征韓論に破れた西郷隆盛は,下野し,故郷鹿児島へ戻り,1873年(明治6年),地元青年の育成のために「私学校」を創設します。しかし,明治新政府の挑発に乗った私学校生徒が,弾薬庫を襲い,この暴動を発端に,1877年(明治10年)2月,内戦である西南戦争が始まります。上は,江戸城無血開城以来,親交の深かった勝海舟の句碑です。西郷は,生徒たちに,「おはんらにやった命」と述べて,西南戦争への道筋を付けたともいわれます。
私にとって,西郷は,明治維新の立役者の一人というのを超えた,理解の困難なぐらい不思議で大きな存在です。
勝も,その桁外れに大きな人間が失われたことに,大きな悲しみを込めて,この句を詠んだのでしょう。
西郷軍は,熊本城籠城戦とそれに続く田原坂の戦いに敗れ,人吉,宮崎,延岡と円弧を描くような経路で敗走を重ね,奥深い九州山地を掻き分けて,9月に鹿児島にたどり着きます。
その間,軍資金不足を補うために,軍票「西郷札」を発行したり,軍営地とした農村から収奪とも解されるような行為をしたりしています。
このような行為を,西郷自身は,どのように考えていたのでしょうか?
その当たりは,西郷軍の始まりから終わりまでをかなり詳細に描いた「翔ぶが如く」(司馬遼太郎)を読んでもよく理解できませんでした。
いずれにせよ,7か月に及ぶ戦いの末,西郷軍のうち生き残った約300人が,鹿児島の「城山」に立て籠もり,包囲する政府軍約4万人と対峙します。
左は,西郷が,戦争終結直前の5日間立て籠もって指揮を執ったといわれる洞窟です。
それほど深くはなく,雨除け程度にしかならなかったかと思われます。
西郷軍を取り囲む政府軍は,最新鋭の兵器を使い,容赦なく攻撃をしかけます。
政府軍の無数の弾痕が生々しく,私学校跡の石垣に残ります。
鳥羽伏見の戦いのときには,数の上では劣勢だった新政府軍を率いた西郷が,最新鋭の火器を用いて,幕府軍に圧勝したにもかかわらず,その9年後には,自らが導入を進めた新政府軍の火器の前に屈したことに歴史の皮肉を感じます。
ここに至るまでに,西郷軍は,「目標」が何なのか,「目標」を達するために何をすべきなのかということを考えられなかったのか,と思わずにはいられません。
郷中教育の基本指針でもある「議を言うな」という伝統からすると,こういった発想自体が相容れないのかもしれませんが…
西南戦争では,西郷軍の死者は,6765人に,政府軍の死者は,6403人に及んだ。西郷軍の将兵2023人の墓が,「南州墓地」にあります。
中央にあるのが,西郷隆盛の墓で,その向かって左に,「人斬り半次郎」こと桐野利秋の墓,右に,篠原国幹(くにもと)の墓と,側近の墓が脇を固めます。
一つの戦いで命を失った人々の墓が,無数に並ぶ情景には,凄みすら感じます。
西南戦争は,不平士族の反乱という側面が大きいとは思いますが,郷中教育をはじめとする薩摩文化が,西洋文化と衝突し(さしずめ「薩英戦争」はその前哨戦か),そして,敗れ去り,そして衰退していったという側面もあるのかと,漠然と感じました。
そんなことを考えると,墓標の群れは,一層凄みを増してきます。
そんな墓標の群れを桜島が悠然と見下ろしているような気がしました。