僕の感性

詩、映画、古書、薀蓄などを感性の赴くまま紹介します。

秀吉の地位

2007-10-03 22:44:22 | Weblog
なぜ秀吉は征夷大将軍でなく、関白だったのでしょうか?
武門の棟梁という意味では、征夷大将軍が最も魅力的なはずです。
そこで備後の足利義昭を訪ね、猶子になれるよう願い出ますが、断られてしまいます。無理やり家系図を作り変えるには、父の出生が農民なので不可能でした。
近衛前久が関白を退いたあと、二条昭実が関白になりましたが、対抗馬の人物に猛烈に反対されて二条昭実は罷免されてしまいます。
このとき右大臣の菊亭晴季が秀吉に関白就任を勧めました。
結局、秀吉は近衛前久の猶子となり、近衛氏すなわち藤原姓になって関白になることができたのです。 めでたし、めでたし。

寒河江(さがえ)

2007-10-03 21:46:54 | 歴史
山形県のほぼ中央に位置し、サクランボで有名な寒河江市はご存知でしょうか?
寒河江は、古くから寒河江川に沿って開けた農村地帯でした。
鎌倉時代の初めに、大江広元がこの地方の地頭に任命されました。
広元は京都から鎌倉に下った学者で、幕府の政治組織を整備して源頼朝に気に入られた人物です。「寒河江」の地名は彼がつけたといわれています。
川を集落と集落の境界線にすることがありますが、こうした川を「境川」とよんだりします。「寒河江川」はもともと「境川」であったと推測できます。
ところが、境川のまわりを領有した大江広元は自分の領地に優雅な名前をつけようと考えました。京都や鎌倉よりもはるかに寒いことから「寒い川」を意味する言葉をあれこれ考えました。
そのため「寒い」に河川をあらわす「河」と「江」とをあわせた寒河江の地名が作られました。「江」は広元の姓の大江の江でもあります。
広元の子孫で寒河江を本拠地とした家は苗字を寒河江とするようになりました。
大江広元の子孫のうち安芸国に土着したのが「中国地方の雄」毛利氏であります。
因みに、私の親戚は寒河江の大江という苗字です。毛利氏とのつながりがあるとは聞いていましたが、納得いたしました。