというけれども、本当は空にも

把われちゃあいけない。無にも把われちゃあいけない。

 難しいですよね。ただそういう風に言葉で言っちゃうと、もう

その言葉に把われてしまうでしょ、人間というものは。

 だから、私がいつか言ったみたいに、テープにいつも吹き

込まれているけれども、ただふんわりとして、そのひびきに

のって、流れにのってゆけばいいんだといいますけれどもね。

 というのは、皆おもいで世界を作っちゃう、人間は。


 だけども、本当はね、世界というものは何で造られているか

というと、神様のひびきで造られているんです。

 
 だから、その霊妙なひびきに統一する時に、その肉体の

波動ではなくて、本来のあなた方の奥の奥の奥にある霊妙な

響きにつながらせて、連結させて、そうして、私たちがもっと

細かな霊妙な働きが出来るような体にいつの間にかさせて下さる。

 それが、柏手とか印とか口笛とかいうことです。

 
 やっぱり、耳で聴いてね、ああ、お浄めをしていただいている、

五井先生が今口笛を吹いて下すってる。あるいは、印をきって

下すってるとか。

 人間というのは、やっぱりしるしを求めましょ。それは仕方の

ないことです。

 だから、しるしというものを通して、実は、しるしの奥にある

神様の愛というものをこちらから光で降ろすンです。

 なげるんですね。いつも言いますけど、柏手というのもね色々

あって、長く叩けばいいというものじゃない。長く叩けば叩くほど、

その人のもっている宿題とかね、辛いこととか、多いんですよね。

 だから柏手というものはそんなに長く続くと、ああ大変だなと

思ってくれればいいんですけど。

 とに角、柏手というものは叩こうと思って叩けるもんじゃ

ないんですね。ひびきだから。人によって、真っすぐ叩けばいい人と、

いい音というと又そのいい音に把われるかもしれないけれども、

そうじゃなくって、神様のひびきというものが出やすい人とね、

ななめに叩けばいい人と色々あるんですよ。


 例えば叩いてみましょうか。例えばね、パンパンパン・・・こういう

音とね、パンパンパン・・・こういう音とね、色々あるんです。

 それは種類によって色々あるけれども、ただこの人は、今

しゃべってるこの人はね、パンパンパン・・・こう叩かせた方が

高い音が出るし、人によってはね、こういう叩き方じゃなくって、

パンパンパン・・・この方が高い音が出る人もある。

 又、こういう風にパンパンパン・・・もっと力を入れて

パンパンパン・・・はいよろしいです。これはね、こうやると

だいたい高い。これは何の時のものかというとね、癒しを

する時に、パンパンパン・・・この後の方にひびいてくる音ではなく、

最初に出てくる音がありますね、高ーい、その高いひびきという

ものが、この世の中でいえば、薬師如来さんの働きをする訳です。


 だから、病気を治して下さい、祈って下さい、お浄めをして下さい

とかいう時には、会の方では色々制約があるでしょうから、その辺

うまくしてもらわないと今大変だろうけれども。

 一人でここでやる場合にはね、こういう風にして、

パンパンパン・・・、そうしてパンパンパン・・・こう叩く

パンパンパン・・・こういう風に。要するにここには

かからないですね。ここで叩かないと。親指はよけといて

四本の指で、この人がやっているように、左手でも右手でも

いいけど、手のひらを叩く。

 叩ききってゆくとね、高ーい澄んだ音が出る。そうすると、

それは癒しになっていく。癒しの光になっていく。


 それからね、人の想いとかね、そういうものが邪魔をして

くっついてきた時にはね、これはたてにパンパンパン・・・こういう

風に。そうすると想いが散るんですね、光で。 又、両方がある

時には、それはもう向こうに任せてしまって、パンパンパン・・・、

役割分担じゃないけれど、両方浄まってゆくんですね。

 これは何かというと、キリストの十字架なんですよ。たてよこ

十字の。キリストというのは癒しましたからね。手当をしたのは

彼ですね。手を当てて病人を癒したでしょう。

 だから、これをこうして十文字にやる時に、世界平和の、平和の光、

そういうものがポーンとここへくるわけ。

 こうやって、パンパンパン・・・、高い音を出した時に、癒しの光が

スゥーッといくんです。


 これは一つの方法的なことですけれどね、そういう形で浄めて

いったら、いつの間にか、自分が叩き叩かせてもらってるんだ

けれども、そのひびきの中へスゥーッと入っていく自分というのが

ある訳ですね。 出てくる。

 お浄めをするかされるかどっちでもいいけれども、そこで自分も

浄まっているんです。人を浄めるだけじゃない、自分も浄まって

いるんです。だから、人も自分もなんです。


 世界平和の祈りの教義の中にありますでしょ、つまり、個人も

人類も救われる祈りだというのはそれなんですよね。

 仏教的にいえば自分にとってもおかげの深い祈りである。で、

他の人にとってもそうなんだ。自己の為にもなり他己の為にもなる。

 そういう祈りを基盤にして、我々はお浄めをしているし、

業を光に変えている。そこの祈りに対しては本当に自信をもっていい。

 そして、このキリストのね、まあキリストにこだわることは

ないけれども、そういう十字架に現わされた愛、たてよこ十文字の

世界全体をつなぐような愛と、その愛に対して合掌するおもいですね、

それが両方交差したこの相手というもの。そこから出てくるひびき

というものは、これは浄めずにはおかないんです。


 それから、印にしたってね、例えば、この人にやらせているのは、

色んな人が今来ていますよ、ここへ。

 それでやらせているのはね、ずっとくっついている霊体なんかが

ある、こういう時には、こうするんですね。(実演)そして、

こっちもこうして。そして、背中というのは皆くっつく。だから、

ちょうどお掃除をするように、この三本でかき出すんです。おもいをね。

 自分が出来ているか出来ていないか別としましてね、はき出す。

 そういう時に、こっちは受け皿にならなきゃならない。これは、

仏教で言えば、大乗の心ですよね。誰をも救わずにはおかないという

神様の御心ですね。そこへ皆入れるんです。

 
 お浄めをする時に一番大事なことは、その色々な現象、とっついて

きたもの、それに対して、向こうへ行けあっちへ行けというんじゃ

なくてね、神様というのは、本当はあなた達を愛しているんですよ、

あなた達を本当に大事に思っているんですよ、だから、その大事に

おもって導いて下さる世界へ一緒に帰りましょう。五井先生に連れて

帰ってもらいましょう、神様の大愛によって愛念によって連れて

帰ってもらいましょう。

 そうやってね、愛情をもって呼びかけることなんです。


 困ったことだなあ、私に出来るかなあ、やらせてもらえるかなあ、

と思いながら自信なく柏手を打ったり、印をきったり、フェロー印

でも何でもそうですよ。私なんかがもったいないとか思ってやったり

したらね、せっかく上からこうやろうと思っているのに、光が

とどかない。そうじゃないんです。

 そういうものを全部含めてね、自分も浄まり相手も浄まり、

全体の為になる。一つの修行なんですから。


 印にしろ柏手にしろ、五井先生の柏手にしても印にしても口笛に

しても、統一全体にしろ何にしろ、皆が朗らかになってゆく、

そのことの大本なんですよ。

 そのひびきを伝えるのが、印形であったり、柏手であったり、

色々な形である訳です。だから、そこを信頼して信仰をして

やっていったらね、自分に対して真実の信頼が出てくるし、信仰も

出てくる。 そういうことですね。



 浄めをたのまれたら、神の愛念、祈り心で自分をなくして

かからなければいけない。
 
 かしわ手も、必要なだけ、神様が打たせて下さる。



 ただ黙って手をおいてあげること、祈ること以外に方法が

ないような場面に、しばしば私達はぶつかる。その時こそ、

まごころをこめて手をあて、祈りなさい。

 神がすべてをそなえて下さる。