柳田國男が書いた遠野物語に迷い家(まよいが)について記述がみられる。
ある魯鈍な女性が蕗採りで時間を忘れ探すうち、山の奥地へ入っていった。
そこに立派な黒い大きな門の家があり、庭にはたくさんの赤白の花が咲いていた。
たくさんの牛がいる牛小屋があり、駿馬を置く馬舎もあった。
囲炉裏には沸騰している鉄瓶がかけられていたが、誰もいない。
ある部屋には、黒塗りと朱塗りのお椀がたくさん置いてあった。
女性は気味が悪くなり急いで家に戻った。
しばらく日にち過ぎて川で洗い物をしていると、上流から朱塗りのお椀が流れてきた。
なんと、そのお椀で米を量るといつまでも米の尽きることがなかった。
それからその女性の家は村一番の素封家になったそうだ。
このように道に迷い立派な家を発見すると
その家から何かひとつ家のものを持ち帰って良いという習わしがあった。
件の女性は魯鈍で、なおかつ欲がなかったので
なるべくしてお金持ちになったのであろう。
このような隠れ里ともいうが、迷い家にもう一度行こうとしても
絶対にたどり着けないという結果になるところも話の共通点である。
別の話では、迷い込むとたいそうもてなしを受けるが
決して生きて帰ることができないというエピソードや
川が酒でできていたり、色とりどりの花々が咲き誇っている光景もよく見ることができる。
このような荒唐無稽な話も含め、日本人の心の奥底には
毎日同じルーティーンの繰り返しに疲弊し
あくせく働いてもいつまでも得られない幸福感に失望し
できれば行ってもみたいという漠然とした理想郷があるのではないのだろうか。
ある魯鈍な女性が蕗採りで時間を忘れ探すうち、山の奥地へ入っていった。
そこに立派な黒い大きな門の家があり、庭にはたくさんの赤白の花が咲いていた。
たくさんの牛がいる牛小屋があり、駿馬を置く馬舎もあった。
囲炉裏には沸騰している鉄瓶がかけられていたが、誰もいない。
ある部屋には、黒塗りと朱塗りのお椀がたくさん置いてあった。
女性は気味が悪くなり急いで家に戻った。
しばらく日にち過ぎて川で洗い物をしていると、上流から朱塗りのお椀が流れてきた。
なんと、そのお椀で米を量るといつまでも米の尽きることがなかった。
それからその女性の家は村一番の素封家になったそうだ。
このように道に迷い立派な家を発見すると
その家から何かひとつ家のものを持ち帰って良いという習わしがあった。
件の女性は魯鈍で、なおかつ欲がなかったので
なるべくしてお金持ちになったのであろう。
このような隠れ里ともいうが、迷い家にもう一度行こうとしても
絶対にたどり着けないという結果になるところも話の共通点である。
別の話では、迷い込むとたいそうもてなしを受けるが
決して生きて帰ることができないというエピソードや
川が酒でできていたり、色とりどりの花々が咲き誇っている光景もよく見ることができる。
このような荒唐無稽な話も含め、日本人の心の奥底には
毎日同じルーティーンの繰り返しに疲弊し
あくせく働いてもいつまでも得られない幸福感に失望し
できれば行ってもみたいという漠然とした理想郷があるのではないのだろうか。