わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

肉体は光を受ける器

2010-12-03 11:26:33 | 癒し
肉体は

真の人間の

からだではない

肉体は

光を受ける

器である


しかし

だからといって

特別な場合の他は

健康を

おろそかにしては

ならない

器には

愛深いこころが

なければ

ならないからである

老人の生き方について

2010-12-03 11:02:00 | 癒し
(問)老人の生き方についてお尋ねします。

 
 (答)この頃は、若い人があんまり長く生きたくないとか

言う人が多いですよ。誰かさんもどこかでそんなことを

言ってたけれども、何で生きたくないかというと、

どこかでね老醜を晒すという恐怖、それから、体が弱く

なってくるという、それを認めていかなくてはならない

でしょう。老いるということはそういうことですよね。


 老いるということは、体力的な気力的なものの衰え

というものを認めてゆかなければならない。つまり、

記憶もなんか悪くなってきたとか、そういうマイナスの

部分を認めてゆかなければいけない。だから切なさとの

戦いですよね。本当にそうなんです。六十になったら

六十になった途端全部忘れてしまっちゃって、今聞いた

こと全部忘れちゃって、又最初から読まなけりゃならない、

人の話も又最初から聞かなけりゃ分からないというように

なるんですよ。本当にそうなるんですよ。70になったらもっと

ひどくなるんですよ。皆そうなんです。で、その一つ一つがね、

自分にとって恐怖なんですよ。


 又、老いると、人を容れるという肝要の心が失せてしまう訳で、

その寛容でなくなるというのは、これはその人の性格というよりも、

その人の生きて来た年令がもたらす生理的なもので我慢できない。

 気を長くしようと思っても、その人のその時の体力とか

生活状態とか色んなことで、生理的にもう我慢ができなくなって

人を怒鳴っちゃうとかね、そういうことがあるんです。

 そういうものが正しく自分自身であるという風に、

ある一瞬間でも見なければならない。それが随分辛いんですよね。

 それが恐怖になってゆくんです。それは60に70になった人が

恐怖だというよりも、20代でも30代でも40代でもですね、

ああこの辺が我慢できなくなっているなっていうことになると、

人間って愕然となるものですよね。結局のところそのあたりの

ことなんですよね。 それでは、生きてゆく限り皆老人になっていく

訳ですから、老いていくということをどういう風に考えて

生きて行くかということはこれは永遠の課題なんです。けれどね、

生きるということは結局、生かされているということなんですよね。

 自分が生きるというよりも万物に生かされているというね、

その生かされているところへ自分の意識をもっていくと、それが全部

感謝に変わっていく筈なんですね。祈りによって感謝になってゆく。

 とても感謝しきれない事もあります。悔しい事も情ない事も

生きている内に色々ありますよね。ただ感謝しなけりゃいけない、

いけないいけないと思って、無理に感謝していくと今度は病気に

なりますよね。ですから、私がそのまま悔しい事悲しい事を

お祈りの中へ入れなさいと言うのはね、ありがとうございますと

言うのが言い難い、言い難ければ、それはそのままで、五井先生

お願いします神様お願いしますと言えば、守護の神霊がそのまま

祈って下さる訳ですから。


 若い時には、あの祈りは大調和の祈りですから、ああいいなあと

思っている。ところが、歳を重ねる毎に、あの祈りは難しいなあと

思う筈なんですよ。つまり、すべてにありがとうございます

でしょう、ありがとうございますどころじゃない気持ちの人達がね、

世の中に一杯いるんですよ。嫁と喧嘩をしている、息子とうまく

いかない、孫が自分と離れていく、子供が自分の思うような方向に

いかないと、自分が生きて来た人生は何だったろうと思う時にね、

ありがとうございますとはなかなか言えない訳でね、

そのありがとうございますと言えない部分が増えてゆく訳ですね。

 だけれども、それが何故そうなってゆくかというと、その人が

生きて段々歳を重ねていって、人生というのは一面から観れば、

喜びや楽しみよりも何か寂しさと悲しみの方が多いということを、

自分の経験で知っていく訳ですよね。

 ですから、その経験で計る以上は、何となく虚しい寂しいの

そっちの方が勝って、なかなかありがとうございますと言えなく

なるんです。


 ですけれども、そこでじゃあどうしたらいいのかというと、

それでも生命というのは生きる事を止めないという、その事実

なんですよね。

 みんな生命というものは、一つとして、この人の生命は要らない、

この草木の生命は要らない、この大地の地球霊王の生命は要らない

というものは何一つとしてないんですよ。神様の目から観ると。

 この人は悠揚で尊い高い魂だから、こういう人には生きてて

もらわないと、優れた人を見ると皆そう思いますよね。ですけれども、

黙って意見も言わないような、居るか居ないか分からないような

人を見ていると、なんか尊敬する気にもなれないし、その人が

何十年も生きていると、何をうすぼんやり生きているんだろうと、

別に残酷な意味ではなくても皆思うんですよ。ところがね、

こっち側から観ていますと、さっきの話の続きじゃないけれど、

やっぱり誰一人として神様の光を出さない人間なんて

いないんですよね。そういう人程ね、つまり、何も主張せずぼんやり

生きているように見えるけれども、その中の火は燃えている

というような人、その人程本当に素直に生かされている、

生命のままに流れのままに生きるということになるんです。


 老人が生きるのが何で難しいかというと、そこの所に鋭さが鈍く

なっていませんとね、自分の経験によって生きて来た世界によって、

虚しさの方が多いじゃないかと観てしまいますからね、そこで

負けてしまうんです。その自分の経験の中に引き込まれちゃうんです。

 で、それを跳ね返す力が弱くなるんですよね。ところが老人

というのは、人間世界から観た年令のことであって、これが魂の側から

観れば、魂の古い新しいはありますが、しかし、生まれてくる

生命の中には古い新しいというものは無い訳です。みんな同じ資質

といいますかね、神の性といいますか、違いはありますが、

そういうものを持って生まれて来ているんですよ。だから、

この世的に60になろうが70になろうが、その人の魂が、

やっぱり自分は生かされてる、体が動かなくても、何かしたい何か

やりたい何か役に立ちたいという風に思っている限りは、その人の

魂は若いんですよ。ただ非常に難しいのは、老人というのは、

我というのが強くなるんですよね、自分の生きて来た経験では

こうだからこうじゃないか、これは間違っている、これはおかしいと

思うんですよ。無理はないんですけれどそうなんです。


 それがね、それが人間の我だって気づいてそれを直してゆく

ということは、なかなか難しいんですよ。それが凝り固まってゆくと

意固地になり頑固になり、喧嘩ばかりしているというようになる。

 そこに、自分一人じゃない、自分は生かされているという想いが

あるということになってくれば、自分だけの世界に閉じこもらないで、

歳とっても、もっと広い神様佛様の光の世界があるということに

なってくれば、本当に生命が朗らかになってくるんですよ。だから

何も宗教だけがいい訳じゃないんです。広い意味で、いい音楽を

聴いてもいい絵を観ても、いい本を観て感激する感動するということは、

それだけ心が若くなって心寛やかになってくる。それは宗教と同じ、

根は同じなんですよ。


 皆さん縁あって白光を知り五井先生という人に出会って、そこから

神様という階段を昇り始めた人達というのは、それで尚かつ歳を

とっている人というのは、何に気をつけなければいけないかというと、

自分が素直になるって事と我を出すっていう事の違い。そこを区別

してゆくのはとても難しいけれどね。

 素直になるというのは、ただ単に自分の思うように

生きたらいいというもんじゃないんです。これは若い時

から気をつけなければいけないんだけど、思うように

そのまま生きていったら皆我が儘になるんですよ。


 神様の流れのままに生きるということは、私はよく書きますけれど、

その神様から来る流れの中では色んなものがあるんです。調和している

ものもあれば、一見して不調和のものもある訳です。大波小波も

ある訳なんです。

 だから、流れのままに生きる事は、その大波小波に覚悟して

いけますよという、そういう事なんですよ。

 そこの所を間違えて、いい事ばかり解釈していると、悪いと

みえるような事があった時に、何で神様がいるんだろう、何で佛様が

いるんだろうになっちゃうんです。

 ところが、その流れというのは、本質的には人間を良くしよう、

もっと調和させてやろうという神様の心ですからね。それに本当に

乗っかって任せきっていればですね、必ず光も送るし、必ず道が

開けるんですよ。

 そこの所で、ああ本当に私は生かされている、本当に祈りがある、

本当にここで任せて任せて任せ切っていったら、自分の生命が

開くんだっていう風に信じ切って下さればね、そこで人間の持っている

老人の持っている我なんて、ふっ飛んじゃうんですよね。

 70幾つの人が生きてる、60幾つの人が生きてるというよりも、

その人の天命自身が輝くんですよ。


 ですから、素直になるっていうのはね、あくまで神様に素直になる

という事であって、自分の我がでてくるという事じゃないですよね。

 ただそれだけに私生活が非常に難しい。だから、自分が非常に腹が

立ったり切なかったりした、そういう気持ちを味わった時に、

まてよこれは私の我なのかなあ、それとも神様から来ている流れの中で

覚悟しろということなのかなあ、ということを考えながら、

世界人類が平和でありますようにとやってゆくと、お祈りの中に

こめられてる愛念がですね、そりゃあお前さん我だよとか、そうじゃ

ない、そりゃあ神様の流れなんだから覚悟して受けなさいって事は、

後が教えてくれますよ。自分が考える事じゃないですよね。後が教えて

くれますから、自分が想い悩み始めたなと思ったら、とに角、祈って、

五井先生に聞いて神様に聞いて、これどっちなんでしょうと、こっちに

預けてくれたらですね、こっちがものすごく知らせやすいんです。


 それを皆預けきらないものだから、これはどうなんだろうか、

ああなんだろうかと想い悩んで、あれはおかしいこれはおかしいと

なっちゃうんです。あれはおかしいこれはおかしいという事は、

神様の世界には一つとしてないんですよ、完全ですからね。ですから、

あれはおかしいこれはおかしい、これは苦しいですよ先生、という

時にはこっちへ駆け込んで来ればいい訳なんです。

 まだみんな駆け込み方が足りないんです。


 そういう事ですから、若者も老人もひっくるめて、生命に素直に

なって生きるっていうことは大変なことですけれど、そこを目指して、

光に満ちた人が出来上っていくように、こっち側から応援して

いますから、そんな風に生きていってもらったらと思います。

神を信ずるということ

2010-12-03 09:23:22 | 癒し
神を信ずる
 
ということは
 
神にすなおに
 
なる
 
ということであります
 

すべてを
 
神に任せ切り
 
ゆだね切って
 
何のとらわれも
 
不安もなく
 
世界平和の祈りのもとに
 
人類のいのちが
 
ひとつとなり
 
愛の光が
 
この祈りを柱として
 
世界を駆けめぐってゆく
 

それらは
 
肉体人間のわざではなく
 
光のいのちである
 
神と
 
この神のわかれの
 
いのちである
 
本来の人の
 
霊なるいのちが
 
結ばれたときに
 
なされてゆくのであります
 

すべてを
 
消えてゆく姿として
 
ながめ
 
すべてを
 
変化(へんげ)するものとして
 
祈りのなかに投げ込みますと
 
最後にのこるものは
 
神の愛であり光であります
 
そして
 
この神の愛と光とが
 
私ども一人ひとり
 
個々の天命のなかに
 
分けられていることを
 
おもいますと
 
実に私どもは
 
ほろびざるいのち
 
滅することなき
 
いのちを
 
このからだに
 
戴いていることに
 
気付かされるのであります
 

もとより
 
肉体は
 
この地上を生きるために
 
まとったものであり
 
それを
 
大事にしてゆかなければならないことは
 
無論のことでありますが
 
私どもは
 
神の愛という
 
無限のいのち
 
おわることのない愛と
 
尽きることのない
 
光に
 
支えられた
 
存在であることをしることが
 
何よりも
 
自分自身を
 
解き放ち
 
真実に
 
自己を自由に
 
してゆくことになるのであります
 

自在ないのちで
 
あることをしるために
 
祈りがあるのでありますが
 
なかんずく
 
世界平和の祈りは
 
この身のまま
 
こころのままに
 
本心(神、真実の自分自身)
 
へとおり立ち
 
至らしめられる光の祈りでありまして
 
人類は
 
すべて
 
この祈りのもとに
 
結集してゆくことに
 
なっているのであります
 

なぜなら
 
人間の本体は
 
絶えざる
 
神の愛から
 
わかれてきた
 
いのちであり霊でありますが
 
一つの利益も求めず
 
ただ
 
この宇宙にみちている
 
神の
 
愛と
 
調和と
 
平和の気を
 
満たしむる
 
神の心が
 
この祈りのうちにあふれている
 
からであります
 
そして
 
肉体身を
 
まとった
 
私どもも
 
その神からの
 
分生命
 
分霊
 
でありますから
 
そこには
 
本来の
 
自分自身のすがたが
 
かがやいている
 
ということになるのであります
 

すなわち
 
祈りのうちに
 
自分をたずねる
 
ということは
 
神の愛をたずねる
 
ということであり
 
神の愛が
 
私どものいのちのなかに
 
分けられ
 
私ども一人一人が
 
光のいのちとして
 
世界平和の祈りのなかに
 
働かしていただく
 
器として
 
そなえられえいるということを
 
おもいますときに
 
この極みのない
 
神の計画が
 
あらわれてくることを
 
たたえずにはいられないのであります
 

私どもの天命
 
それは
 
その人々が
 
その持ち場
 
持ち場に
 
おいて
 
神が
 
愛であることを
 
この身と心とに
 
刻んで参ることであります
 
人は
 
そのために
 
この世に生をうけるのであります
 

光と光とが
 
愛と愛とが
 
智恵と智恵とが
 
神によって
 
祝され
 
完全平和にむけて
 
人は
 
その
 
世界平和の使徒として
 
祈りのうちに
 
本心をかがやかせて
 
ゆくので
 
あります
 

自分を好きになること
 
自分をほめること
 
自分を労わること
 
これらは
 
何よりも大事なことです
 
なぜなら
 
自分を責めるところからは
 
何も
 
生れてこない
 
からです
 
自分は駄目だという
 
おもい
 
自分をいやしめ
 
おとしめて
 
暗くくらく
 
なってゆくところから
 
生じてくるのは
 
我であり
 
とらわれであり
 
自分は
 
これだけの
 
人間でしかない
 
という
 
限定であります
 

人は
 
そういう風に
 
思うことに
 
慣れて
 
今日までを
 
生きてきたので
 
それは
 
肉体を自分自身とみる
 
ところから
 
生じた点で
 
無理のない
 
ところもあったのですが
 
人間というものは
 
無限定の
 
神の愛から
 
生れてきたものであり
 
神から
 
わかれてきた
 
ものであることを
 
一人のこらず
 
しってもらうために
 
世界平和の祈りが
 
私に託されたのでした
 

人が
 
闇のすえではなく
 
光のすえであり
 
光の子であること
 
人は
 
自らきづかないままに
 
つねに
 
神に祈りをささげている存在であること
 
神の愛のうちに
 
我々は
 
個を持ったまま
 
永遠のいのちの
 
ながれへと
 
とけ入る存在であることを
 
世界平和の祈りは
 
しずかに
 
私どもに教えてくれるので
 
あります
 

神のみこころ
 
みいつ
 
そのままの
 
祈り
 
本源の光の
 
祈り
 
である
 
世界人類が平和でありますように
 
日本が平和でありますように
 
私達の天命が完うされますように
 
守護霊様
 
守護神様
 
ありがとうございます
 
と言う祈りを唱えるとき
 
私どもは
 
私どもの
 
ふるさとである
 
神へ
 
本源のいのち
 
光へと
 
回帰し
 
自ら
 
その
 
いのちの光を
 
身におびて
 
生かされている一人一人
 
であることを
 
神の大愛のうちに
 
しらされてゆく
 
のであります
 

生かされている
 
いのち
 
光のいのち
 
神とともにあり
 
つねに
 
平和の祈り言のなかで
 
すきとおってゆくいのち
 
そのいのちを
 
自他にかがやかして
 
この世に
 
生きて参りますとき
 
私どもは
 
一生活者
 
一常識人の
 
すがたのままに
 
神のいのちに
 
つらなり
 
平和の果実を
 
実らせてゆく
 
一人と
 
ならせていただくのであります
 

さりげなく
 
祈り
 
ただ祈り
 
呟きをも
 
祈りに
 
かえて
 
ゆくときに
 
私どもは
 
光のいのちを
 
発揮してゆくのであります
 

肉体人間としての私は
 
凡夫でありますが
 
ひとたび
 
世界平和の祈りを
 
祈るとき
 
私どもは
 
すべての
 
宇宙人類とともに
 
光の使徒として
 
世界平和を実現してゆく
 
一人となって
 
ゆくので
 
あります
 
それはすべて
 
神の愛と
 
守護の神霊
 
宇宙天使の
 
加護によるのであります
 

人が
 
自らのうちに
 
自在に働く
 
自分自身を覚知したとき
 
とらわれから
 
解き放たれてゆくのでありますが
 
それは
 
絶えざる
 
祈りによって
 
覚知されてゆくのであります
 
そして
 
朗らかに
 
生きる
 
何物も
 
自分をさえぎるものが
 
なく
 
ただ
 
光明のいのちばかりが
 
自分をとらえてはなさない
 
神の愛のもとに
 
たしかに
 
とらえられて
 
もう
 
二度と
 
さ迷うことがない
 
ことを
 
しるのが
 
私どもの天命であるのであります
 

世界平和の祈りは
 
私どもに
 
この天命の尊さを
 
教えてやまないのであります
 
どうか
 
世界平和の祈りのうちに
 
神の大愛を味わって下さい
 
世界人類が平和でありますように