わだつみの華

あなたの心という大海原を
心地よい風が渡っていきますように

(記事はリンクフリー)

必要なものは神様が与えて下さる

2010-11-18 19:44:19 | 癒し
祈ること

神をおもうこと

この二つを

忘れた宗教者は

かたちばかりの

宗教者である



一切おもうな

神が

そなえて下さる



その人にとって

余計なもの

必要でないものを

神は

与えられない



ふるさとは

帰るべきところ

そして

新たに

歩きはじめる

出発点



神の眼は

いつも

やさしい

無 題

2010-11-18 12:48:18 | 癒し
人間はよく

思いちがいをする

悪いことが

つづくんじゃない

カルマが消えて

光がつもって

ゆくのだ




白光を

善覚のかたまりにしたい

そして

つよさと

やさしさを

加えてゆきたい

水子の霊について

2010-11-18 10:46:28 | 癒し
 (問)水子の霊についてお聞きしたいんですが、水子というのは

菩薩行の魂なので、幽界みたいなものと違い、簡単に祟るというもの

にはならないという話を聞いたことがありますが。

 実際に水子の霊がついている方というのは、俗に耳にするんですが、

そういうものというのは、何がそういう形になって、何を守護の神霊達が

この本人に伝えたいのか、お伺い致します。


 (答)水子の霊というのは、前にも言いましたように、菩薩行なんで、

自分は生まれない中途で生命を絶たれてしまうんだということを分かってる

訳なんです。分かっていますから、絶たれちゃっても、そちらのところの

子供に生まれて、親なり家族達を栄えさせてゆく。又、こちらが悪かったな

と思って子供の霊を祈っていれば、その光が届いて、向こうからも光が来て、

両方良くなってゆくという霊体ですけどね。


 ところが、白光でも水子供養ということでみたま祭りの中でやりますけれど、

人間というのは、神界にも霊界にも幽界にも肉体界にも同時に存在していると

言ってるでしょう。

 幽界というのは、いろんな人間が、不調和の想い、良くない暗い想い

というのか、想いが凝り固まって訳の分からない取りつく化物とか、そういう

ものを生み出している世界、それが幽界なんですね。

 大体水子の霊、霊障といわれているものは、だいたいこの幽界の、

人間世界の方に何か隙があったら取り憑いてやろうという想いなのです。

 想いというのは何処から来るかといったら、これは神様が造ったのでも

ない、悪魔が造ったのでもない。人間の中の色々な不安だとか、苛立ち

とか恐怖だとか。


 はっきり言えば、人間の中で何が一番恐怖かといったら、肉体の生命が

70年80年で終わっちゃったら、自分達は一体何処に行くんだろうと。

 何処から来て何処に流れて行くんだろうと。もしかして肉体だけで

終わりだったら、こんな不安に満ちたものはないというので、色んなものが

起きている訳ですね。この不安を解消する為に宗教があるんですが、尚且つ

家が火事になったとか、親が死んでいっちゃったとか、子供を流産したとか、

そういうことが続いてくると、何か神様、仏様というけれども、そんな想いに

なれなくて、決してそんな良い光ばかり受けているのではなくて、光を

のみつくすような闇があるんではないかという、そんな想いが段々

脹れていって、それが例えば、幽界の色々な生物達の力を借りて、水子

なんていう想念の化物を生み出してしまっているんです。


 そこのところが大事なんで、守護の神霊がそれをもって何をするか

というと、守護の神霊は何も関係ないんです。そういう想念には全く関係

ないんです。もし関係がありとしたら、そういう不幸とみえる出来事に

対して、じゃあどんな風に生きてゆくべきかという、一つの魂の鍛え

としての躓きの石をわざと送っているのはありますよね。

 そういう意味で、色々な世界を見回してみて、ああこの人にとってここが

一番弱いんだな、で、このところでちょっと不幸とみえるようなものを

置いとかないと、この人は強くなってゆかない。守護の神霊がそんなことを

考えるのは、この世だけの何十年の世界だけを考えているのではなくて、

何十生何百生何千生後の、その人の天命の入り具合、神様の懐への

入り具合を考えて、躓きの石を置く訳なんですよね。


 だから、この世の中で、不幸続きで不幸続きでそれで死んじゃった

という人があって、それだけ見れば、神様は非常に不公平だということに

なって、やっぱり水子もある霊障もあるということになってしまうことに

なるんですが、そういう一生を送ることで、その人が前生の借りを

払い落として、次の生命の世の中で、全く明るい生命になって生まれ変わる

ということは、いくらでもある訳ですね。

 そういう意味で言うと、生命というのは決して障りというものはない訳で、

生命というものはどんなに闇にみえてもお先真暗にみえても、家の中は

ひっくり返って、息子と嫁がうまくゆかないとかですね。あるいは、

色々な家族の中でくっついて離れたとかね、子供がいうことを聞かない

とかね、そんなことも皆悩みですよね。別に水子だけでなくても、

それだけで闇に見えちゃう。

 でもそれがその人の一生というか、何十生何千生生き通しの生命を、

障りなくずっと輝かす為に、何千年先の為に今必要なんだと。


 そういうところから見てゆかないと、生命というものは途方もなく

大きいもんですからね。そういう意味で言えば、水子というものは全く

存在しないんです。

 想念の障りだと思っている部分、人間が不幸だと思って見れば見る程

不幸の固まりに見える。そこのところを利用して存在させられているという

だけの話なんです。

 ただ、守護の神霊がそういうものを置く場合には、ただその想念を利用

するんじゃなく、必ずその抜け道というものがある。私が前に天が空いているよ

と言ったけれど、必ず絶対に援軍があるんですよね。


 闇があるところには光があるから、想念というものは全部消えて

なくなっちゃうものなんですから、消えてゆく姿でもって見てゆけば、

水子も何も粉砕されちゃうんです。だがその辺が、どこでどうという区切りが

非常につきにくいんです。

 でも一切は全部光なんですから、全部が永遠の生命に溶け込んでくる。

 その為の過程なんですから。それは全然心配することはない訳です。悲しむ

こともない訳です。