わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

再び道について

2010-12-11 15:54:55 | 癒し
 えー、先日、道ということでお話しを致しまして、多少、内容が

込み入るものですから、途中で結論的なことを申し上げて

確か終りにしたんですけれども、何を省いたかと

いいますとね、もっとも私の話は省いているようにみえて

全部いっているんですがー。

 それはともかく、この間、結論の中にすでに含まれていると

思いましたのでいわなかったこと─それは人間、我々人間の

救われ方ということについてであります。


 世の中には宗教なんかに頼らなくても十分自分の気持だけで

やってゆけるという、いわゆる宗教を毛嫌いする人達をはじめ

として、沢山の色々な立場で生きている人達がおります。

 で、この中には無神論者と呼ばれる人達もいるのであります。

 この無神論者の人達は目に見えるもの、第一には自己ですね、

自分自身を先ず信じる。これは何と言ったってね、自分という

ものが生きて働らいているということは信じざるを得ないこと

ですからね。逆にいうと、この人達は目に見えないものが

信じられないわけね。しかし、私達がもし目に見えないものは

徹底的に信じない生活を始めたらどうなるか、空気、風、

これらは見えないものですよね、けれども、空気や風をこの世に

ないなんて思って生きてる人は一人もいないでしょう。

 なぜなら空気は私どもが生きてゆく為に是非とも必要なものですし、

風だってその空気の集まりで、時には恐ろしいこともあるけれども、

春風、秋風ね、ほほに心地良いなんていいますね。

 要するにこの二つのもの、何もこの二つに限ったことでは

ありませんが、この二つのものは我々の生活の中で見えていなくても、

我々の生命を支えている大事なものだということを無神論者と

呼ばれる人達でさえ感じ、生きているわけです。

 そこで、ここまで話してきましてわかったことは、何も目に

見えるものだけを事実、或いは真実として生きているのが無神論を

唱える人達やまた、唯物主義者などという人々に限られない

ということです。


 我々にとって絶対必要なものは、つまり、目に見える事実と

同じ程、あるいはそれ以上の価値を持つということをこれらの

人々を通して、私どもは知らされるわけなのであります。

 さて、そろそろ話を展開していきましょうね。いいですか、

私の方をよく見て、よく見てったってここには五井先生しか

いないじゃないかなんていう人がいたら、その人も唯物論者の

一人かも知れないね。

 まあ、冗談はさておいて、必要ですからもう一度だけくり

返しますと、我々人というのは、何も目の前にある物や会っている

人や、事実、私ははじめにこれらの人々が信じられる最大のものは

自分自身だと申しましたけれども、しかし、たとえば、空気や水や、

そういう生きていく上にこれを失ったらどうにもならないものは、

事実以上として認めているわけですね。そうしなければ生きて

いけない。

 で、ね。
 
 今日は先回の「道」の続き、それから、その続きというのは、

人間の救われ方について説明をしなかったということを申しました。

 ここで、くどい程目に見えるものと見えないもの、見えていない

けれども人が信じられるもの、について述べたのは、ここから

話がややこしくなるんで、ここの所をはっきり覚えておいて下さい。

 それで、今迄の例で申しますと空気や水をあると信じる

ことによって、この今、私が言った人達は救われているわけです。

 ところが、この救われ方というのはあくまでも自己の生存範囲

というか、生活範囲の枠の中での救われであるわけです。

 こういう枠を設けて生きている人にとっては、明日、地球が滅びて

空気も水もなくなってしまうということが、もし事前に事実として

分かったら、それだけで目の前が真暗になるでしょう。

 今迄信じてきた空気や水がなくなってしまう、それどころか

人間の存在そのものがなくなってしまうわけですから。


 ということは、我々は何を拠り所にして生きていったら

いいのか─ということになるわけですが、もう少し誤解

されないように、救われ、救いの範囲について説明していきましょう。


 一体、救いとか、救われの範囲、というのはこれは、

人間の側から出ていることです。

 神様というのは、本来、枠のないもので、救うということに

ついても、誰を救って誰を救わないという方ではないわけです。

 ですから、神様側からすると、救いの対象は無限大、

救われ方は無限定ということなんです。


 この救われ方ですが、お金持になってそれでよかったという

価値感、それだけが幸福だと思っている人は、お金持になる

ということ自体で、もう救われたと思うのかもしれませんし、

又、それは一面で幸福なことかもわかりませんけれども、神様の

側から見た救い方、あるいは救われ方というものは、単なる事実、

実際に、一つのことが起ったとか、状況とか、それだけを指して

いるのではありません。なぜ人を救うのかというと、それは、

人間が本来一人一人神の分霊であって、大神様、宇宙神の輝きを

現わす生き生きとした生命の相に帰す為であります。

 そういう生命の相があるのだ、自分の中に内在しているのだ

ということを理解させる為であります。


 ですから、この世的にみれば、何と理不尽なと思われるような

運命を最後に受けて死ぬ人がありますけれども、それでもその人は

神様からみれば十分な救い、あるいは救われをすでに受けている、

なぜなら、神様は愛そのものだからです。


 救われ、救いというものは、神様からみれば、全く公平に

与えられるものですが、その現われ方はむしろ、人間の考える

「救い」とは全く逆の形になる─そういう人達もおります。

 こういうことは、生涯がいよいよ終りという時に現われて

くる時もあれば、一生のいくつかの時期の中に救いようのない事柄、

やり切れないものが盛り込まれたりするわけです。


 たとえば、生涯の終りということで言いますとそれは、

我々人間の死に方、死に様、ということになるわけですが、

よく不慮の事故で死ぬとか、まじめで誠実な人なのにとんでもない

災難に会って死ぬとかいう死に方があります。

 これなどは、神界の悟った高い魂を持った霊達が降りてくる

ということと同時に、何生、何十生かけて生き徹した本来の命の

完成を目ざすことを目ざして、そういう去り方をする場合が

あるのです。


 誠に生きている人間の気持ちからは、特に残された遺族などは

たまりませんけれども、大きな神様の光の流れ、命の完成から

いいますと、そういうことは、常に行われて新しい命、世界を

作り上げていくわけなのです。


 まあこれは生き死にに関したことで、極端にきこえるかも

しれませんが、これ程に神様というのは人間を何生、何十生に

わたって守り、導き、遂にその命が究極の完成を果たすまで、

愛念という光を送り続けられるものなのです。


 生命の流れには様々な支流があります。大河と定められて、

どんなに細くても悠々と豊かに流れていく流れもあれば、流れを

途中でせき止められて、遂に一本の草にすら生命の輝きを送れなく

なったものまで、実に様々です。

 しかし、どの河も生命の本源という同じ源から発したことは

間違いのない事実なのです。本源は枯渇することがありません。

 一旦は生命の河の流れをせき止められたかのようにみえても、

その実、源の源である「生命」は輝きを失うことはないのです。

 そしてこれは、理不尽なこの世での最期を遂げるべく定められた

人々の災難にもいえることなのです。


 この世での生命があるいは短く、あるいは悲惨に終ったとしても、

霊界、神界では悲しむ必要は全くありません。なぜなら、本来の命に

帰り働く為に仮にこの世での死が用意されたにすぎないのであります。

 このように救い、救われというものは、神様の側から平等に配分

されたものなのでありますが、現実世界の人間にはそれがみえない。

 もっと申しますと、一時みえなくさせられているわけです。それは、

人が味わうべき愛別離苦、あるいは歓喜といったものを十分に

味わって、そこで自らの中に起きる感情の波を経験し

生きていくことが是非とも必要なことだからです。


 この波の中に、真の救い、救われというものも実は入っている

わけですが、一気に生命の歓喜という風に真っ直ぐいかないのは、

初めからそこへ行ってしまいますと、それぞれの魂に必要な修行

というか、そういうものを全部素通りさせることになるわけです。


 これでは一人一人が持っている本来の光を十分に輝かすことは

できません、一旦、肉体を通して浄めていくというのは、

一見しますと真理というものに遠いと感じられがちでありますが、

事実は全く逆なのでありまして、生れてすぐに亡くなるとか、

人としての意識を持つ以前にあの世に逝くといった人々は、

まことに限られた浄めの光というものを持って生れてきた、

特別任務を帯びた人々であるということができます。


 何を浄めるかといえば、自分に連なる親族、両親、家族は

もとより、この世の波動の粗さを光に近づけるという、世の中

全体の浄めを行い、同時にこの世を幽・霊・神界に生きて働いている

人々の生命に、深く結びつけるための浄めなのであります。        


 さて、そこで一旦我々の眼から覆された救い救われ(この世的には、

災難・苦難・突然死など理不尽にみえるもの)は、それぞれ命に

必要な時期を選んで現われて参りますが、人間の眼からはこれが

そういうものだとわかるのに、時間がかかるようになっております

ので、十分にこの世の波と闘う用意もでき、又その備えとして

先回申しました「拠り所」、道というものが準備されているわけ

なのです。

 光に変えるための生命の修行といっても、目に見えないこれらの

ものを肉体をまとった人間がただちに行じ、行うにはこの世の

構造は何段階にも分れているわけで、又、そうでなくては新しく

生れてくる生命、又、この世を去って三界に新たに生命を吹き込む

人々を、送ることはとてもできないのであります。このための

道であり、生命であり、これを支える拠り所であるわけです。


 つまり道は、救い、救われを補助するものとして、我々人間に

与えられているものだと理解されると一番わかりが早いわけです。

 この道一つにしましても、一人一人の生命によって全く違う

現われをするのが、神様の芸の細かい所でありまして、我々は

この神の働きの細密さに助けられて、真理への道を歩いていると

いっていいのであります。

 道

2010-12-11 15:47:18 | 癒し
 道というのは、色々な種類がありますね。一本道、三さろ、人生の

別れ道なんてね、別れの一本杉という歌がありましたけども、一本と

いうことでいえば、あれも一本で立ってるわけね。

 で、杉の元々はというと、生命でしょ。わたくしがいつもいっている

波動、光ですよね。

 で、いつもいっておりますように、人間というのは、この世にも、

人間界にも、幽界にも霊界にも、神界にも、自分というものが存在して

いるわけですね。そうして、それぞれが波動でできている。そうすると、

元々が光である我々、神の分御霊である我々に、何も「道」なんぞ

というややっこしいものは、なくてもいいように思う、ねえ。


 車が走るから、車道があるでしょう。運転席をおりて歩けば、今度は

歩道ですわね、まあ、これは、今、皮相的な説明をしたわけで、

たとえば、習い事にしても、茶道があり、華道があり、書道があって、

なんか、我々人間のおもい、人のおもいとして、「道」という言葉に

すがって生きているようなところがある。

 これは間違いですか?と、今、私の話をきいている人の中には、気の

早い人がいて、答えを先どりしたような顔なすってる方も二、三

ここから見受けられますけども、間違いじゃあない。


 じゃあ、どうして、何でもかんでも「道」という言葉をつけるんだろう。

 もっというと「道」とつくと、ありがたいような、尊敬したいというか

一寸あおぎみるような心持ちになるのは何故なのかと申しますと、それは、

人間というものは、何かよりどころとするものがなくては生きてゆけない

存在だということなのであります。

 もちろん、茶華道といったって、そんなに気を入れて、たずさわって

いる人ばっかりじゃあないでしょうし、又、「道」というものが、人間の

心の奥底で、それを意識させることによって「よりどころ」となっている

ということを自覚して、たずさわっている人は実に少ないのであります。


 そこで、今日は、このよりどころということと、「道」のおはなしを

しようと思いますが、では、「よりどころ」=「道」かというと、これも、

微妙にちがうものなんですね。

 ちがうもの、といいますのはね、今、わたくしが申しました

「よりどころ」というのは、あくまでも、人間の私たち一人びとりの心の

側からみた「よりどころ」なんで、これは決して、神様の方からのおもい

じゃないんです。


 人というのは、弱い、苦しい存在ですから、何か、神様神様と普段

思っていてもね、祈っていても、どうしようもないことにぶつかると、

神様も何だけれど、もっと確かなものが欲しくなる。

 たとえば、苦しい時に人がそれをみていてくれる。あるいは、病気で

苦しんでいる時に、手をにぎってくれる。これらは、その辛い目に

あっている人たちからしますと、何よりも、確かなよりどころですね。

 人の手のぬくもり、なぐさめ、これ以上確かな、現在、味わうことの

出来るよりどころはないわけです。


 けれども、つねにいっておりますように、「すべては消えてゆく姿」

なのでありまして、よいことも、わるいことも、すべて、すぎ去ってゆく

ものなのであります。

 それは、どうしてかというと、生き徹してゆく一人一人の本体

(たましい、霊体)が一段一段階段を上るためなんです。ここのところを

忘れたり、間ちがえたりしますと、楽しい時は、どうして早くすぎて、

辛い、苦しい時間はどうしてこうも長いのだろうとため息をつくことに

なるわけ。そこで、これは、「よりどころ」真実、真理に通じるものでは

ないわけです。何も、私はここで、苦しんでる人をなぐさめるのは、

真理に遠いなんていうつもりは毛頭ありません。

 そうではなくて、辛いことは勿論ですが楽しかったことでも、

いつまでも、その瞬間にこだわっていますと、いつしかそれが執着になる。

 とらわれのおもい。人間の発する想念というものになるわけなのです。


 そこで、整理してみますと、それじゃあ、そういう人の思いとしての

行為、よりどころと思って、我々の心がみんなすがってゆく

ぬくもりなどを、永遠のものではないとしますと、何の為に、「道」

というもの、「道」とよばれるものが、我々の前に与えられているのか

ということになろうかと思います。

 先程、茶道華道というものを、この話の導入として申しました。で、

結論から先にいいますとね、本来、「道」と名がつけば、それが、習い事

であっても芸事であっても、それは、人間が神様の子どもになるそのため

の修行の場に行かされているんだといっていいんです。

 『中庸』に道についての孔子の言葉が出てきますわね、

「人、道に遠きは」とか何とかむずかしいことがかいてあるけれども、

要するに、我々の日常生活の一瞬一瞬の中に、道(人がおこなってゆく

道)というと、ややこしいか。つまり、生き方というものはあるんだと

いうことがかかれています。


 神様というのは、遠い遠い所にいるのではなくて、みんなの眼には

みえないけども、もう光になって、充満しているわけ。みなさん一人

一人の心の中に、ちゃあんといらっしゃるわけです。

 イエスが、みんな一人一人が神の宮なんだということを言っていま

しょう? ね、あれと同じなんです。それども、イエスも申しました

ように、現代という時代は、まことにやっかいなことに、「しるし」を

求める時代ですよね。御免状なんてね。

 で、あまり「寄り道」をしますと、こんがらがってはいけませんから、

手短かにいいますと、この道というのは、わたしどもが真理の階段を

上るための一つの姿として、あらわれとしてあるのであります。

 つまり、どんな「道」も、それが華道であっても茶道であっても、

そこに加わるということは、大神様が、守護霊守護神が、働かれて、

しらずしらずの間に、私どもの本体である「光」をかがやかすための

ものなのであります。


 そうして、これは、何もお茶やお花や、書をやっている人だけとは、

勿論かぎるものではなくて、私たちの心の奥に、人間として生まれた

以上は、何か一つことをやり遂げたい。根を張って生きてゆきたい

という思いが、たとえば、誠実に生きるなら、誠実に生きるという

ことを生涯の目標としてかかげることも、神様につながる道につながる

ことなのです。

 つまりは、この神様につらなるための手段(方法)として、万人に

その人となりの「道」があり、これを通じて、真のよりどころである

完全円満の世界、大神様への世界につながってゆくというわけで

ありまして。

 人が辛い時に、手のぬくもりを求め、そこから、何かしらかわらない

ものを求めて、各々が「道」に志す。で、これを我々はいつか

「よりどころ」だと思って生きるわけですが、実はもう一つ奥に、この

「道」を手段とした宇宙神という真のよりどころ、永遠に目ざすべき

私どもの道があるわけであります。

 それでは、当日はこれで。どうもありがとうございました。

無 題

2010-12-11 15:40:07 | 癒し
(私のいのちは)

私のいのちは

神様のいのち

神から流れてくる

愛に生かされている

私は子ども



 (皆)



天界の住人



 (みんな)

神様の前に

人間のいのちは

みんな一つです

みんな光の結集なのです



人間は

神にむかって

歩いている



誰一人として

神から

愛されない

者は

いない



私と

あなたは

おなじなのです



みんな

神から来た者

神から

生まれていない

人間は

一人も

いない



祈って

祈って

深く

本心に入ると

無邪気な

神の心に

出会う

生命(いのち)の流れ

2010-12-11 15:31:29 | 癒し
 生命の流れというのは、この世のながれもあれば、霊界、神界の

流れもあるわけです。

 霊界神界の流れは、微風水動(みふうすいどう)という言葉が

あるように、流れるという意識もなにもないところで悠々と流れて

いるわけです。つまり、生命の本体というのは、極めてさりげなく、

悠々としたもので、こういう悠々とした生命を、肉にまとっている

人間は、本来は、感謝感激の筈なんだけれど、肉の波動は荒いから、

中々、微風水動というわけにはいかないわけです。


 夫婦げんかも兄弟げんかもあるわけ。

 全く人の想いというのはやっかいなもので、中々、微風水動─

つまり、風は動くともなく動き、水はそれに従って流れると

いうような神界天界の流れにはなってゆきにくいわけ。ここに、

すこうしずつでも近付いてゆくには、肉の身をまとってあらわれて

くるさまざまな怒りや、ねたみや、腹立ちといったものを、セミが

カラを脱ぐように一つずつ脱いでゆくということが必要なんですね。

 日本に四季があって、衣がえというものをやりましょう、夏に、

冬の重い服を着ている人はいないですね、夏は軽やかな服装になって、

重たいものは脱いでしまう。というのは、重たいものが必要じゃない、

これだけの軽さのものでいいということを体がしっているわけよ、

だから、余分なものを着ない。

 人間の、我々のおもいもね。こう動いたらあの人がこう想うんじゃ

ないかとか、出しゃばりだとおもわれるんじゃないかとか、余計な

心配が入ると、決して、素直に動けない。心配に

しばられてしまってね。

 本来、生命というものは、明るい、のびのびとした、

太陽のような、宇宙のような拡がりをもったものなんです。


 ところが、人間関係、社会という中で生きていますと、中々、

そこまではゆけない。たまにそこまで行けたと思う瞬間があっても、

又、逆もどりしてしまう。それはそういう風に生きてきたから、

クセづけられているんです。このクセが曲者なんですよ。

 いいですか、我々が少しでも神様に近づこうと思ったら、たとえ、

一生の中で、何億回、何兆回、そのクセが出てもね、出てもいいから、

ああ又神様、クセが出ました習慣がでました、といって、そのまま

神様に預けちゃうんです。

 神様は、想いの銀行なんだから、神様にどんどん

余分なものは預けて、本来の自分に帰れるように、世界平和の祈りの

なかに、私の名前をよぶ中に、毎日を生活してください。

 いいですか、はい、それでは今日の話はこれでおわります。

 どうもありがとうございました。


                         五井 昌久