わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

短 信(32)

2015-12-13 06:58:59 | 癒し
 自分を役立たせたい、お役に立ちたい
という気持ちは、実に尊いもの
であります。
 ありがたいことでありますが、
あまりに、この気持ちに熱を
おびさせますと、やはり我(が)の
世界へと引き入れられるのであります。

 私達は、余程ここのところを
しっかりと見極めねばなりません。

 私達が、お役に立ちたいとおもう時、
それは具体的には、私達の知っている
誰かに対してーということが多い
のであります。
 たとえば、友達が病気で苦しんで
いる、どこかいい先生はいないか
と言う時に、一生懸命世話をする、
また、自分の知っているお医者さんに
連れてゆく、それでようやく治って
みると、自分が思った程には友達が
感謝してくれない。こういうことは
よくある話であります。

 これはなぜこうなるのかと
申しますと、苦しんでいる友達をみて
一生懸命に動いたその時には、お役に
立ちたいという気持ちが、純粋に
働いていたわけであります。むしろ、
この気持ちによって、心がもえた
ということがいえるかも知れません。

 お役に立ちたいという心、愛念が、
その人を突き動かしたわけであります。
 この時には、ただもう友達の苦しみが
取れればという気持ちだけでありまして、
そのほかには何ものぞんでいないのです。

 それで、色々動いて、その結果、
元気になってきますと、本当によかった
と思う。ところが、すっかり元気に
なって、その友達にお礼はいった
のでしょうが、そのお礼の言い方が、
動いた方としては、何かあっさり
していて、物足りない。そして、
物足りなさを感じているうちに、
今度は、自分があれだけ動いて
やったのに、友達はわかって
いるのかしらという気持ちに
なってくる。

 こうなると、もう「お役に立ちたい」は
どこかへ行ってしまっている。

 お役に立ちたいという気持ちは、
汚されない、純なものであります。
 この人も、そのはじめには、純な
気持ちから出発したのであります。
 それがおかしくなったのは、自分が
目の前の友達のために一生懸命動いた
という気持ちにとらわれたから
なのであります。

 人間というものは、神様の光なのだ、
光の一筋なのだということは、
つねづね申し上げていることで
ありますが、お役に立ちたいという
気持ちをじっとみていますと、それは
ただ、光が光にむかって働きかけて
いるということなのであります。
 つまり、私達は、具体的には、
自分の知っている誰かを通して、光
として動く、光明を発揮している
ということになるのであります。

 ですから、お役に立ちたいという
のは、本来、誰かのために動く
とか何とかというようなものではない
のでありまして、それでいいますなら、
神様のために、このいのちを、幾分
かでも働かせていただいたということ
なのであります。

 要は、あまり、お役に立ちたいと
思いつめず、ふんわりと、神様に
その気持ちを伝えていらっしゃれば、
一番いい方法で、神様が、あなたを
使って下さるということなのであります。

 のんびりと、ふんわりと参りましょう。

 世界人類が平和でありますように
         合 掌                        
           昌 久