僕の感性

詩、映画、古書、薀蓄などを感性の赴くまま紹介します。

宮本輝 流転の海

2020-05-02 09:43:42 | 文学

Facebookの坂本さんの記事を借用しました。

2回同じのを投稿してしまいました😁

 

 

宮本輝氏 「私の流転人生は“終わり”で終わらない」
2019年1月5日 07:00NEWSポストセブン

 

 執筆開始から37年。芥川賞作家・宮本輝氏(71)の自伝的大河小説「流転の海」が、昨年10月刊行の第九部『野の春』(新潮社刊)をもって遂に完結した。自身の父親をモデルにした松坂熊吾とその家族が戦後を懸命に生きる物語は登場人物1200人を超える壮大な人間ドラマに成長し、多くの読者がその歩みを見守ってきた。完結直後は高揚して自分で自分を褒め、その後は「流転の海ロス」に陥ったと笑う宮本氏に、作品に込めた想いを伺った。

 ライフワークの「流転の海」をどう終えるかは、第七部『満月の道』を書いた時点ですでにイメージができていたと宮本輝氏は語る。

「最終巻の『野の春』を書き終えたのが昨年の4月6日。気がつけば頭にあったラストの5行を書いてたんです。『。』を打って、『あれ? 終わったがな』(笑い)。それでようやく『流転の海』が完結したとわかって、『すごい! やった! ついにこの日が来た』と感慨がこみあげてきました」

 主人公の松坂熊吾は宮本氏の父、妻・房江は母を、一人息子の伸仁は宮本氏自身をモデルにしている。50歳で初めて長男を授かった熊吾が、息子の成人を見届け、71歳で亡くなるまでの波乱に富んだ人生を描く。当初は全3巻の予定が構想は膨らみ、全9巻、400字7000枚の大長編に成長した。一家にかかわる登場人物は1200人以上。34歳から書き始め、擱筆(かくひつ)したときは奇しくも父が亡くなった71歳になっていた。

「体が弱く、『20歳まで生きられない』と言われた僕が、37年間も健康で小説を書き続けられたことに感謝したい。5巻を過ぎた頃から、未完に終わるかもしれないというプレッシャーがきつかった。未完では読み続けてくれた読者にあまりにも申し訳ない。なんとか責任を果たせて、『宮本くん、君はえらい』と自分を褒めました(笑い)」

「やった! 終わった!」と夫人に伝えたが、あいにく夕飯の支度中で「いま火を使ってるから後にして」と言われてしまう。支度が終わる頃合いで改めて報告、2人で「完結」を祝った。

 

◆小説で父の仇を討つ

 熊吾は戦前、中国との貿易で成功して財を築くが、日本が戦争に突入し、敗戦ですべてを失う。焼け跡の大阪で、進駐軍の将校を抱き込み、自動車の中古部品販売業で再起を期す。

 同じ頃、4人目の妻である房江との間に、あきらめていた子どもを授かる。「俺は、この子が二十歳になるまで生きているだろうか」。祈りにも似た問いが熊吾の胸にきざす。

「もし両親が『流転の海』を読んだら? 『こんな恥ずかしいこと書いて』って叱られたでしょうね。でも小説ですから。フィクション8割、本当にあったことが2割と思ってください。

『流転の海』は、歴史上の人物でもなんでもない、名もない人々が戦後をどう生きたかの小説です。『小説でおやじの仇を討ったる』と思ったこともあるけど、結局のところ、熊吾、房江、伸仁の3人は狂言回しで、無名の庶民の生老病死をめぐる壮大な劇を描いたんだと思います」

 並みはずれて愛情深い父親でありながら、荒ぶる神のような熊吾を中心に物語は進むが、次第に房江の存在感が増してくる。不幸な生い立ちのせいで先の心配ばかりしてアルコール依存症になる房江だが、夫の裏切りを知って自殺未遂を起こした後は、生まれ変わったようにたくましくなる。2人のキャラクターには、現実の両親の性格が反映されているという。

 宮本氏は、小説の伸仁と同じ、昭和22年生まれ。いわゆる団塊の世代だ。病弱で、両親に溺愛されて育ち、父の事業の失敗で一時期を富山で暮らしたり、父の妹のもとに預けられたりしたのも小説の通りだ。

 母が自殺を図った夜、押し入れの中で読み続けたのが井上靖著『あすなろ物語』。浪人時代は、大阪の中之島図書館に入り浸っていた。

「本を読むようになったのは、ものすごい読書家だったおやじの影響です。愛媛県の田舎の農家の生まれですし、20歳で徴兵されましたから、上の学校には行けなかった。けど、勉強したかったんでしょうね。自分は言葉を知らないというので、一生懸命、小説を読んだ。森鴎外の『雁』とか『澁江抽齋』。トルストイの『戦争と平和』。20代は独立するために懸命に働きながら、とにかく小説を読んだそうです」

『ベルグソン全集』やカントも読む父は、酔うと帰りに子ども向けの世界文学全集などから2、3冊ずつ買ってきた。『秘密の花園』『巌窟王』。中でも忘れがたいのが『赤毛のアン』だ。

「おやじが『赤毛のアン』を読みながら、いつも同じところにくると泣いていたのを覚えています」

 大学ではテニスに没頭、卒業して広告代理店に入ってからも本を読む時間のない生活を送っていた。作家になろうと考えたのは、重症のパニック障害を患い、会社に行けなくなってからのことだ。

「自分に何ができるか考えたとき、小説書いてみようかなあ、という考えが浮かんだんですね。たまたま書店で文芸誌を手に取ったことと、自分はたくさん小説を読んできた、という思いがありましたから。結婚して子ども2人いて、普通に考えたら正気の沙汰じゃない。病気にならなかったら、多分小説家になろうなんて考えなかったでしょうね」

 同人誌を主宰する池上義一氏に紹介され、才能を見出される。1977年に「泥の河」で太宰賞を、翌1978年「螢川」で芥川賞を受賞するが、直後に結核で2年間の療養生活を余儀なくされる。芥川賞の半年後には、『泥の河』『螢川』の版元である筑摩書房が倒産していた。

「ひどい話やなあと思ったけど、腹を立ててもしょうがないですから。若かったし、病気さえ治ればがんばってまた小説を書こうと、ほかの出版社から印税の前借りをしたりしてなんとか乗り越えました」

◆僕はいつも第一発見者

 健康を回復し、新聞連載のための海外取材もできるようになった後で取りかかったのが、「父と子」がテーマの「流転の海」だった。

「流転の海」に描かれる時間の中で、「泥の河」や、「螢川」など宮本氏がのちに書くことになる小説の核に出会っていることもわかる。

「大阪の、川と川にはさまれた中之島のはじっこで育って、毎朝、家の下を通るポンポン船の船長と会話をかわした。富山での生活や、尼崎のけったいな集合住宅で暮らした思い出。全部、人生のガラクタみたいなものやけど、そのガラクタがどれだけポケットに入っているかが作家にとっては大事なんやと思います」

 第五部『花の回廊』で、いわくありげな人々が集まる尼崎の集合住宅で暮らすようになった伸仁が、何か事件が起こるたびに居合わせるのも印象深い。

「あれ、ほんまのことなんです。『不思議な星廻り』というやつで、なぜか僕は目撃者か発見者になってしまう。近所の交番のお巡りさんに、『またおまえか!』とよう言われましたね。実際には事件はもっとたくさん起こってるんですけど、全部書くと小説っぽくなりすぎるので、厳選して3つだけ書いてるんです」

 目撃者になるのもひとつの才能だろう。奇妙な隣人の暮らしぶりを両親に事細かく語って聞かせる伸仁の姿に、のちの作家の片鱗が見られる。「流転の海」は、父の没落と入れ替わるように少年が作家へと成長していく物語としても読める。

 自分が知っているものをすべて伝えたいと、父はまだ幼い息子を能や歌舞伎、落語などにも連れて行った。

「子どもにしたら能や歌舞伎なんて全然面白くないですよ」と言いながら、「親から与えられたものは大きい」と宮本氏。作品の構成や語りの妙、要所要所の笑いなどは、伝統文化の影響を感じさせる。

 知的で粗野、獰猛で涙もろい、熊吾は複雑なキャラクターだ。多くの人をひきつけ、損得を度外視して人助けをする一方で、粗暴なふるまいで身近な人間の恨みを買い、そのことに気づかない。先見性があり、いち早くビジネスを立ち上げるのに、成功の手前で別のことに心を移す。信頼した人に騙され、ある時期からぷっつりツキに見放される。

「戦前には、多少のどんぶり勘定でも事業はできたということでしょう。あの人には1か所、穴が開いていて、戦後はその穴がどんどん大きくなり、水がじゃんじゃん漏れるようになっていった。なぜかはわからない。宿命という言葉でしか表現できません」

書斎にて

◆全共闘から平成までが一時代

「流転の海」は昭和22年から昭和43年までを描く。第一部では街に浮浪児や傷痍軍人の姿が見られるが、戦争の影は次第に薄くなる。政治の動きや自然災害、風俗や食べもの着るものに時代が映し出され、庶民の目がとらえた戦後史としても貴重な作品だ。

 最終巻の『野の春』で、昭和42年に熊吾はこんな述懐をしている。「ノモンハン事件までがひとつの時代。それ以後が、もうひとつの時代なのだ。そのもうひとつの時代が終わりつつある」。こうした時代把握は、宮本氏自身のものである。

「太平洋戦争の前と後で時代が変わったと僕は考えないんです。全共闘運動が始まった頃から、平成が終わるまでがまたひとつの時代で、さらに新しい時代が来るんじゃないか。

 この間、日本人が変わったとは思わないけど、高度経済成長期を支えた健全な中流階級というものがいなくなりましたね。一握りの富裕層と、生活がおぼつかない人たちがいて、そのあいだの層がものすごく薄くなってしまった。

 一番、影響を受けるのは文化です。月に2、3回は映画を観よう、本でも読もうという人が減る。経済的な余裕がないと、文化は育ちません。年号が変わったからってただちに世の中が変わるわけではないですけど、どんな時代が来るのかなと思います」

『野の春』の終盤、送られた精神科病院で、付き添っていた房江と伸仁が少し眠った間に熊吾は逝く。遠慮のない母子の会話や、病院患者の描写が秀逸で、厳粛な場面なのになんとも言えないおかしみがある。

「お涙頂戴は好きじゃないので。それに実際、あの通りだったんです。一睡もせずに迎えた朝、ガラス越しに日差しが射してて、ぽかぽか暖かくて気持ちいいから、つい寝てしまった。『何のためにおまえは!』『お母ちゃんかて、寝たらあかんて言うてたやんか』。2人で喧嘩してる場合やないのにね(笑い)」

 熊吾の葬儀に参列するのは14人。戦前の隆盛を思えば寂しい数だが、全員が熊吾を慕い、熊吾から与えられたものを受け継ぎ、命をつなぐ人たちである。

『野の春』を読み終えて、「流転の海」ロスになった、という読者がいるそうだ。しかたなく第一部を開いたら、気力あふれる50代の熊吾が大阪駅に降り立ち、闇市を見ているところだった。「命は循環している。『流転の海』の意味がやっとわかった」という手紙が宮本氏に届いたそうだ。

「『終わり』で終わらない小説が書きたかった。37年間、そのことばかり考えていました。僕はノートも何もつけてませんけど、全部計算した人がいて、登場人物が1252人で、死んだ人が52人いるそうです。ようそんなん数えるわ(笑い)」

 人が生きて死ぬとはどういうことか。第一部のあとがきで、作家は「自分の父をだしにして、宇宙の闇と秩序をすべての人間の内部から掘り起こそうともくろみ始めた」と書き、その「大望」はみごと果たされた。

「流転の海」を完結させた宮本輝氏

●みやもと・てる/1947年、兵庫県神戸市生まれ。追手門学院大学文学部卒業。広告代理店勤務を経て、1977年「泥の河」で太宰治賞、翌年「螢川」で芥川賞を受賞。『錦繍』『優駿』『骸骨ビルの庭』など著書多数。2010年、紫綬褒章受章。

■取材・文/佐久間文子(文芸ジャーナリスト)

※週刊ポスト2019年1月11日号


宮本輝 流転の海

2020-05-02 09:37:42 | 文学
Facebookの坂本さんの文章を借用しました。
 
 
宮本輝氏 「私の流転人生は“終わり”で終わらない」
2019年1月5日 07:00NEWSポストセブン


 執筆開始から37年。芥川賞作家・宮本輝氏(71)の自伝的大河小説「流転の海」が、昨年10月刊行の第九部『野の春』(新潮社刊)をもって遂に完結した。自身の父親をモデルにした松坂熊吾とその家族が戦後を懸命に生きる物語は登場人物1200人を超える壮大な人間ドラマに成長し、多くの読者がその歩みを見守ってきた。完結直後は高揚して自分で自分を褒め、その後は「流転の海ロス」に陥ったと笑う宮本氏に、作品に込めた想いを伺った。


 ライフワークの「流転の海」をどう終えるかは、第七部『満月の道』を書いた時点ですでにイメージができていたと宮本輝氏は語る。


「最終巻の『野の春』を書き終えたのが昨年の4月6日。気がつけば頭にあったラストの5行を書いてたんです。『。』を打って、『あれ? 終わったがな』(笑い)。それでようやく『流転の海』が完結したとわかって、『すごい! やった! ついにこの日が来た』と感慨がこみあげてきました」


 主人公の松坂熊吾は宮本氏の父、妻・房江は母を、一人息子の伸仁は宮本氏自身をモデルにしている。50歳で初めて長男を授かった熊吾が、息子の成人を見届け、71歳で亡くなるまでの波乱に富んだ人生を描く。当初は全3巻の予定が構想は膨らみ、全9巻、400字7000枚の大長編に成長した。一家にかかわる登場人物は1200人以上。34歳から書き始め、擱筆(かくひつ)したときは奇しくも父が亡くなった71歳になっていた。


「体が弱く、『20歳まで生きられない』と言われた僕が、37年間も健康で小説を書き続けられたことに感謝したい。5巻を過ぎた頃から、未完に終わるかもしれないというプレッシャーがきつかった。未完では読み続けてくれた読者にあまりにも申し訳ない。なんとか責任を果たせて、『宮本くん、君はえらい』と自分を褒めました(笑い)」


「やった! 終わった!」と夫人に伝えたが、あいにく夕飯の支度中で「いま火を使ってるから後にして」と言われてしまう。支度が終わる頃合いで改めて報告、2人で「完結」を祝った。


◆小説で父の仇を討つ


 熊吾は戦前、中国との貿易で成功して財を築くが、日本が戦争に突入し、敗戦ですべてを失う。焼け跡の大阪で、進駐軍の将校を抱き込み、自動車の中古部品販売業で再起を期す。


 同じ頃、4人目の妻である房江との間に、あきらめていた子どもを授かる。「俺は、この子が二十歳になるまで生きているだろうか」。祈りにも似た問いが熊吾の胸にきざす。


「もし両親が『流転の海』を読んだら? 『こんな恥ずかしいこと書いて』って叱られたでしょうね。でも小説ですから。フィクション8割、本当にあったことが2割と思ってください。


『流転の海』は、歴史上の人物でもなんでもない、名もない人々が戦後をどう生きたかの小説です。『小説でおやじの仇を討ったる』と思ったこともあるけど、結局のところ、熊吾、房江、伸仁の3人は狂言回しで、無名の庶民の生老病死をめぐる壮大な劇を描いたんだと思います」


 並みはずれて愛情深い父親でありながら、荒ぶる神のような熊吾を中心に物語は進むが、次第に房江の存在感が増してくる。不幸な生い立ちのせいで先の心配ばかりしてアルコール依存症になる房江だが、夫の裏切りを知って自殺未遂を起こした後は、生まれ変わったようにたくましくなる。2人のキャラクターには、現実の両親の性格が反映されているという。


 宮本氏は、小説の伸仁と同じ、昭和22年生まれ。いわゆる団塊の世代だ。病弱で、両親に溺愛されて育ち、父の事業の失敗で一時期を富山で暮らしたり、父の妹のもとに預けられたりしたのも小説の通りだ。


 母が自殺を図った夜、押し入れの中で読み続けたのが井上靖著『あすなろ物語』。浪人時代は、大阪の中之島図書館に入り浸っていた。


「本を読むようになったのは、ものすごい読書家だったおやじの影響です。愛媛県の田舎の農家の生まれですし、20歳で徴兵されましたから、上の学校には行けなかった。けど、勉強したかったんでしょうね。自分は言葉を知らないというので、一生懸命、小説を読んだ。森鴎外の『雁』とか『澁江抽齋』。トルストイの『戦争と平和』。20代は独立するために懸命に働きながら、とにかく小説を読んだそうです」


『ベルグソン全集』やカントも読む父は、酔うと帰りに子ども向けの世界文学全集などから2、3冊ずつ買ってきた。『秘密の花園』『巌窟王』。中でも忘れがたいのが『赤毛のアン』だ。


「おやじが『赤毛のアン』を読みながら、いつも同じところにくると泣いていたのを覚えています」


 大学ではテニスに没頭、卒業して広告代理店に入ってからも本を読む時間のない生活を送っていた。作家になろうと考えたのは、重症のパニック障害を患い、会社に行けなくなってからのことだ。


「自分に何ができるか考えたとき、小説書いてみようかなあ、という考えが浮かんだんですね。たまたま書店で文芸誌を手に取ったことと、自分はたくさん小説を読んできた、という思いがありましたから。結婚して子ども2人いて、普通に考えたら正気の沙汰じゃない。病気にならなかったら、多分小説家になろうなんて考えなかったでしょうね」


 同人誌を主宰する池上義一氏に紹介され、才能を見出される。1977年に「泥の河」で太宰賞を、翌1978年「螢川」で芥川賞を受賞するが、直後に結核で2年間の療養生活を余儀なくされる。芥川賞の半年後には、『泥の河』『螢川』の版元である筑摩書房が倒産していた。


「ひどい話やなあと思ったけど、腹を立ててもしょうがないですから。若かったし、病気さえ治ればがんばってまた小説を書こうと、ほかの出版社から印税の前借りをしたりしてなんとか乗り越えました」


◆僕はいつも第一発見者


 健康を回復し、新聞連載のための海外取材もできるようになった後で取りかかったのが、「父と子」がテーマの「流転の海」だった。


「流転の海」に描かれる時間の中で、「泥の河」や、「螢川」など宮本氏がのちに書くことになる小説の核に出会っていることもわかる。


「大阪の、川と川にはさまれた中之島のはじっこで育って、毎朝、家の下を通るポンポン船の船長と会話をかわした。富山での生活や、尼崎のけったいな集合住宅で暮らした思い出。全部、人生のガラクタみたいなものやけど、そのガラクタがどれだけポケットに入っているかが作家にとっては大事なんやと思います」


 第五部『花の回廊』で、いわくありげな人々が集まる尼崎の集合住宅で暮らすようになった伸仁が、何か事件が起こるたびに居合わせるのも印象深い。


「あれ、ほんまのことなんです。『不思議な星廻り』というやつで、なぜか僕は目撃者か発見者になってしまう。近所の交番のお巡りさんに、『またおまえか!』とよう言われましたね。実際には事件はもっとたくさん起こってるんですけど、全部書くと小説っぽくなりすぎるので、厳選して3つだけ書いてるんです」


 目撃者になるのもひとつの才能だろう。奇妙な隣人の暮らしぶりを両親に事細かく語って聞かせる伸仁の姿に、のちの作家の片鱗が見られる。「流転の海」は、父の没落と入れ替わるように少年が作家へと成長していく物語としても読める。


 自分が知っているものをすべて伝えたいと、父はまだ幼い息子を能や歌舞伎、落語などにも連れて行った。


「子どもにしたら能や歌舞伎なんて全然面白くないですよ」と言いながら、「親から与えられたものは大きい」と宮本氏。作品の構成や語りの妙、要所要所の笑いなどは、伝統文化の影響を感じさせる。


 知的で粗野、獰猛で涙もろい、熊吾は複雑なキャラクターだ。多くの人をひきつけ、損得を度外視して人助けをする一方で、粗暴なふるまいで身近な人間の恨みを買い、そのことに気づかない。先見性があり、いち早くビジネスを立ち上げるのに、成功の手前で別のことに心を移す。信頼した人に騙され、ある時期からぷっつりツキに見放される。


「戦前には、多少のどんぶり勘定でも事業はできたということでしょう。あの人には1か所、穴が開いていて、戦後はその穴がどんどん大きくなり、水がじゃんじゃん漏れるようになっていった。なぜかはわからない。宿命という言葉でしか表現できません」


書斎にて


◆全共闘から平成までが一時代


「流転の海」は昭和22年から昭和43年までを描く。第一部では街に浮浪児や傷痍軍人の姿が見られるが、戦争の影は次第に薄くなる。政治の動きや自然災害、風俗や食べもの着るものに時代が映し出され、庶民の目がとらえた戦後史としても貴重な作品だ。


 最終巻の『野の春』で、昭和42年に熊吾はこんな述懐をしている。「ノモンハン事件までがひとつの時代。それ以後が、もうひとつの時代なのだ。そのもうひとつの時代が終わりつつある」。こうした時代把握は、宮本氏自身のものである。


「太平洋戦争の前と後で時代が変わったと僕は考えないんです。全共闘運動が始まった頃から、平成が終わるまでがまたひとつの時代で、さらに新しい時代が来るんじゃないか。


 この間、日本人が変わったとは思わないけど、高度経済成長期を支えた健全な中流階級というものがいなくなりましたね。一握りの富裕層と、生活がおぼつかない人たちがいて、そのあいだの層がものすごく薄くなってしまった。


 一番、影響を受けるのは文化です。月に2、3回は映画を観よう、本でも読もうという人が減る。経済的な余裕がないと、文化は育ちません。年号が変わったからってただちに世の中が変わるわけではないですけど、どんな時代が来るのかなと思います」


『野の春』の終盤、送られた精神科病院で、付き添っていた房江と伸仁が少し眠った間に熊吾は逝く。遠慮のない母子の会話や、病院患者の描写が秀逸で、厳粛な場面なのになんとも言えないおかしみがある。


「お涙頂戴は好きじゃないので。それに実際、あの通りだったんです。一睡もせずに迎えた朝、ガラス越しに日差しが射してて、ぽかぽか暖かくて気持ちいいから、つい寝てしまった。『何のためにおまえは!』『お母ちゃんかて、寝たらあかんて言うてたやんか』。2人で喧嘩してる場合やないのにね(笑い)」


 熊吾の葬儀に参列するのは14人。戦前の隆盛を思えば寂しい数だが、全員が熊吾を慕い、熊吾から与えられたものを受け継ぎ、命をつなぐ人たちである。


『野の春』を読み終えて、「流転の海」ロスになった、という読者がいるそうだ。しかたなく第一部を開いたら、気力あふれる50代の熊吾が大阪駅に降り立ち、闇市を見ているところだった。「命は循環している。『流転の海』の意味がやっとわかった」という手紙が宮本氏に届いたそうだ。


「『終わり』で終わらない小説が書きたかった。37年間、そのことばかり考えていました。僕はノートも何もつけてませんけど、全部計算した人がいて、登場人物が1252人で、死んだ人が52人いるそうです。ようそんなん数えるわ(笑い)」


 人が生きて死ぬとはどういうことか。第一部のあとがきで、作家は「自分の父をだしにして、宇宙の闇と秩序をすべての人間の内部から掘り起こそうともくろみ始めた」と書き、その「大望」はみごと果たされた。


「流転の海」を完結させた宮本輝氏


●みやもと・てる/1947年、兵庫県神戸市生まれ。追手門学院大学文学部卒業。広告代理店勤務を経て、1977年「泥の河」で太宰治賞、翌年「螢川」で芥川賞を受賞。『錦繍』『優駿』『骸骨ビルの庭』など著書多数。2010年、紫綬褒章受章。


■取材・文/佐久間文子(文芸ジャーナリスト)


※週刊ポスト2019年1月11日号