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万里の長城を越えて中国を支配した征服王朝

2018-06-15 18:50:18 | 歴史
歴史的に北方の庶民族は、北京を首都とした。

916年唐が滅亡すると、混乱に乗じて耶律阿保機(やりつあぼき)が契丹(キッタン・キタイ)人の遼を建て、
北の女真、西北部の西夏、ウイグル、突厥、沙陀族を征服し、東北部の渤海や烏古を滅ぼした。
首都は南京幽都府である。

南に進出し北宋と和睦すると、毎年多額の金銀財宝を贈られることになる。
これがきっかけで上層部が堕落し、1125年ツングース系の女真人の金に滅ぼされた。

金の建国者は完顔阿骨打(わんやんあぐた)で、首都を中都大興府に置いた。
1127年天祚帝は北宋を滅ぼし淮河以北の華北を支配した。

1215年モンゴル帝国(元)の初代皇帝チンギス・ハンが金を攻略して中都大興府を占領すると、
1264年に5代皇帝フビライ・ハンがこの地を首都にして大都と改称。その後は元の首都になった。

1616年には女真族のヌルハチが満州族を統一してハン(汗)位につき、国号を後金と号した。
第二代ホンタイジは内モンゴルを征討すると、1636年李自成が明を滅ぼしたのに乗じて中国内地に進出し北京を都として清を建国した。
以後1912年、中華民国が樹立され宣統帝(溥儀)を最後に清は276年で幕を閉じた。

首都名が南京幽都府・中都大興府・大都・北京と王朝ごとに違うが、みな北京のことである。
北方民族が北京を支配した時間は、合わせて約750年。中国のそれよりはるかに長い。


食料の確保、徴税の基盤の農耕社会、その点で北京は外せない土地だった。

漢民族のシナ(China)は語源が秦(Chin)で世界の中心のみんぞくという事で自らを中国人と呼ぶ。
それに対して北方民族のキタイ(Cathay)の遼・金・元・清は万里の長城以北の自らのエリアは、
血のつながりを中心とする自治社会を作り、万里の長城以南の中国領は中央政権という
二重統治体制をとり、自国民と漢民族の統治方法を使い分けた。