vagabond の 徒然なるままに in ネリヤカナヤ

エメラルドグリーンの海,溢れる太陽の光,緑の森に包まれた奄美大島から,乾いた心を瘉す写真をお届けします。

日本最南端の駅を見おろす薩摩富士~鹿児島紀行(その7)

2005-09-30 20:49:11 | 
薩摩半島南端を走ると,見る場所ごとに,薩摩富士が色々な表情を見せてくれます。日本最南端の駅である「西大山駅」から眺める開聞岳はまた格別。「最南端」と聞くだけでも,最果ての地に来た感が深いのですが,その駅を見おろす薩摩富士の姿の何と穏和なこと!
南国特有の暖かな日差しは,奄美の突き刺すような太陽光線とまたひと味違い,暖かくも優しく包み込むようなもの。
ゲーテがミニヨンの歌(「君知るや 南の国を...」『ウィルヘルム・マイスターの修業時代』より)でも表現した,南国への果てしない憧れ,そしてその憧れが結実した瞬間とは,かくあるやとも思われます。
最果ての地は,なぜだか,心ときめかします。
佐世保,西大山と訪れたけれど,稚内と根室は,訪れたことがない。
いつか,訪れたいとの思いが募ります。

線路は,無限に続くかと思えるほど,真っ直ぐに伸びていきます。
澄み切った青空がこの感動に花を添えます。

薩摩富士~鹿児島紀行(その6)

2005-09-29 23:50:19 | 
今回は,薩摩半島(九州の西南端)へも足を伸ばしました。中学校の地理の時間に,「薩摩富士」との名前を聞いて以来,憧れていた薩摩富士こと開聞岳にもご対面。
標高は,922mと本家の富士山の1/4ですが,海面近くからスラリと伸びた稜線は見事です。
鹿児島・奄美間の飛行機から眺める開聞岳も素敵ですが,大きさがやや小さく見えるため,この角度からの眺めの方が優れているように思います。
地元中学生などは開聞岳登山もするらしいのですが,今回は,時間の関係でパス

夢のあと~鹿児島紀行(その5)

2005-09-28 23:01:54 | 
征韓論に破れた西郷隆盛は,下野し,故郷鹿児島へ戻り,1873年(明治6年),地元青年の育成のために「私学校」を創設します。しかし,明治新政府の挑発に乗った私学校生徒が,弾薬庫を襲い,この暴動を発端に,1877年(明治10年)2月,内戦である西南戦争が始まります。上は,江戸城無血開城以来,親交の深かった勝海舟の句碑です。西郷は,生徒たちに,「おはんらにやった命」と述べて,西南戦争への道筋を付けたともいわれます。
私にとって,西郷は,明治維新の立役者の一人というのを超えた,理解の困難なぐらい不思議で大きな存在です。
勝も,その桁外れに大きな人間が失われたことに,大きな悲しみを込めて,この句を詠んだのでしょう。
西郷軍は,熊本城籠城戦とそれに続く田原坂の戦いに敗れ,人吉,宮崎,延岡と円弧を描くような経路で敗走を重ね,奥深い九州山地を掻き分けて,9月に鹿児島にたどり着きます。
その間,軍資金不足を補うために,軍票「西郷札」を発行したり,軍営地とした農村から収奪とも解されるような行為をしたりしています。
このような行為を,西郷自身は,どのように考えていたのでしょうか?
その当たりは,西郷軍の始まりから終わりまでをかなり詳細に描いた「翔ぶが如く」(司馬遼太郎)を読んでもよく理解できませんでした。
いずれにせよ,7か月に及ぶ戦いの末,西郷軍のうち生き残った約300人が,鹿児島の「城山」に立て籠もり,包囲する政府軍約4万人と対峙します。
左は,西郷が,戦争終結直前の5日間立て籠もって指揮を執ったといわれる洞窟です。
それほど深くはなく,雨除け程度にしかならなかったかと思われます。

西郷軍を取り囲む政府軍は,最新鋭の兵器を使い,容赦なく攻撃をしかけます。
政府軍の無数の弾痕が生々しく,私学校跡の石垣に残ります。
鳥羽伏見の戦いのときには,数の上では劣勢だった新政府軍を率いた西郷が,最新鋭の火器を用いて,幕府軍に圧勝したにもかかわらず,その9年後には,自らが導入を進めた新政府軍の火器の前に屈したことに歴史の皮肉を感じます。

ここに至るまでに,西郷軍は,「目標」が何なのか,「目標」を達するために何をすべきなのかということを考えられなかったのか,と思わずにはいられません。
郷中教育の基本指針でもある「議を言うな」という伝統からすると,こういった発想自体が相容れないのかもしれませんが…

西南戦争では,西郷軍の死者は,6765人に,政府軍の死者は,6403人に及んだ。西郷軍の将兵2023人の墓が,「南州墓地」にあります。
中央にあるのが,西郷隆盛の墓で,その向かって左に,「人斬り半次郎」こと桐野利秋の墓,右に,篠原国幹(くにもと)の墓と,側近の墓が脇を固めます。
一つの戦いで命を失った人々の墓が,無数に並ぶ情景には,凄みすら感じます。
西南戦争は,不平士族の反乱という側面が大きいとは思いますが,郷中教育をはじめとする薩摩文化が,西洋文化と衝突し(さしずめ「薩英戦争」はその前哨戦か),そして,敗れ去り,そして衰退していったという側面もあるのかと,漠然と感じました。
そんなことを考えると,墓標の群れは,一層凄みを増してきます。

そんな墓標の群れを桜島が悠然と見下ろしているような気がしました。

銅像のある街~鹿児島紀行(その4)

2005-09-26 00:16:14 | 
鹿児島は,他の街に比べて沢山の銅像,石碑等に満ち溢れています。明治維新,そしてその後の国造りを牽引した人物を輩出した土地ならではというところでしょうか。
数ある銅像の中でも,興味深かったのは,幕末の薩摩藩の家老であった調所広郷(ずしょ ひろさと)の銅像です。
広郷は,藩の財政状況が,年収十数万両,一方,借金総額500万両と,金利返済さえ覚束ず,破綻の危機に瀕している折,島津重豪によって,一介の茶坊主から家老に抜擢された人物。
彼は,第1に,500万両の借金について,無利子・長期(250年!)分割の支払へと契約の改定を断行(要するに利息の棒引き),第2に,琉球経由での清との交易の促進,第3に,奄美大島等の黒糖の専売制の強化等の施策を行いました。その結果,道路,橋梁,河川の改修や天保山(薩英戦争の砲台が築かれた場所)をはじめとする港湾整備,洋式軍備などに実績を残したのみならず,約10年で50万両の貯蓄も実現しています。
これら改革のおかげで,薩摩藩は,維新のリーディングヒッターになることができたとも言われています。

そんな広郷ですが,奄美大島等からサトウキビの過酷な取立てのため,奄美群島の人々からは深い恨みを買ったのみならず,藩主・斉興と世継・斉彬との確執の煽りを受け,幕府から清との密貿易を指摘され,その責任をとって自害したのみならず,家禄もお召し上げになっています。
毀誉褒貶の激しい広郷ですが,近代日本の礎を築いたことは,間違いないと思います。

先日,我が国の借金が795兆円に達したとの記事に触れました。
仮に,計算を単純にするために,金利1%としても,国民1人当たり,年額約62,000円を支払わない限り,元金が増えていくことになります。
我が国に,果たして,現代の広郷はいるのでしょうか?


思わず暗くなってしまいましたが,維新の英雄のことを...

左は,大久保利通,右は,西郷隆盛の銅像です。
大久保は,良きに付け悪しきに付け,近代日本の枠組みや官僚制度を作り上げた人物。
その幼なじみでもある西郷は,江戸城無血開城等の幾多の維新の功績を残しながら,自らの作った私学校の生徒と共に西南の役を起こした末,自害した人物。
この両巨頭抜きに,鹿児島を語ることは出来ません。
いずれの銅像も,それぞれの個性を生かした立派な物だと思います。
ただ,西郷像が街の中心部にあるのに,大久保像は中心部の少しエアポケットに入ったような場所にあるのは,やはり鹿児島における人気の差なのでしょうか?


薩摩へは,様々な人々も訪れました。

右は,日本の新婚旅行第1号ともいわれる,坂本龍馬とその妻お龍の薩摩へのハネムーンを再現した銅像。
寺田屋で襲撃を受けて負傷した龍馬は,西郷の薦めで,お龍と共に,薩摩へ湯治旅行に出掛けます。
この3か月のハネムーンは,龍馬33年の生涯のうち最も平和な時期であったともいわれています。
「龍馬が行く」を読んだのは,かれこれ20年前。
龍馬がこの当たりも彷徨いたかもしれないと思うと,胸に迫るものがありました。

左は,フランシスコ・ザビエルの胸像。
彼の布教活動の成果は,鹿児島,奄美地方にも,沢山の教会があることで証明されています。

ここでは紹介しきれないぐらい銅像,石碑が沢山ありましたが,いずれも,歴史の重みを感じさせるものばかりでした。

豊饒の海

2005-09-24 09:47:07 | ネリヤカナヤの海・空
海で思いっ切り遊んだ親子たちが,ほんの少し気怠い体から力を振り絞り,舟を少しずつ浜辺へ引き上げます。今夜見る夢はどんな夢でしょう?

用安海岸(ようあん)へ行きました。降り注ぐ陽光の下,海は果てしなく青くキラキラと輝き,スズメダイ,ツノダシや体長40cm以上のタイなどが群れになって泳いでいました。誰かが餌付けをしているのかもしれませんが,この魚群は,海の豊かさを感じさせます。
海の中の魚の姿については,tokorinさんのBlogをご覧ください。詳細にレポートされています。

雲間から射す夕陽は,海の上に,刻一刻と変化する模様を描き,思わず見とれてしまいます。
与論島と違って,雲の多い奄美大島ならではの情景。

昨日の用安海岸は,ほんの少しだけ海が白く濁っていました。
それでも,海の中を覗くと,魚たちの姿に息をのみます。


台風17号の余波か,リーフの外では少しうねりが出ているようです。
上の写真は,リーフの外縁付近に打ち寄せる波の様子。
リーフに守られて安心して遊ぶことができます。

古くて新しいもの~鹿児島紀行(その3)

2005-09-23 13:01:21 | 
鹿児島には路面電車が走っています。奄美大島には,沖縄本島同様,「電車」が走っていないので,「電車」に乗ること自体久々です。
渋滞する車列を後目に,スイスイと走る市電での小旅行はとても快適です。
2002年1月に導入された,純国産の超低床路面電車「ユートラム」(アルナ車両株式会社[阪急電鉄グループ]製)も走っています。
電停からノンステップで乗ることができ,滑るように走り,乗り心地も快適です。
運転席と客席とが連結された形状も格好いい。

鹿児島市内はバスもかなり走っているのですが,路面電車の利用者も多く感じました。
乗り心地,利便性等から,市民の足として馴染んでいるのでしょう。

路面電車は,鹿児島以外にも,長崎,熊本,広島,岡山,それに東京(都電荒川線)等の各都市で今も活躍していて,地球環境保全の点からも,一層の活躍が期待されている交通機関。
欧州の各地で試みられているように,都市中心部への自動車の乗り入れは禁止して,路面電車を拡充することを検討してもよいのでは,と思いました。

例えば,京都(かつては路面電車が走っていたが今はない)なんか,大胆な発想で,町全体を寺社仏閣,古い町家等の歴史的建造物や鴨川を中心としたテーマパーク化を図っても面白いのでは

島津家の先端技術~鹿児島紀行(その2)

2005-09-21 23:16:12 | 
上の写真は,仙巌園内の「鶴灯籠」。スタイリッシュなフォルムが一際目を引きます。が,それだけではなく,実は,この灯籠は,日本で最初のガス燈なのだそうです。
1851年に薩摩藩主になった島津斉彬は,欧米列強に対抗できる近代化産業を育成するため,製鉄,造船,紡績等の諸産業を興しました。鹿児島市郊外の仙巌園周辺には,当時の先端技術の跡が残されています。
1854年には,洋式軍艦(推定排水量370トン)を建造。
さらに,斉彬は,1857年(横浜のガス燈が点火される15年前)には,「鶴灯籠」をはじめとする石灯籠にガス燈を点火させたそうです。
左の石灯籠は,「獅子乗大石灯籠」。この灯籠も,奇っ怪で斬新な形です。
斉彬は,よほど新しい物好きだったのかもしれません。

1857年には,反射炉(燃やした燃料の熱を壁に反射させて銑鉄を溶かす施設。右の写真は反射炉の跡)も建設していました。
この反射炉を利用して作った大砲が,薩英戦争(1863年)でも利用されたのかと思うと感慨深いものがあります。
名君の誉れ高い斉彬(1858年没)が藩主であれば,生麦事件,薩英戦争をどのように乗り切ったのだろうか。

1892年には,左の写真の施設(発電用ダム跡)を使って,水力発電を開始し,邸内のランプや庭のアーク燈に明かりを点していたというのだから驚き。
また,邸内には自家用電話もひいていたそうです。

今回は,仙巌園に隣接する「尚古集成館」(博物館)に納められた文化財の見学も楽しみしていたのですが,10月7日まで改修中ということで,別館だけしか見学できませんでした。
正直,別館で見られる文化財の内容は,数も質も期待以下で,残念でした。
リニューアル後に再訪したいと思います。

ところで,薩摩の工芸品といえば,薩摩切子が有名ですが,江戸末期の十数年間しか作られていなかったのだそうです。
外貨を獲得するために斉彬が輸出を視野に入れて薩摩切子を本格的に作らせ始めたのが,藩主就任の1851年頃。
しかし,薩英戦争で,ガラス工場等の各種工場も破壊され,十数年で薩摩切子は姿を消しました(当時の作品のうち,日本に現存するのは,100点そこそこだそうです)。
ここ20年ほどの間に,薩摩切子復興の気運が盛り上がり,最近は,其処此所で薩摩切子を見かけるにようなってきました。
昨年末に見た「薩摩切子藍色船形鉢」(サントリー美術館の所蔵品)も,深い色合いが感動的でしたが,今回,仙巌園内のショップで見た,最近作られた薩摩切子も,深く濃厚でありながら上品な色合い,絶妙なぼかし,深く鋭いカットに感嘆しました。
お猪口を買おうかと思ったのですが,値札を見ると2万円を超えています!(バカラのグラスよりも高い)
今は,左のペーパーウェイトを買おうかと思案中です。
鮮やかで味わい深い色と独特の形状が魅力的なのです。

晩夏の倉崎海岸

2005-09-19 22:34:49 | ネリヤカナヤの海・空
今日の奄美地方は,最高気温31度とそれほど高くはありませんが,水温は28度近くあったようで,シュノーケリング日和でした。
ということで,今日は,行く夏を惜しみつつ,倉崎海岸でシュノーケリングを楽しみました。

久々の快晴で,日差しが肌に容赦なく突き刺さります。
太陽が輝けば輝くほど,海の青さも際立っていきます。
今日の海の青さは,目が覚めるよう。
最近薄曇りが多かったのですが,奄美の海はやっぱりこうでなくっちゃ!

上の写真は,外洋に面した方ですが,左の写真は,内陸側(奄美クレーター側)。
こちらの方が,波も静かで,遠浅でゆったりと楽しめます。
泳力に自信のない私は,あまり無理をしない軟弱シュノーケラーなのですが,幸い今日も大潮。
期待しつつ,海へ泳いでいくと...枝サンゴやテーブルサンゴが今まで見たことがないぐらい沢山あって,その周りにはツノダシ,チョウチョウウオ,ハマクマノミ等の色とりどりの魚が沢山群がっています!
奄美へ来て半年経ちますが,枝サンゴを見たのは初めてのこと。
胸がワクワクしました。
海がキレイで,人もそんなには訪れない(こちらの浜辺の方はプライベートビーチ状態)から,サンゴも魚も元気なのかもしれません。

とても残念なことに,水中撮影可能なカメラを持っていないので,美しいサンゴと魚たちの姿を脳裏に焼き付けて帰路につきました。
やっぱりハウジングか水中カメラ,欲しいなあ

西郷隆盛も見た名月

2005-09-19 02:24:33 | 日記
影響を受け易い私は,tokorinさんのブログを見て,今日が仲秋の名月だということに気付いた。そして,影響を受けやすい鹿児島帰りの私は,1859年から1862年までせごどん(西郷どん)が奄美大島(現在の鹿児島県大島郡龍郷町)に流されていたことに思いを馳せると,せごどんもこの月を眺めたのだなあ,と感慨深く思うのでした...

ということで,写真は,奄美大島から眺めた仲秋の名月。
我が家は昔ながらの行事とは全く無縁でしたが,西郷隆盛の伝記小説などを読みながら,時折月を眺めていると,いやが上にも,悠久の時の流れを感じるのでした。

それにしても,月の撮影は難しいですね。
オート撮影すると,のっぺらぼうで真っ白の月しか写りません。
何回もチャレンジしてこの写真です。
ISO400,絞り 5.3,シャッター1/800sec
月って相当明るいことに今更ながら思い至ります

仙巌園と桜島~鹿児島紀行(その1)

2005-09-18 20:45:55 | 
長らく憧れていた鹿児島を旅してきました。写真は,鹿児島市内にある仙巌園(せんがんえん)から眺めた桜島。雄大な姿に圧倒されます。
仙巌園は,万治元年(1658年),島津光久がこの地に別邸を構えたのが始まりで,桜島を築山に,錦江湾を池に見立てた借景が強いインパクトを持つ庭園です。

今回の旅も短期間でしたが,西郷,大久保ら明治維新の立役者の足跡も少しはたどることができました。
しばらく,鹿児島の旅をお届けします。
それにしても,今日の鹿児島は最高気温33度と暑かった~

波の上の夕陽~与論島(その12)

2005-09-16 07:12:45 | 
台風13号の余波を受けて海上は少しうねりがあったものの,夕陽はとてもきれいでした。
長く連なった雲が,夕陽に照らされて,紅色に染まります。
色彩は,時の移ろいとともに刻一刻と変化し,表情を変えていきます。
船上から,その変化をじっと眺めていると,心が豊かになっていくような気がします。
ふと,モネが色彩の変化を捉えようと試みた連作「ルーアン大聖堂」を思い出しました。
モネの連作と実際の風景の変化とを比較したサイトを見付けたので,リンクを張っておきます。)
さすがにこの日は雲が多く,水平線に夕陽が沈むことはありませんでした。
水平線に沈む夕陽というのはそうそう見られるものではないのですね。
それでも,大洋に沈み行く夕陽は圧巻でした。
日没後,ようやく加計呂間島,そして,奄美大島が見えてきました。
やはり,高島は,山が深い。
この深く濃い緑の森を見ると,奄美大島へ帰ってきた,と実感します。
ハブが冬眠する季節になったら,この深い森の中へも少し足を踏み入れたいと思いました。

与論の旅,台風のため少し短縮しましたが,充実したものになりました。
百合が浜をはじめやり残したことがあるので,早い時期に是非再訪したいと思います。

波の上~与論島(その11)

2005-09-15 23:43:54 | 
台風13号の接近で,31日に奄美大島帰島の予定を繰り上げて,30日に帰島しました。帰路も,与論島から奄美大島までマルエーフェリーの「なみのうえ」で,8時間の船旅です。台風接近のため,予定を繰り上げたにもかかわらず,海上は荒れ模様。陸上での風雨が強くなり始める前に,海上のうねりが始まるようです。
「抜港(ばっこう)」という言葉を,初めて聞きました。
朝7時に那覇を出発した船は,沖縄の本部,与論島,沖永良部島(和泊),徳之島(亀徳),奄美大島(名瀬)と経由して,翌朝8時30分に鹿児島に着きます。
「抜港」というのは,風とうねりが強く,接岸が困難な場合には,与論島,沖永良部島等の途中の港を飛ばして運航することです。

これらの島の港は,例えば奄美大島の名瀬港のように港の「彫り」が深くないため,外洋の影響を受けやすく,接岸に危険を伴うため,「抜港」の可能性あり,ということで乗船券が販売されます。
「抜港」するかどうかは,キャプテン(船長)の判断によるそうです。

因みに,与論から乗船して,沖永良部で降りようと思っていて,沖永良部が「抜港」されて奄美大島まで行ってしまっても,奄美大島から沖永良部までの帰りの船代等は補償してもらえないとのこと。
だから,「条件付渡航」というのだそうです。
場合によっては,乗船するにも結構度胸が必要かも

「抜港」されないまでも,接岸港は頻繁に変更になるようで,この日の与論島でも,通常接岸する「与論港」(島の南側)は,うねりの影響がかなり出ていたので,島の北側の「茶花港」に変更になりました。
「与論港」に行ったところ,誰もいないのでビックリ。
慌てて,「茶花港」に向かったのですが,なかなか船が来ず,すわ抜港か!と焦りましたが,何とか接岸され(茶花港が浅いためか,切り返しをしながら苦労しつつ入港していました),無事乗船。


2等船室では,布団,毛布,枕が用意されています。
いつ洗濯したものか,少し不安がよぎりますが,皆さん全く気にしていない樣子。
郷に入っては…で,私も,そのまま横になりました。

乗船率は,約7割。
一応手足を伸ばして眠れます。
食堂は,乗船中ほとんど営業しておらず(非常にやる気のない営業態度),店内の売店で売っているいなり寿司が2個で300円という「砂漠の水」状態なので,持参したカップラーメンをすすります。
海のうねりを少しだけ感じつつ,ウトウトしたり,本を読んだり,デッキへ出たりしながら,8時間の船旅を楽しみました。

6500トンの船だけに,海上のうねりが2~3メートルあったにもかかわらず,そんなに揺れませんでした。
船は,奄美群島にとっては,牛乳その他の生活物資や,宅急便を運んでくる貴重な足ですが,(特に接岸時に)風と波に弱いというのがよく分かりました。
離島へのアクセスは,高いのがネックではあるものの,離着陸時の気象状況だけが問題で,台風接近間際でも比較的就航している,飛行機の方が安全かもしれませんね。
まあ,船旅ならではのあの「まったり感」は捨てがたいものがありますが。

次回は,船上からの夕日をお届けします。

国産旅客機YS11の雄姿~与論島(その10)

2005-09-12 22:31:25 | 
1962年の初飛行から40年以上にわたり戦後日本のローカル路線を支えた戦後唯一の国産旅客機YS11が,来年中には日本の空から姿を消します。
南西諸島では,1999年に沖縄の空から消えた後,今年まで,奄美群島の沖永良部島,与論島で飛んでいましたが,沖永良部島では,今年7月が,与論島では,今年8月がラストフライトとなりました。

小型ジェット機が離着陸するためには,2000m程度の滑走路が必要だそうですが,離島の空港は短くて(与論空港で1200m),ジェット機の離発着ができない飛行場が多いため,YS11は大活躍してきました。
64人の乗客と貨物を乗せても1200mで離発着が可能,故障も少なく,機体に耐久性があり,比較的安全なYS11は,貴重な離島民の足でした。
鹿児島・与論線は,約580キロと長距離路線ですが,就航から約30年間無事故だったそうです。
私も,昔,YS11に乗ったことがありますが,そのときは,強風の中,何度もゴーアラウンドを繰り返し,「この空港では,これまでも,横風のためゴーアラウンドを繰り返すことが多かったので,今回の着陸も安全に行われるものと思われます。」との妙に説得力のある機内アナウンスに,不思議と安心した記憶があります。
図体が軽いので,地面にタッチしかかっても,軽々と再離陸するので,曲芸飛行機に乗っているような気分で,少しワクワクしましたが,これで着陸できないと,燃料ももうないだろうから,胴体着陸なのかな,と不安は不安でした。
もっとも,地元民らしき人たちは平然としていたのが印象的でした。

民間機に衝突防止装置の設置が義務付けられ,この設置費用が一機当たり1億円以上することから,引退が加速したようです。
私は航空マニアではありませんが,やはり国産機がなくなる姿を消していくのは寂しいですね。
写真は,鹿児島・与論線からの引退間際の8月28日,与論空港着陸態勢に入ったYS11の雄姿です。
以前からツン読の「YS‐11 国産旅客機を創った男たち」でも読んでみようかな。

最後に一度乗りたかったなぁ。
といいながら,今回は,奄美大島からの船旅。
次回は,船の樣子をお伝えします。

赤崎鍾乳洞~与論島(その9)

2005-09-11 21:08:28 | 
隆起サンゴ礁の地下には,鍾乳洞の幻想的な世界が広がっていました。
サンゴ礁でてきている→基本的に石灰岩→雨水によって浸食されて,鍾乳石ができるということです。
鍾乳洞の中は,少しだけジメッとしたヒンヤリした空気に満ちており,しばし地上の暑さから解放されました。
鍾乳石には「幸福の門」,「人生のローソク」,「剣の間」等の名前が付けられており,ガイドのお兄さんのお話も興味深く,そこそこ楽しめました。
また,鍾乳石の間から木の根が伸びてきていたり(岩を貫いて,水を求めて根を伸ばしてきていたのです!),洞内を流れる小川で小エビが元気に生息していたり,生き物の力強さも感じます。

洞内はこぢんまりしているため,ライティングも効果的に幻想的な世界を醸し出します。
赤崎鍾乳洞は,昭和40年に日本大学の学生4名によって調査・発見された比較的新しいもので,本洞120m、支洞130mで、ゆっくり見て回っても所要時間は20分ほど。
秋芳洞などと比べると非常に小さいですが,その分訪れる人も少なく,長い年月が作り出した大自然の神秘にしっとりと浸ることができます。
ときおり,「洞窟探検家」が訪れ,未開拓の洞穴へ潜っていくのだそうです…

隣の島,沖永良部島(与論等と同じく低島)には,全長2.7キロメートルと日本屈指の規模の昇竜洞があります。
こちらも,いつか訪れてみたいと思います。



鍾乳洞の行き止まりは,地上に通じていました。
強い日差しが鮮烈に差し込みますが,洞内は,時の流れも,空気もぬくもりも,全く別世界です。